えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・どこか遠くに顔合わせ

2023年12月31日 | コラム
 二十八日に私の勤め先では四年ぶりの顔を合わせた仕事納めの集まりがあった。集まった人数は過去と比べれば少なくなった上、出勤していても締め日の仕事が立て込んでいる人は席を立つ余裕もなく働いていた。幸い今年できる限りの仕事を終えることが出来たので私は参加することができたものの、人によっては参加を望まず席にいつづけたい人もいるだろうと思う。何だかんだと直接顔を合わせなければならないからだ。ただし仕事納めは会社の費用でお酒が出るので、役職の高い方でも口は緩み普段の顔とは違う朗らかな笑顔で人に呼びかけ人を集めて皆それぞれ語り出す。中締めに向かうにつれて話の種がなくなり中弛みの雰囲気も懐かしかった。私も年下の知らない社員となんとはなしに話し込み、久しぶりに表情筋が動いた感触を覚えた。

 私の勤め先はそれなりに社員数が多く、運と社員の努力に恵まれてトントン拍子に会社が大きくなり、現在は新入社員も私が入社したときの倍取るようになったらしい。辞める人数も比例して多くなったものの割合は私の入社時とあまり変わりは無いように思える。それだけに部署ひとつひとつが大きめの中小企業並みの人数を抱えており、そのために全社員が一同に介して交流する機会もない。かつては夏に納涼会が開かれ、中型のクルーズ船を貸し切りにしたりイベント会場を貸し切りにしたりと全社員の慰労を兼ねた交流会が開かれていたが、無駄という大義名分のもとイベントが嫌いな社長に変わってからはやめてしまった。コロナの時代が訪れてからはなおさら社内の人間同士がお互いの仕事を知る機会は薄れていった。まだその余波は消えていない。入社前の方が会社についてよく調べる分、会社全体の事情については詳しいかもしれないほど会社に居続けるにつれて帰属感は薄れていくものかもしれない。仕事納めの再開は当然新しい社長の一存でもあるだろうが、存外社員の皆々も望んでいるのかもしれないと思いながらジンジャーエールで乾杯した。仕事始めは仕事始め以外の用がないためおとなしく家で過ごすとして、来年は社内の横の繋がりをまた見てみたいような思いに駆られている。同期の子育てが緩やかに山を登り始めて孤独を味わっているからなのだろう。

 とまれ私の所属先が巨大な組織であることは理解できた。マンションよりも壁が分厚い大勢の人たちをどれだけ知ることが出来るか、どれだけ話すことが出来るか、残り少ない会社人人生を「楽しむ」方へと務め方を変えてみることも考えさせられている。無機物の生き物か有機体の集合体か。未だに答えを出しかねている。

 本年も本ブログにお付き合いいただきましてありがとうございます。曜日を決めてといいながら何だか締め切りを破ってばかりのいい加減が綻びからまろび出ながらもパソコンのキーを叩くという「書く」行為を辞めないのはいかなる理由があるのか自分でもわからないままキーを叩いておりますが(いずれ「筆を執る」の代わりの言葉になるでしょうか)、言葉と人の意思がなくならない限りそれは意味のあることではないでしょうか。
 一年間無事に過ごすことができましたことを誰彼と無く感謝いたします。
 そして来年もまた、何卒よろしくお願い申し上げます。
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・外へ出ない話

2023年12月23日 | コラム
 頭に煙がかかったかのようにぼんやりと、外を眺めるでもなく椅子にへたり込むように沈みきっていた。それが一週間も続いているとスマートフォンにも依存する。ちかちか光る明かりに目がくらむ。目がくらんで刺激を受けている間は自分が何かしているのだという錯覚に陥ることが出来る。時計の短針が何周も回って次の朝のために眠らなければならない時間が訪れる。それを繰り返すのは贅沢だ。短針を確認するまでもなく義務で過ごさなければならないと言いつつ部屋の隅に縮こまって毎日を凍えて過ごしている。指がかじかむ。足がつる。腱がひきつる。足下に水が迫るように年の瀬が来る。子供の頃から歳を重ねる月が来るごとに足下を何かに引っ張られて何かにくるまれるような感覚を覚えていた。歳月が被さるたびに私は自分が見えなくなる。自分が歳月に覆われて発酵し、歳月の重みを介さない人の前に曝け出されると剥がれるものが化けの皮、歳月が隠してくれていた矮人は日の光の下では笑いものとして生きていくしかない。延々と自分が笑われているという幻影に囚われながら誰も自分を見ていないという事実には気づかない。己に向かう目だけが肥大化した矮人は近眼になり遠くが見えなくなる。目が潰れるのはいつになるだろうか。
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・立ち話

2023年12月09日 | コラム
 時期柄「今年もお世話になりました」と挨拶して店を出ることが増える。一年ごとに人との関わり方が変わるのは今の年代だからだろう。家庭のあり方が生き方に繋がる。生き方と大仰なものではなく生活の仕方が変わる。変わらない方がおかしい。かつて出来ていたことが出来なくなる。当たり前のことだ。早起きが苦手になった。元からだ。外へ出かけて久しく足を運んでいなかった店に寄り、運良く店長さんが在店していたので長話になった。ここには詳細を割愛する。徹底した趣味と美的感覚をうれしそうに楽しそうに、赤く染めて整えた手指を振りながら店長さんはマスクからでもわかるほど目を細めて語っていった。体重を支える足が重くなるのを感じながら店長さんの話を聞いてこれもまた久しぶりに、人生は楽しんでよいものなのだとはっと目が開いた。楽しむためにこうしたものがあるんですよ、お客様に私は楽しんでもらいたいです。と商品に触れて眺めながら自分も商品のマヌカンとして立つ店長さんはいつお会いしても品物を楽しんでおり、そして私という買わない客と話すことを楽しんでいた。楽しいんです、と何度も伺う。ああ楽しんでよいのだ、人生は積極的に楽しいと感じてよいのだ、と店長さんの笑顔を見て私は静かに感動していた。帰宅するとあっという間に抜けてしまう感動を留めるために短く文章をまとめている。立ち話は二時間近くにもわたっていた。その間にも常連の客が来ていたので店長さんを独り占めにしてしまったことを申し訳なく思いながら、強く勧められた商品を買おうかどうかを今年最後の悩みに留めたいと思う。
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