えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・怖ろしさの位置 (渋谷・コクーン歌舞伎第十五弾『四谷怪談』)

2016年06月25日 | コラム
 むしりとるように女が髪を梳いている。実際、手つきは髪をわしづかみにして強引に櫛歯で髪を引き切っていた。母の形見の挿し櫛をもう一度挿そうとあがく彼女の向こうをあでやかな赤の振袖の娘が、やはり朱塗りの鏡台で鬢のほつれという些細な髪を気にしながら台に乗せられて過ぎて行った。客席に対して髪を首ごと真直ぐに下ろした彼女の顔は見えない。くたびれた灰色の着物と袖から伸びる腕が間に黒髪を挟んで頭に手を突っ込み激しく梳くという動作をしている。

 挿し櫛は髪の毛で支えて挿す櫛なんですよ、と、老舗の櫛屋の女将は言った。髪の毛を盛ってそこに立てかけてあげる調子で挿すんです。飾るためには髪の毛が要るんですね、とその時返した私の言葉を逆手に取るように女は櫛を挿すための髪を捨てていた。彼女が顎を上げて髪を背中に投げ上げると、人妻の「岩」は「お岩さん」へ変わっていた。中村扇雀の「お岩さん」が明瞭に登場するのは彼女がこと切れるまでの数分間。贅沢な変貌の使い方だ。その後も彼女は台詞の端々や眷属の鼠を通して存在を匂わせるものの、話の中心は妹の生者お袖に移る。

 『仮名手本忠臣蔵』の裏話としての『四谷怪談』は幽霊による脅かしの愉しみと『忠臣蔵』に巻き込まれた生ける人々の因縁話の情感ふたつを合わせ持っている。お岩が「お岩さん」になった後、姉と妹どちらの物語へ重きを置くかで時間の限られた舞台は色を変えざるを得ない。選ばれたのは妹だった。

 串田和美の物語には「肉体がある」ことの強さがどうしても必要で、人は舞台の上で肉体を持たなければならず、だから幽霊の「お岩さん」は戸板を模したスクリーンの映像に留まらざるを得なかったのかもしれない。塩谷判官の死を端緒にお家騒動の巻き添えを食った人々を舞台は一つずつ整理するように描いてゆく。そして登場人物を昔からの順番に則ってたおしながら、最後に残る伊右衛門と彼の破滅を暗示する与茂七の登場で幕を下ろす思い切りの良さ。昨年の『三人吉三』の雪の白と対照的に赤で終わる『四谷怪談』は、青で描かれてきた「お岩さん」の夜を跳ね返すように現世へこだわった肉感と血の濃い臭いがした。凄まじい。
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・喫茶店に通う

2016年06月11日 | コラム
 アンヂェラスでソーダ水を飲むという夏日の晴天の思いつきは浅草コーヒーへの義理で消えた。浅草は「喫茶店」が多い。行きつけの常連がたむろしプレスされた重いガラス器の器に冷たいものが盛られ、どことなく薄暗い照明のもとで時が緩やかに勝手に流れてゆく。音楽は体に合わせた服の様に、店に合った音ならば何でも構わない。ラジオを流そうがテレビの相撲中継を流そうが、客がことばから離れていられるほどの距離のある音が丁度良い。「カフェ」が苦手なのは店の趣味が客に押し寄せてくることで、ソーダ水などという飲み物はなくコーヒーを少しずつ楽しもうにも、常連との生温いつながりの圧力で店を追い出されるように出たことも少なくは無い。その辺り、喫茶店は容赦がなく店構えから既に入るか入らないかの圧力をかけているので選びやすい。怖気づいた店構えにえいと飛び込んでみると案外よかった……ということも無くはないが、門戸に違和感を覚えたら早めに去るのが「喫茶店」とのお付き合いの手際ではなかろうか。
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