えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

うたがい

2014年06月28日 | コラム
 店主がメニューを持ち、ラーメン屋のカウンターに座る私の隣でにこやかに言った。
「English menu!China?」
 私はNoと答えた。今年に入ってもう三度目のことである。日に焼けやすい肌は黒い。伸ばした深い茶色の髪は一見黒色だ。ポスターや電車の車内広告、テレビに登場する輝くような白皙の肌を彩る薄茶の髪に包まれて、皎い歯を桃色の唇から覗かせて笑う女性たちが典型の看板のように街のあちこちを飾る。道を歩く女たちの髪は光を反射してまばゆい。私は汗を拭きながら日焼けした髪を結わえ直した。

「Taiwan?」
 店主が続けて訪ねてくる。またNoと答えた。職場の近所で働くラーメン屋の店員たちと変わらない、中年の小柄な男は、首に巻いたタオルで汗をぬぐいながらVの発音で「ベトナム?」と言った。Yesと答えて笑って見せる。男の顔がほころんだと同時に手もとの日本語のメニューへ彼の手が伸びた。慌てて「I’m studying Japanese!」と言うと、彼はしたり顔で「Yes,OK!」と力強く言って寸胴から立ち上る湯気で白く曇るカウンターの中へ戻って行った。

 背中が騒がしくなった。甲高い男の声が「六人入れますかあ?」と間延びして聞こえた。もう一人の、髪の白くなった男の店員が奥のテーブルへ大学生らしきTシャツとジーンズの集団を案内してゆく。さてこの後何を喋ろうか、とメニューをめくりながら内心ひとりごちた。

 今年が始まってすぐ、出かけた上野の美術館で声を掛けられた。「あの」品よく髪を切りそろえた老婆は振り向いた私へこわごわと、日本の方ですか、と尋ねた。あまりにも不安げに尋ねる姿が痛々しく、柔らかな語調で日本人だと伝える。これが一度目。二度目は初夏の骨董市だった。神社の参道に並べられた玉石混交の品々を眺めまわしていると、小指ほどの玉で出来た鳥の細工が目に留まった。無造作に石段へ置かれたそれを黙ってしゃがみ掌で転がしていると、脇で折りたたみ椅子に腰かけていた壮年の男が

「お嬢さん中国の人?それとも台湾?」

 反射的にいいえと答えた。知人曰く私の見かけは黙っていると国籍が分からない見かけだそうだ。血から見れば隣の大陸や半島、海の向こうのご近所さんと今住む国に暮らす人々の姿は似通っている。何を以て同国の者と安心できるのかは判別がつかないが、とまれ、そう思われにくいのは何故だろうとふと振り返った時、電車の広告で笑う女子たちの顔に思い当たった。白い。茶色い。薄い。桃色。どの色も持たない私は、何色に彼等へ見えていたのだろうか。

 ここまで間違われるとそろそろ開き直りと言う物も出来て、「次に外人に間違われたら外人のふりをする」という決意のもとついに訪れた機会、ラーメン屋で注文を日本語にしようか外国語にしようかとくだらない選択をするに至った。できれば英語で突き通したい。しかし英語にすればその後の金勘定も英語にしなければならない。何より、この演戯の締めくくりに「実は日本人」とわかってもらいたい。悶々と考えた末「あ、日本語できますから大丈夫ですよ」と、湯葉と梅干の入った店自慢のラーメンを日本語で注文した。首にタオルの男はにこにこしながら「日本語上手だねー」と語尾を伸ばしてラーメンを作り始めた。油の加減がほどよく、梅干しがほのかに沁みるさっぱりした味わいの白湯のラーメンだった。

 さて、勘定である。ことごとくの言葉を「日本語上手だねー」ですり抜けられ、疑いはどうにも晴れそうにない。とうとうレジで釣り銭を渡す段になった。決め台詞のように「日本語上手だね」と何度言われたか数える暇もない言葉を彼は言う。

「はい」「また来てね」「はい、また来ます、日本人なので」「はい、ありがとね」

 てきぱきとした応答に押し出されるように店を出た。どうにもやりきれない寂しさが背中にのしかかる。次はどうするかと考えながら弟に作戦を話すと一顧だにされず彼は言った。そもそも、間違われることを前提に話を進めるな、と。
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・寄席に行った話

2014年06月14日 | コラム
 くさくさした雨だった。待ち合わせまで余った時間を潰そうとアメ横のタイトーゲームセンターへ入ったはいいものの、クレーンゲームの部屋に置いてもどうしようもないような景品へ妙な熱を上げて結局は諦め、腹立ち紛れと続けざまに入ったアドアーズのゲームセンターでこれも既に手に入れた景品が簡単に取れそうに見えたので金を入れたらあっさりと手に入り、これから鈴森演芸場へ行って落語を聞くというよりは上野で遊び終えて家に帰るような大袋を抱えた姿で傘をさした。

 六時直前にチケット売り場で友人と合流し、エスカレータで三階まで上った。浅黄の半纏の女性が入口を開けてくれる。丁度前座の落語が佳境に入ったところで、友人とひそやかに後ろの空いていた席へ座った。落ちらしき言葉と拍手が聞こえ、噺家が舞台から降りた。隣の友人がすっと席を立ち、一番前の席へと向かっていった。荷物を抱えつつ後を追って隣に座る。丁度口座を左から見上げる位置だった。座ってしばらくすると次々に人が現れ、笑顔や渋面を作りながら通り過ぎるように十分の時間を演じて舞台から下がる。一人去るたびに頭を丸めた見習いらしき男が紫の座布団をひっくり返し、表面が平たくなるよう手でさっさと馴らし、演者の名を記した紙を一枚捲って掃ける。客はプログラムと紙に書かれた名を見比べる人、席を立つ人、それぞれに時間を過ごしている。

 最後の演者に近づくにつれて演者の口からは自虐的なことばが増える。「あと少しですから、お席を立たないでください」「もう少しですから、少々おつきあいください」それほどの人が後ろに控えているらしい。手品が終わり、最後の一枚が慎重に捲られた。友人が腕時計とプログラムの時間を見比べている。壇上に目をやると、黒い羽織に黒い着物の、どことなく飄然とした細身の男が若干身をかがめながら右手から現れ、座布団に座り手をついて一礼した。両手を床について頭を伏せる佇まいに空気が引き締められる。思わず姿勢を改めてしまった。そんな初見の客の緊張をすかすように自然と前振りが始まった。丁度上映中の映画を端的にまとめて笑いを取りながら、噺はまだ長屋というものが身近なものであった時代へ自然と手繰り寄せられた。

 慣れた手つきで釘を打つ音のように会話の語尾がぴしりぴしりと決まる。江戸弁の差が分かるほど明瞭な早口をことばに、抜け作の大工と女房、巻き込まれる隣人たちを上半身全て使って演じる。渋面、笑顔、合点のいった瞬間と、対座する人同士の人となりを自然に見せながら、つぼは逃さずに間を使い、笑いを生む。何本も演目を観た後なのに、まだこれだけ笑える力が残っているのか不思議なほど体から引き出されるように笑っていた。

 気付くと噺は昔本で読んだままの落ちを的確なシュートのように決めて終わり、噺家は最後の一礼をして舞台から去った。客も入り口から聞こえる太鼓の音へ合わせるように外へ出てゆく。淡々と荷ごしらえをして席を立つ友人をまた追いかけて、私も外に出た。雨は霧雨に変わり、穏やかに上野の街を静かに濡らしていた。
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