「……お能には何かそれ以上の美しいものがあり、それに出会うことだけがお能を見るといえるのではないでしょうか。」――『お能の見かた』 白洲正子著 東京創元社より
諸手を広げて拍った。すげないほどにさらりとこなされたその身振りをひるがえして友枝昭世演じる汐汲みの老人はきびきびと手を動かし、腰を沈め、田子を両肩にかけて立つ。汐を汲んだ。田子が置かれたところへ戻る。何かを見送るように止まる。老人のいたましい背中から明らかに何か別のものへと変わった背中がそこにある。田子を下ろしてからの一歩はほかの力に呼ばれるように、一足一足に力があった。能「融」の前半を終える一足である。
ワキ方の旅の僧が訪れた京都の六条に過ごす8月の一日が「融」で過ごされる時間だ。初めて訪れた都で僧は妙な老人に出会う。田子をかつぎ、腰蓑をつけて、街のど真ん中なのにまるで漁師のようないでたちだ。だが、かえっておかしな老人に僧は笑われてしまう。ここはかつての河原の院、源融の大臣の塩竈の浦。何千人もの人が汐を汲むために行き来をしていた地なのだと。ひとしきり僧に昔を語り京を語るうち、老人は汐汲みのことを思い出して手を拍った。
京を語るうちからだんだんと僧と老人のやり取りは地謡に引き継がれ、思い出す頃には地謡がことばをすべて引き受けて音楽にしてしまう。それに合わせた老人の汐汲みは舞の先触れのように若々しさの混じる早い足取りに変わる。そして僧は何かを、来るものはわかっているが何かとしか言いようのないものを待つために一人、そこに残り続けた。
「磯枕。苔の衣をかたしきて。苔の衣を方敷きて。岩根の床に夜もすがら。なほも奇特を見るやとて。夢まちがほの。旅寝かな夢まちがほの旅寝かな。」
この一言が切り出されるのを待っていたのは僧だけではないだろう。
現のなかに見る夢を待っていた僧に、当たり前のごとく姿を現した融の大臣は舞う。扇を開いて狩衣の袖をひるがえし、あちらを見ては立ち止まりこちらを見ては立ち止まる。
ひるがえる白い衣に金と赤の扇、鮮やかな橙色に菊の縫い取りの小袖と床を踏みしめる力強い音は、どれも彼の権勢をことほぐはずのものなのに、彼に与えられた面は眉根をきつく寄せて憂いている。時々その面がほほ笑むことがある。かと思えば傲然と僧を見下ろす。ことばのない音楽で舞う。僧はどこを見るともなしに座を崩さず座り続けている。私はひたすら舞う面をみつめていた。
それで私が何を見たのかもわからないまま能は終わった。ただ何ともいえない胸の苦しさと、能楽堂いっぱいに漂うものを、舞った友枝昭世が確かにのこしたことだけしかわからなかった。
諸手を広げて拍った。すげないほどにさらりとこなされたその身振りをひるがえして友枝昭世演じる汐汲みの老人はきびきびと手を動かし、腰を沈め、田子を両肩にかけて立つ。汐を汲んだ。田子が置かれたところへ戻る。何かを見送るように止まる。老人のいたましい背中から明らかに何か別のものへと変わった背中がそこにある。田子を下ろしてからの一歩はほかの力に呼ばれるように、一足一足に力があった。能「融」の前半を終える一足である。
ワキ方の旅の僧が訪れた京都の六条に過ごす8月の一日が「融」で過ごされる時間だ。初めて訪れた都で僧は妙な老人に出会う。田子をかつぎ、腰蓑をつけて、街のど真ん中なのにまるで漁師のようないでたちだ。だが、かえっておかしな老人に僧は笑われてしまう。ここはかつての河原の院、源融の大臣の塩竈の浦。何千人もの人が汐を汲むために行き来をしていた地なのだと。ひとしきり僧に昔を語り京を語るうち、老人は汐汲みのことを思い出して手を拍った。
京を語るうちからだんだんと僧と老人のやり取りは地謡に引き継がれ、思い出す頃には地謡がことばをすべて引き受けて音楽にしてしまう。それに合わせた老人の汐汲みは舞の先触れのように若々しさの混じる早い足取りに変わる。そして僧は何かを、来るものはわかっているが何かとしか言いようのないものを待つために一人、そこに残り続けた。
「磯枕。苔の衣をかたしきて。苔の衣を方敷きて。岩根の床に夜もすがら。なほも奇特を見るやとて。夢まちがほの。旅寝かな夢まちがほの旅寝かな。」
この一言が切り出されるのを待っていたのは僧だけではないだろう。
現のなかに見る夢を待っていた僧に、当たり前のごとく姿を現した融の大臣は舞う。扇を開いて狩衣の袖をひるがえし、あちらを見ては立ち止まりこちらを見ては立ち止まる。
ひるがえる白い衣に金と赤の扇、鮮やかな橙色に菊の縫い取りの小袖と床を踏みしめる力強い音は、どれも彼の権勢をことほぐはずのものなのに、彼に与えられた面は眉根をきつく寄せて憂いている。時々その面がほほ笑むことがある。かと思えば傲然と僧を見下ろす。ことばのない音楽で舞う。僧はどこを見るともなしに座を崩さず座り続けている。私はひたすら舞う面をみつめていた。
それで私が何を見たのかもわからないまま能は終わった。ただ何ともいえない胸の苦しさと、能楽堂いっぱいに漂うものを、舞った友枝昭世が確かにのこしたことだけしかわからなかった。