えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・点滴まであと何分

2016年07月23日 | コラム
 予約の取りづらくなったかかりつけの医者に予約を入れて携帯電話を閉じた。時間まではあと一時間半ほどある。とはいえ午前中の予約を取るには朝六時直前に起きてリダイヤルボタンを十分ほど連打し、辺りに気を払いながら音声ガイドの指示に集中しなければならないので昼間の予約はまだ気が楽だった。朝から文字にしづらい下世話な状態に見舞われてそれでも勤め人のあさましさ、仕事に出たはよいものの空っぽの胃では頭もろくに働かず、悪くなる一方の体調を抱えて帰路に着いた道中である。立ち寄った喫茶店で店主に断りを入れてから電話をかけて予約を入れた。機械的な女の声に従って診察券に書かれた番号を二つ折り携帯電話のボタンで入力しながら、スマートフォンでは操作がやりづらそうだと余計な事を思った。

「今日はどうしましたか」前髪を切りそろえた受付嬢に症状を伝えると、普段渡される体温計の代わりにマスクを渡された。体温はどうでもいいらしい。たどたどしく症状を喋ろうとする患者へ「詳しいことは先生に伝えてくださいねー」と事務的なやさしい声で伝え、彼女は予約が取れていないと繰り返す初老の男をなだめる仕事に戻った。私の名前が呼ばれたのはその直後で、少し髪に白いものが混じった医者へ久々にお目通りした。質問に押されるかたちで症状をとつとつと伝えると、医者は丸顔をしかめながら「つらかったでしょうね」と言って点滴を受けるよう看護師に指示をした。

 注射も点滴も腕に針を刺す過程は同じなのだが点滴のほうが気楽なのは寝そべったまま受けられるからという一点からだろうか。上を眺めて液体が管をつたって少しずつ腕に落ちてくる様子を見ているうちに気づくと眠ってしまう時間の進め方と、液体が身体に直接行きわたる過程が感じられるのが面白いのかもしれない。眼鏡の看護師がアルコールで湿った脱脂綿を腕に塗り針を刺した。それから針に管を繋ぐ。私は液体の入ったパックを見上げて微動だにせず待っている。雫が一滴一滴圧力と重力で落ちて管を流れ出した。「あっ」と小さく看護師が声を上げる。「ごめんなさいねえ」と脱脂綿で拭き取った先には、五百円玉ほどの血だまりが出来ていた。
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・足に靴

2016年07月09日 | コラム
 何もないように見える床でよく躓いた。カーペットのわずかな重なりに靴先が引っかかることもあれば、硬いタイルの隙間へ親指が嵌り爪先にこつんと靴が当たることは時々あった。些細なお笑いやご機嫌取りと見て眉を顰める人もいたが当人は理由もなくただ躓いていただけである。カーペットを剥ぐ勢いで転ぶことも無く、靴先に当たる小石を蹴飛ばしそびれたように身体がわずかに傾いてしまう。

「よく躓かれるでしょう」と、足の型を紙に取りながら靴屋の店員は言った。そうです、と答えると彼女はペンを脇に置くと手を私が足を乗せている台へ置いた。尺取虫のように掌底を床に当て、長い指がばらばらと折れて床に付く。「足もこうして指を使って歩くんですよ。だから土踏まずも出来るんです」両手を使って彼女は手を歩かせてみせた。歩き方の問題か、と訊くとそうだと頷いた。

 ローファーを履いて階段を駆け上る学生時代、片足から靴が脱げて階段に取り残され、下から押し寄せる迷惑げな顔の群れから視点を避けながら靴を履き直して階段を上った。ローファーが別の靴に代わってもそれは変わらず、留め具のない靴を履いて急ぐと必ずと言っていいほど道中で靴が脱げる。一度足にぴったりと合わせるという売り文句で評判の靴屋で文字通りぴったりとした靴を買ったが、一日履いて全治三週間の靴擦れが三回出来たので靴を履くことを諦めた。

「というわけで、留め具のある靴以外は履かなくなりました」「全治三週間ですか」靴の型を取り終えた店員は紙に数値を書き込んでいた。旧家を改装した店舗の中庭に敷き詰められた緑の苔が薄く降り続く雨に濡れて艶めいている。店員は私の裸足の足を持ち上げて矯めつ眇めつすると、やがて店の奥に入り靴を選び始めた。私は庭に降る雨粒を黙って王様のように高い椅子の上で眺めていた。
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