えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・周辺の景色

2020年06月27日 | コラム
 およそ二か月ぶりに勤め先のビルへ出向き、手作業以外にはどうにもならない厄介事を片づけている昼休みに外へ出た。緊急事態宣言が発令された当日に昼食を頂いた店は、薄々と心配していた予想の通り店を閉めていた。今年に入って一度きりしかまだ行っていなかった店も看板を外してシャッターを下ろし、無念の思いのこもる貼り紙すらなく無味乾燥にそこからいなくなっていた。中年の夫妻が、カウンターと壁に挟まれた人ひとり分の幅ほどを効率的に行き来して作っていたカレーの味や、祖父と父と息子三人へのバトンが引き継がれて気持ちよく作られるラーメンの味は街からなくなった。そうした家族が作り上げていた小さな店たちの消滅を背景に、従業員を雇い守る余裕のある店たちが立っている。かなり人が戻ってきているおかげで表通りに面したその中華料理屋は変わらずに繁盛していた。古い店で、店内の壁には芸能人や有名人のサインが壁紙のように貼られている。

 珍しく初老の店主が私に話しかけてきた。白いあごひげと後ろで一つ結びにした白髪を切りそろえて整えた彼が何か話しかけてくることは、昼休みの忙しさもあって今までは一度もなかったので私はどぎまぎした。少し頭を働かせれば、話しかけるだけの余裕があるほど昼休みの客がいないということなのだが、話しかけられた内容はきっと今私のいる街へ勤めに来ている人たちと大差ないだろうことだった。「そう、辞めちゃったんだよ」。
「あの店も、この店も、閉店してしまいましたね」
「裏路地のほうもだいぶ無くなったよ。客を選んでやっているようなとこなんか」
「残念ですね」
「うん」
 入れ替わりはいつでもあるからね、ちょうどその時だったんですよ、と店主は話を締めくくり、私の注文したザーサイそばを取りに厨房へ行った。四月以前と同じ人たちが同じ人数働いている店に、また人が入ってきた。

 その人たちはいなくなったというわけではなく、その人たちが店を続けることができなくなったということが二か月の間にいっせいに起きて、互いに助け合うことすらままならず、先の見えない未来に少しでも希望を残すために決断した。レンガ風味の壁の間のシャッターや、窓の内側から貼られたA4のコピー用紙やメニューが街に堆積して昼休みの静けさへおもりのように沈んでゆく。何事もなかったかのように路上へ音楽を垂れ流しながら店を開けているチェーンのゲームセンターのプラスチックが目立つ外装が、ただうんざりと頭に突き刺さるばかりの道を通って昼休みを終え、私はその日の仕事を終えると在宅勤務のための荷物を持って、当面は来ることのできない街をあとにした。
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・けだるく歩かず

2020年06月20日 | コラム
 目覚めるととうに十時を過ぎていた。出かける予定を立ててはいたが、薄い皮膜のような眠気に覆われて何をするにも糸で吊られた手足を突っ張るようにぎこちない。睡眠時間を数値にすれば十分すぎるほどに毎日眠っており、一日のほとんどは家で過ごしているにも関わらず、体はすっかり疲れていた。疲れているはずもないのに疲れていた。冷やした水を二杯飲んで寝直すとすぐにまどろみから眠りに入った。夢うつつに起きて水を飲んでは眠り、飲んでは眠りを繰り返していると二時半になった。用事は支払いや買い物といったありふれたことどもだが、遠出をしなければならなかった。私は明日の休日に予定を分けることにして、着替えて外へ出た。日差しは曇り加減で帽子が暑苦しかった。
 家に居続けのおかげで却って張りつめたふくらはぎが歩くごとに緩み、駅へ着く頃には足はほどほどにほぐれていた。人出は多い。二週間前のおっかなびっくりした距離感をすっかり忘れたかのように肩をぶつけあい列に並び、喫茶店は満員だった。それでも一月二月と違い、道行く人の殆どの顔から下は白いマスクで隠れていた。手縫いの華やかな模様のマスクをつけた人もいる。誰もが歩いてどこかに向かう。少し考えて、私は電車に乗ることにした。大して歩いていないにも関わらず、もう膝から下が重く沈むように疲れ始めていた。
 電車に乗るとマスクを付けない女がはす向かいに座っていた。マスクをつけた人々は平然と女の左右に腰かけている。女は小花柄のワンピースを着て、肩ほどの髪は結ばずに下ろしていた。身体を前に傾けて膝の上に肘を置いて頬杖をつき、髪の下から白いイヤホンのコードが左手に握られたスマートフォンへつながっていた。女は落ち着きなく黒目がちなどんぐり眼を左右に動かし、向かいに座る乗客の頭の上すれすれを掠めるように視線を走らせていた。仮に女の顔をじっと見つめていたとしても、女と目が合うことのない絶妙な位置へと彼女は視線を定め、耳から注入される音楽に合わせて首を上下させながら大人しく座っていた。目が大きく鼻は平たく、頬は少し垂れて、髪はつやがなく首にまとわりつき、時々唇を舌で湿らせながら彼女は音楽に聞き入っているようだった。
 電車の揺れで眠くなり、うとうとと目を閉じていくつか駅を過ぎたところで目を覚ますと、女はとうに電車を降りて、車内はマスクだけの人々になった。私の降りる駅はあと二十分先だった。
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・甲斐性云々

2020年06月13日 | コラム
 YouTubeを流しっぱなしにしていると突然言い争いが始まった。ラジオドラマか何かと思いきや、画面を見るとLINEの画面そっくりに作られた吹き出しの中身が交互に表示され、それを女性が声の高さを使い分けて喋り続けていた。話の内容は不倫を問いただす妻と逃げおおせようとする夫のやり取りで、出張だと言い張り妻を責める夫の罵声が聞くに堪えず音を消した。それでも普段使っているLINEの画面と似ているおかげで却って違和感はなくなった。返信の早い友人と雑談しているようなペースで次々に吹き出しが入れ替わる。妻の問い詰める姿勢は終始冷静で、夫の言い分を少しずつやり込めてゆく。しばらく眺めていると、とうとう妻が会社からの連絡という切り札を持ち出し、夫の言い分は破綻して会社へ、上司へ、妻へと言い訳をなすりつけることしかしなくなった。妻は淡々と離婚を言い渡し、弁護士を通すよう言い渡してLINEをブロックしたところで会話は終わり、続いて文章で後日談が語られて動画も終わった。
 LINEは機能の関係で一対多、多対多という表現の仕方が出来ないため、どの動画も表示される会話は一対一だ。話の構造も日常生活で起こりうるトラブルの隠された原因が、LINEのやり取りを通じて判明し、悪さをした側が成敗されるという懲罰的な展開が殆どだ。緑の吹き出しで表現される語り部(女性と男性の比率は半々)は、主に姑や不倫相手や配偶者から既に被害を受けており、その状態を解決する最初の一歩やとどめの一撃がLINEの会話となる。たとえば幼い子供を公園に放置して不倫相手の家へしけこんだ旦那は文字で「子供は自分の傍にいる」という内容を妻に納得させようとし、妻は一人で戻ってきた子供が傍にいると伝えて旦那を論破する。最終的には数百万もの大金という具体的な痛打が与えられる悪事は多種多様で飽きないが、時々身に迫る痛々しいものもある。
 どちらかといえば勧善懲悪よりも中世ヨーロッパや江戸時代によく行われていた「処刑の見物」で溜飲が下がるという娯楽に近いものだと思う。平たく言えば言葉で作られたサンドバッグだ。多少過激な感想でも悪人ならば問題はないという感覚は、動画を見ているこちら側の心にゆっくりと積もってその先は分からない。
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・新商品哀歓

2020年06月06日 | コラム
 昔、バスキンロビンズの十二個入りの箱を開けて最後まで取り残されているフレーバーがチョコミントだった。ポッピングシャワーなど着色料とりどりのアイスクリームとは明らかに異質の、「歯磨き粉に似た」においに狼狽し、手を付けずに時間が無駄に過ぎてアイスが溶けるころ、やむなく親が嫌そうに平らげてはお土産を持ってきた親戚へ軽く文句を言う。歳を重ねてからある時いきなりチョコミントを食べるようになったきっかけは忘れてしまった。かつて嫌いだった極端な薬臭さが薄れ、サクマのハッカドロップのようにミントの鼻を通る香気が自然のものに近くなったせいかもしれない。いずれにせよ一つの種類としてずっと食べやすくなったが、私の周りでは私しか愛好する人はいない。

 そのチョコミントアイスと共に、意外にもいちごアイスクリームを買う人がいるのだという。ならば融合させてしまえばよいと考え、実現にこぎつけた商品が赤城乳業「いちごチョコミント」だ。今年三月に発売された。公式サイトによると味はさっぱりわからなかったが、企画立案者は八年前に世を席巻した「ガリガリ君コーンポタージュ味」の発案者で、熱意のあまり企画提案を終えた後に倒れてしまったらしいと並々ならぬ意気込みが語られている。それだけ自信があるのならばさぞや売れているのだろうと在宅仕事の合間に散歩がてら近所のスーパーやコンビニを少しずつ回った。どこにも置いてはいなかった。インターネットで「いちごチョコミント」を検索すると予測候補に「どこ」「コンビニ」など、探索に苦労している人々の影が見え隠れする。会社の知人にこぼしたところ、次の日に自宅近所のスーパーで見つかったとの報告を受けた。「おいしいですか」とウェブサイトで自信なさげに問いかける前に味の売りをもう少し書いていただきたい。とにかくいちご果汁とチョコミントアイスクリームを融合させたという仕事っぷり一本を打ち出す姿勢は強気なのか弱気なのか読み切れない。

 意地でも味のレビューを読まないまま二か月近くが過ぎた。知る限りのスーパーとコンビニのアイスクリーム売り場を覗き込んだがない。各地で目撃情報の多いショッピングセンターの巨大なアイスクリームケースの中には昨年発売された「ラムレーズン」が大量に売られていたが肝心の「いちごチョコミント」の薄い桃色のパッケージはどこにも見当たらない。この「ラムレーズン」はアイスミルクながらラム酒の風味が効いていて、ハーゲンダッツの半額ながら舌触りもよく食べよかった。何度か通ったが「いちごチョコミント」が入荷される気配はいっこうにない。
 悶々と頭の片隅に探し物を入れていると、探し物に関連づいたものを探す視野も広がるようで、少し遠回りをしようと入った脇道の奥にさりげなく「ローソン+スリーエフ」の、生鮮食品を扱うスーパー並みに広い売り場があった。かなり前にもコンビニがあったように記憶しているが、店の前に地元の野菜を山積みにしている現在はそこがコンビニであることを忘れていたので通らなかったのだろう。その頃には発売から三か月が過ぎており、半ば期待薄く店に入った。数メートルほど離れたところからもわかるほど目立つ薄桃色のパッケージが置かれていた。店にあるだけを買い占めて溶けないようバスで帰宅する。

 冷凍庫でゆるんだアイスクリームをもう一度冷やし直し、おやつ時にいただいた。「あの風味」の代わりにいちご果汁の甘酸っぱさが効き、ミルクの濃さが夏の始まりには程よく、後味のミントが喉を過ぎる不思議な味わいだった。チョコミントに懐疑的な数人に食べさせたところ、半分がチョコミントを見直し、半分が「いちごチョコアイスではいけなかったのか」と意見が割れた。個人的にはひっそりと売れ続けて欲しいが、買いためたアイスを補充しようと同じ店に行ったところ、最後の売れ残りとおぼしき一つが他のアイスのパッケージの合間できまり悪そうに置かれているばかりだった。
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