えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・お茶の淹れ方

2020年08月29日 | 雑記
家に居続ける時間が続いているということは、それだけこの時期はとみに、飲み物が必要になる。
水道水が十分においしいので水だけでも満足だが、外へ出てペットボトル飲料を買いごみを増やすのも考え物のご時世のため、
安い茶葉を買って大量に煮出し、空きペットボトルやプラスチックの容器に詰めて冷蔵庫で冷やしている。
緑茶は確実に苦みが強くなるのでやめ、プーアル茶や紅茶など発酵した茶葉を適当にかき集めて煮出す。
中国茶は味と茶葉のえぐみが濃すぎる一煎目を棄てなければいけないので、まずは少量の水を沸騰させ、適当にティースプーンで
茶葉を放り込む。しばらく置いておくと鍋がごとごとと震えだし、アクの強いプーアル茶は特に、細かい粒の泡が鍋のふちまで
湧き上がるほど膨らむ。薄いチョコレート色の泡はクリームのように一見食べられそうにも見えるが、泡の間に浮かんでは沈む茶葉の立てる
香ばしいにおいがきつく鼻の奥を刺激する。

適度な茶こしがないのでザルにあける。お茶を煎れる・淹れるということばから想像される優雅な動作とは無縁の
夕飯のためにじゃがいもをゆでるような無造作でシンクに赤黒い液体が流れてゆく。紅茶の場合は蓋をして軽く蒸らすと味が濃くなる気がする。
茶葉をザルにあけて水を鍋いっぱいに足し、沸騰するまで待つ。あまり時間を空けずに湯が沸くので何か他のことをする余裕は
思った以上にない。小さな気泡が鍋の底から水面に浮きあがってはじける頃合いを見計らってザルの茶葉を入れる。
たまに跳ねた水が親指を焼くが気にしない。気にしていてはこんなに乱暴に茶葉を扱うことなどできない。
茶葉を入れて火をつけると泡の代わりに沈んだ茶葉が水の表面へ入れ替わり立ち代わり浮き上がり、開いた茶葉からあっという間に
茶が煮出される。濃い目が好きなので鍋の底が見通せないほど黒く煮出してから火を止める。たまに止め忘れて強火のままつけっぱなしで
茶葉に残った悪がさらにぶつぶつと泡を吹き出し、水がコンロにかかって火が消えてしまうこともあった。
忘れずに火を止めてザルとボウルへ注ぎ込むと黒々とした水がボウルに溜まり、蒸発した水が白い煙となって鍋の左右から消えてゆく。

こうして煎れた液体はほどほどに角が取れ、それぞれの茶葉の味を残しながらもさっぱりした風味の液体になる。
一応「茶」だと思ってはいるが、久しぶりに立ち寄った専門店の数揃った道具を前に入れられた茶を口にした後では、
砂糖のない清涼飲料水の一種として取り扱っている。
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・平穏な町

2020年08月22日 | コラム
 帰宅すると軽く吐き気を覚える。むくんだ足から靴を外してマスクを口から剥がし、冷房の効いた部屋に寝転がると口から吐く息がようやく冷える。八月の終わりにも関わらず町中の人々はマスクをつけており、中には色染めの手ぬぐいや模様の入った布で作られたものを服と合わせている洒落た人もいる。人通りの多い商店街やショッピングモールではマスクをしていない人がいないほど感染症の予防は親炙した。併せて七月一日から予定通り開始されたレジ袋の有料化のおかげで、手ぶらで歩く人も減った。皆かばんや薄いショッピングバッグを持って歩いている。

 買ったビニール袋をぶら下げて帰る途中のスターバックスの席が空いていたので、数か月ぶりに店先でコーヒーを飲むことにした。見た目にも涼しそうなレモン味の氷を乗せた水出しコーヒーは売り切れていたのでモカシロップを加えてもらう。甘いものが欲しかった。透明なプラスチックの壁ごしからコーヒーとストローを渡された時、少しだけ違和感を覚えたがそのまま席に着いた。ストローの包み紙を剥がすと、中からボール紙の棒が現れた。

 以前は確かに深緑色のプラスチックのストローだったものが無印良品の紙バッグのようなボール紙の筒に代わっていた。プラスチック削減のための苦肉の策らしい。透明なカップや暖かい飲み物のための蓋を守るためにストローをボール紙に変えることで削減には成功しているものの、ではスターバックスがストローを無くすためにかかった費用や時間に見合ったものは与えられるのか、と考えると、やらなければ罰則や悪評判に晒されるという消極的な理由のほかに見当たるものはない。ストローを口につけると段ボールの味がした。

 町は何事もなくマスクをつけてマイバッグに買い物を詰め込んでせわしなく行き交う。店先には消毒用のアルコールが設置され、その前に一度立ち止まり手を消毒してから買い物や食事をする。コップへじかに口をつけてジンジャーエールを飲み、ボール紙のストローで冷たいコーヒーを喉に流し込む。明確に訪れた変化の町中に張り巡らされている薄い緊張は弾けることもなく、新しい日常として浸透する。
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・『マカリーポン』雑感

2020年08月15日 | コラム
「マカリーポン」とはタイの妖精だ。木にぶら下がる果物ほどの小さな美女で、木からもぎ取ると七日で死ぬ。ミイラもあるらしい。死ぬ直前に「ワクワク」と鳴き、マカリーポンをもいだ男は四か月の間人事不省に陥るそうだ。と、『現代百物語』に書かれていたので、南国の妖怪譚かと気楽に構えて岩井志麻子の『マカリーポン』を開いたが案に相違して『現代百物語』の延長のような連作小説だった。

 新宿歌舞伎町に住む岩井志麻子が近所の奇妙な歳の離れた姉妹に目を留めるところから始まる。この姉妹も『現代百物語』に登場済みで、『マカリーポン』が二〇一二年の書き下ろし作品のためシリーズ1から3のどれかに書かれていた。それに岩井志麻子が下世話な妄想に近い想像で肉をつけ、語り部を務める。紙一重で単純な焼き直しに陥らないのは、彼女たちの物語を他の『現代百物語』のハナシと絡み合わせているためで、ひそやかに八話のハナシの裏側に立つ姉妹を名乗る二人の女の影が一冊の本をつなぎとめているのだ。

 物語は現実の岩井志麻子が送る日常と、彼女がメモとして書き留めたとされる短いハナシを一セットとし、時にハナシはハナシに登場する幽霊たちが彼女に書かせた体を取る。短いハナシの大半は『現代百物語』に登場するものだ。小説の強みはハナシを思う方向へ自由に決めつけてしまえることで、ハナシの登場人物はほぼ亡くなったとされる。ある意味手っ取り早い割り切りで怪談を次のハナシへあとくされなく渡すには都合が良い。第二の人生をタイの美女につぎ込み有り金とパスポートを巻き上げられて人生に絶望する男も、日本からタイに逃げて夜の店を成功させながら理不尽に殺される女も、金があると錯覚されて同じくタイに住む日本人に殺され「マカリーポン」の幻に抱かれながら死ぬ男も、皆どこかで日本のその姉妹に直接にしろ間接にしろ岩井志麻子を通じてにしろ集約されてゆく。

 後味は悪い。古典の怪談物語がいかに救いに溢れているか錯覚しそうなほど痛ましい。著者であり語り部の岩井志麻子がここで果たしているのは大手の葬儀屋のようにハナシの死骸を文章で飾り立て、ばらばらの縁のないハナシたちを一つの物語にまとめあげて送り出すことだ。日陰者の彼らを文章に仕上げたいという著者の欲望は嘲笑や軽蔑よりも時に惨い仕打ちとなる。

 第一章のハナコこと葉菜子は岩井志麻子の『チャイ・コイ』という作品の毒気に中てられ、作家への優越感を得るためだけに『チャイ・コイ』のモデルとなったベトナムの愛人を抱きに行く。ところが普通のOLの彼女の稼ぎでは岩井志麻子の財力に届かず、岩井志麻子の与える贅沢に慣れた愛人は金を求める。葉菜子の金は無くなる。けれども岩井志麻子を超えたい一心で彼に執着する葉菜子は金のためにOLを辞めて水商売の底辺におちる。ベトナムの愛人は歯並びが輝きそうな笑顔で志麻子のほうが金持ちだから好きだよ、と作家を慰める。葉菜子は死んだかもしれない、と、岩井志麻子はそれを締める。これが繰り返され「猛烈に選民意識の強い負け犬たち」は「マカリーポン」のごとく岩井志麻子の刹那的な食い物と化し、元のハナシの精彩を吸われて無味乾燥な姿で文字へ印刷されるのだ。

『マカリーポン』では最後に姉妹は住んでいるアパートの火災に巻き込まれてきれいに退場するが、現実の彼女たちがどうなったかは分からない。個人的には『マカリーポン』で実は母子だと結着される彼女たちよりも、『現代百物語』の下手な整形の目立つ顔ながら妹の容姿を貶める姉へ徐々に妹が似てきているというほうがより後味が悪いように思う。いずれにせよはかない妖精「マカリーポン」の「ワクワク」の断末魔はどこにも聞こえない。
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・あなたは猫のために、猫は猫のために

2020年08月08日 | コラム
 うずくまる青と黄色のオッドアイの白猫カルヴィンはヒスパニック系らしい黒髪と褐色の肌の女性の肩へ登り、窓を流れ落ちる雨に飛びつこうかと体をしならせている。その様子をスキンヘッドの男が今にもため息をこぼしそうな表情で見つめている。女性の首を踏んで窓枠に足を伸ばした猫よりも、動くことで猫に噛みつかれることを恐れる女性を彼は観察していた。『猫ヘルパー!~猫のしつけ教えます~』のプレゼンターのジャクソンが躾ける相手の大方は、猫ではなく人間だ。

 原題『My cat from hell』はいかにも猫が人間のコントロールを振り切って暴れ出したり昔は魔女の手下を務めていたりする印象たっぷりで、登場する猫たちはほぼ題の通り人間を片っ端から引っかいたり、あちこちに粗相をしたり、唐突に暴れ出したりと凶暴で落ち着きがない。けれども猫ヘルパーのジャクソンは臆せずに猫と向き合い、猫たちがそうした行動を取る理由を巧みに探り出す。時には爪が刺さるほどのひっかき傷を負いながら「これが僕の仕事です」と、穏やかに優しく、決して怯まずに接する。すると問題の大方は猫ではなく人間が猫に与える環境や態度であることが明らかになる。

 たとえば主人以外には誰彼構わず襲いかかる猫は、主人がまるで犬と遊ぶかのように大声を出したり猫をもみくちゃにしたりと猫の嫌いな方法で接するために人が苦手になり、部屋のあちこちにマーキングする猫には猫専用の遊び道具どころか決まった寝床や爪とぎすらなく、自分だけの場所を作るための不安からマーキングを繰り返すことが人間のジャクソンの口から解説される。猫と人間の問題を一通り整理すると、ジャクソンは人間へ「宿題」を出す。「宿題」は人間側が積極的に行動を改善するための具体的な手掛かりで、素直に従う飼い主もいればそうでない飼い主もいる。二週間後に様子を見て「宿題」を添削し、さらなる「宿題」を出して二週間後に最後の訪問を行う。アメリカらしさを感じるのは、ジャクソンを招く猫の飼い主の殆どが「問題を起こす猫を「ジャクソンが」どうにかしてくれる」と考えていることで、彼が来ればその日に猫が大人しくなるよい子になると思っていた、と真顔で語る飼い主には一周回って怖さを覚えた。

 白猫のカルヴィンは十三年もの長い間飼い主のアンブリーンを噛みつきと引っかきで悩ませていた。無論ジャクソンへも牙をむき、様子を見るために着た防護服の上からでもわかるほど強く彼を噛みつき、餌を見せられれば食べるが食べ終えればすぐに噛みつき、と、ジャクソンからしても「性質に問題があり」と言わしめた。けれども彼は猫に問題があると聞いてどことなくホッとした様子の飼い主へすかさず「あなたがカルヴィンの乱暴を問題視せず、猫を寝室から締め出しもしないことが一番の問題だ」とくぎを刺す。一度目の訪問後、彼女は「宿題」をほとんどこなさないことをやんわりとだが強く責められ、唯一行った投薬治療で落ち着いたカルヴィンへジャクソンが正しい接し方を懇々と説明したことでやっと自分が猫の問題であることを自覚する。ジャクソンの胸元には時々仏像のペンダントがぶら下がっており、彼も仏教徒を名乗っているが、毎回キャラクターの濃い飼い主(ある意味番組の最大の見どころだ)を猫のための人間へと改心させる様子は教師よりも僧侶のような辛抱強さと忍耐にあふれている。余談だが猫用の向精神薬があることと、その方法の選択が一般的であることはこの番組で知った。人間とは違う形で猫たちの心は複雑らしい。

 心を入れ替えた飼い主の献身によりカルヴィンは寝床で丸まる猫らしい落ち着きを取り戻し、ジャクソンが触れても爪ではなく鼻でこつんと彼の手に挨拶するほどの安定を手に入れた。飼い主もともに穏やかな心で猫を摘まむように撫でている姿を、目を細めてジャクソンが見つめている。
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・『雨月物語』『現代百物語』シリーズ 雑感

2020年08月01日 | コラム
 岩井志麻子の『雨月物語』は、上田秋成の原作の筋書きを大事に抱きつつ、全ての小説を時には元の小説には登場しない女たちに語らせることで元の怪談を俯瞰する仕組みが秀逸だ。赤裸々で生ぐさい女くささを前面に打ち出すのは性別を問わず誰でもたやすい作業だが、梅雨の湿気のように絡みつく情念を素直に嫌みなく書き出すのはむつかしい。岩井志麻子本人の抱える真摯な多情の温度が、語り部の女たちを一人一人際立たせているため、『雨月物語』へ新たに現れた彼女たちは「女」のステロタイプを逃れて女でいられる。中でも『現代百物語』の幾つかで作家が好きな話だと挙げている「吉備津の窯」の語り部が、人物としても怪異のひとつとしても、女としても一つ頭抜けていると思う。

「吉備津の窯」は、美しく心正しい娘の磯良と遊び人の正太郎が互いの家の都合により神事の示す凶兆に逆らって結婚するも、やがて予想通りの破局が訪れ、遊女を連れて逃げた正太郎を恨み死にした磯良はかれをとりころす。唯一残された血に濡れたもとどりの与える余韻は、太陽と見まがうほど光り輝く『牡丹灯籠』の月のように冴え冴えとした凄惨だ。それを、口元に笑みすら浮かべながら語るのは、磯良の母である。

 彼女はかつては美しくなければならない。彼女の今はささやかに不幸せでなければならない。彼女の元にはかつての彼女を想起させる娘が生まれなければならない。娘は素直で明るく、清楚に美しく育たなければならない。母親は瞋恚の焔へ薪を常にくべながら笑みを絶やさず、娘の幸せを願いながらその先に待ち受ける不幸を確信し、娘を嫁がせる。原作では凶兆を示した釜鳴の神託の解釈を神主の父親が迷うところで、結婚への背中を押すという小さくも重要な役割にとどまるがため、彼女が娘に抱く嫉妬のこわさは原作のこわさにうまくまたがる形で機能している。母親に比べれば、化け物や幽霊になった女たちはまだ恋する娘の可愛げが見えて微笑ましい。

 その女たちのとうとうとした語り口や、平然とつく嘘やごまかしの原石の一部が詰まっているのが『現代百物語』だ。全10冊のシリーズで、一冊に約100話を収録する。章立てこそ百物語を完成させないために99話で留めているが、あとがきが最後の一話の体をなしていることが少なくないので約100話と言いたい。本書の白眉はハナシのすべてが岩井志麻子が他人から聞いたもの、あるいは自分自身で体験したなど、現実に紐づいていることだ。ハナシそのものは不確かであっても、岩井志麻子がそのハナシを手に入れる過程には実在の人物や場所が確実にかかわっている。西原理恵子が寄せた「岩井志麻子はき〇がいの誘蛾灯」そのままに2009年から年1冊刊行され、2018年に10冊を数えるまでハナシは尽きることがない。その多様性を貫いているテーマが、「嘘のこわさ」だ。

 私生活や仕事面で岩井志麻子を苦しめたとある「嘘つき女」をはじめ、比率では風俗業の女性が圧倒だが「嘘をつく人間」がシリーズには大量に登場する。そもそもインタビュー相手が出所した殺人犯であったり、訳ありの世界の方であったりと怪談とはべつの怖さも十二分に蔵しているものの、己の胸のうちだけの理由にのっとって嘘をつく人々のうそ寒い怖さは、巻を重ねるほど増してゆく。実際に出くわしてハナシを聞いた女たちが嘘で隠そうとする暗いものを、岩井志麻子は引きずり出して文章に整え本にまとめる。彼女たちの機微がそのまま小説の「語り」とはならないものの、岩井志麻子の作る「こわさ」の味わいを深めるためには『現代百物語』の通読はそれなりに必須の作業ではないか、と思う。
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