哀愁があるはずだと決めつけるのも『編集者とタブレット』の物語に対しては不躾な態度だと思う。かつて原稿でぱんぱんに膨らんでいた学生時代以来の愛用品の鞄もタブレット端末の導入により物足りなくしぼみ、ソファに半身を起こし胸の上でページを繰っていてもうっかりして落とせば七百三十グラムの硬いタブレットの角は痛い。鼻に傷を作って仕事へ出向く羽目になる。肩書こそ社長だが一応部下のはずである会計仕上がりの男は好き勝手に作家との契約を打ち切ったり結び直したりと好き勝手が目に余るようになってきた。会社の儲けを支えている作家からは直接契約を打ち切られることを告げられる。行きつけのレストランは中国人に買収されて和食レストランになることが決まり、おいしい料理を作り続けてきたシェフはスシに魂を売ることを拒んで残るものはウェイトレスのみと跡形もなくなる。そうして月日が流れる間に妻を病で失う。不思議なことに主人公の一人称の小説でありながら、大きな嘆きを読者にぶつけることなく軽やかな文章が綴られてゆく。
主人公の編集者ロベール・デュボアは次々と自分の慣れ親しんだものから別れを告げられ、代わりに手渡される新しいものへ受動的に馴染んでいく。歳を重ねるにつれて世の中から自分が離れていくのか、自分が世の中に引きずられているのか、それとも完全に取り残されて右往左往しているのかもわからなくなるほど、変化の及ぼす影響の度合いは強まる。けれどもロベール・デュボアという人は極端な焦りも驚きもなく自分の経験の外からやってきた新しいものを丁寧に受け止めて動じない。原著が詩のような規則性で字数を予め定めた上で書かれており、ある程度感情の肌理が荒く場面が急にすっ飛ぶことはあるものの、ロベールの自分を客観視する視点から生まれるユーモアの味わいは損なわれない。紙の代わりにタブレットを手にし、長年のビジネスパートナーの裏切りの代わりに現代っ子らしい瑞々しい発想と行動力に満ちた新人たちの会社を育て、契約を切った売れっ子作家の代わりに彗星のような新人が彼の元に齎される。喪失したものと入れ替わりに彼の前へ現れるのはどこか冷めた現代でありながら、時に感心しつつ温かい手で彼はそれらを受け止める。物語は彼がタブレットへ慣れていく気持ちの運びと同じ速度で進んでいく。そのタブレットも彼の使い方を受けて傷ついたり汚れたりする頃に新しいタブレットが現れ、新しい「慣れ親しんだもの」として取り上げられてしまう様は物語の終わりの直前のベルのようだ。少しだけ寂しさを覚える。独白の調子は乱れない。饒舌になるときは決まって本のことに関する議論を戦わせているときだ。
馴染みのレストランでアーティチョークにナイフを入れる時、薄日のような柔らかい光が行間に射し込む。使い慣れたタブレットをなくし、妻をなくし、会社を退いて原稿ではなく自分が面倒を見ていない本たちを箱に五十冊ほど詰め込んで読書に向かう時、同じ光がまた射し込む。それは哀愁への救いではなくロベール本人の人柄から滲み出す明かりだ。かといって希望に満ちて生きましょうといったメッセージで〆るのは控えめに書いても間違っているので、春らしい冷たさの残る温もりだけを汲み取れば最低限の礼は果たせたと思いたい。
主人公の編集者ロベール・デュボアは次々と自分の慣れ親しんだものから別れを告げられ、代わりに手渡される新しいものへ受動的に馴染んでいく。歳を重ねるにつれて世の中から自分が離れていくのか、自分が世の中に引きずられているのか、それとも完全に取り残されて右往左往しているのかもわからなくなるほど、変化の及ぼす影響の度合いは強まる。けれどもロベール・デュボアという人は極端な焦りも驚きもなく自分の経験の外からやってきた新しいものを丁寧に受け止めて動じない。原著が詩のような規則性で字数を予め定めた上で書かれており、ある程度感情の肌理が荒く場面が急にすっ飛ぶことはあるものの、ロベールの自分を客観視する視点から生まれるユーモアの味わいは損なわれない。紙の代わりにタブレットを手にし、長年のビジネスパートナーの裏切りの代わりに現代っ子らしい瑞々しい発想と行動力に満ちた新人たちの会社を育て、契約を切った売れっ子作家の代わりに彗星のような新人が彼の元に齎される。喪失したものと入れ替わりに彼の前へ現れるのはどこか冷めた現代でありながら、時に感心しつつ温かい手で彼はそれらを受け止める。物語は彼がタブレットへ慣れていく気持ちの運びと同じ速度で進んでいく。そのタブレットも彼の使い方を受けて傷ついたり汚れたりする頃に新しいタブレットが現れ、新しい「慣れ親しんだもの」として取り上げられてしまう様は物語の終わりの直前のベルのようだ。少しだけ寂しさを覚える。独白の調子は乱れない。饒舌になるときは決まって本のことに関する議論を戦わせているときだ。
馴染みのレストランでアーティチョークにナイフを入れる時、薄日のような柔らかい光が行間に射し込む。使い慣れたタブレットをなくし、妻をなくし、会社を退いて原稿ではなく自分が面倒を見ていない本たちを箱に五十冊ほど詰め込んで読書に向かう時、同じ光がまた射し込む。それは哀愁への救いではなくロベール本人の人柄から滲み出す明かりだ。かといって希望に満ちて生きましょうといったメッセージで〆るのは控えめに書いても間違っているので、春らしい冷たさの残る温もりだけを汲み取れば最低限の礼は果たせたと思いたい。