地元の啓文堂書店に『枕魚』が入荷されていたのは五年も前になる。それからほぼ毎年一冊、ペースを落とさずにPanpanyaの漫画は分厚いページ数と共に前の年の決算のような月に発売されるようになった。今年四月に発売された七冊目の単行本『おむすびの転がる町』も、他の本に負けず劣らずページを抱えて膨らんでいる。安定したペースで今年も買うことが出来たことがまずは嬉しい。
ボールペンで書き込まれるPanpanyaのコマの密度は年々整頓され、街中で拾い集められた物たちは渾然としながらもお互いの距離を適切に取るようになり、空気が通り抜けられるような間隙が生まれている。それは書き込みがより深まり、コマひとつに深く体が入り込めそうなほどの奥行きともなっている。物のためには空すら邪魔だとばかりにPanpanyaの作品に登場する地下街は街の体裁を持ちながらも箱庭のように閉じられ、空が目に入らないほど街に集中する時の周囲は見慣れた物たちの見慣れない組み合わせに取り囲まれている。例えば複雑な土地事情から地下にもぐってしまった『新しい街』の天井は、線路のガード下を支える鉄柱に電柱が絡みつき、「湯名人」の室外機や「Docomo」の看板を掲げたシャッター街が続く。通ってきた道とこれから通る道が薄暗く奥に凝っている。
グヤバノジュースから本物のグヤバノを求めてフィリピンを旅する旅行記『グヤバノ・ホリデー』を分割したような『筑波山不案内』『カステラ風蒸しケーキ物語』も面白いが、随想の長文『街路樹の世界』『架空の通学路について』にも目を惹かれる。Panpanyaが自身のサイトに掲載している短文の日記はほぼ全巻に収録されているが、テーマに沿って書かれた長文が単行本に作品として収録されているのは本書が初めてだ。想像に付き随うという随想の表現そのままに漫画を描いてきた著者の生地を見るようで楽しい。都庁の売り物の中でも「まち」に焦点が当たる「街路樹マップ」に目を止めて、街路樹に注目していない自身と注目するマップの制作者の目線を発見し、排水溝の蓋の数から柵の種類までくまなく網羅して架空の通学路に配置する文章の流れは、そのまま漫画が作られる過程の源流だ。
「私にしか分からない形で、不自然の目くばせがあった。」
足元に転がるエネルゲンの10年前の缶はきれいに洗われて写真に収められる。彼に目配せされた不自然はあるいは不自然ではないかもしれない。それが不自然として目配せされる瞬間までの過程のとらえ方は変わらずに洗練されて、狂言回しの少女たちは前に出すぎることなくものたちへ触れてゆく。筑波山の北側に潜伏するガマの油工場と人並みの大きさのガマたち、冒頭の一コマだけ生々しい質感とリアルタッチで現れるツチノコたちも彼女たちの暮らしの延長の中でふと発見されてしまった馴染みがある。本を開けばしんとしたのどかな時間が漂う風情は職人芸のたまものだろう。
余談だが『グヤバノ・ホリデー』が発売された後、作中に登場したグヤバノジュースを売る上野アメ横地下街の食品店からグヤバノジュースは数か月かけて売切れて行った。それを掣肘するかのように今回はカステラ風蒸しケーキの生産終了を解題に記している。律義で好もしい。
ボールペンで書き込まれるPanpanyaのコマの密度は年々整頓され、街中で拾い集められた物たちは渾然としながらもお互いの距離を適切に取るようになり、空気が通り抜けられるような間隙が生まれている。それは書き込みがより深まり、コマひとつに深く体が入り込めそうなほどの奥行きともなっている。物のためには空すら邪魔だとばかりにPanpanyaの作品に登場する地下街は街の体裁を持ちながらも箱庭のように閉じられ、空が目に入らないほど街に集中する時の周囲は見慣れた物たちの見慣れない組み合わせに取り囲まれている。例えば複雑な土地事情から地下にもぐってしまった『新しい街』の天井は、線路のガード下を支える鉄柱に電柱が絡みつき、「湯名人」の室外機や「Docomo」の看板を掲げたシャッター街が続く。通ってきた道とこれから通る道が薄暗く奥に凝っている。
グヤバノジュースから本物のグヤバノを求めてフィリピンを旅する旅行記『グヤバノ・ホリデー』を分割したような『筑波山不案内』『カステラ風蒸しケーキ物語』も面白いが、随想の長文『街路樹の世界』『架空の通学路について』にも目を惹かれる。Panpanyaが自身のサイトに掲載している短文の日記はほぼ全巻に収録されているが、テーマに沿って書かれた長文が単行本に作品として収録されているのは本書が初めてだ。想像に付き随うという随想の表現そのままに漫画を描いてきた著者の生地を見るようで楽しい。都庁の売り物の中でも「まち」に焦点が当たる「街路樹マップ」に目を止めて、街路樹に注目していない自身と注目するマップの制作者の目線を発見し、排水溝の蓋の数から柵の種類までくまなく網羅して架空の通学路に配置する文章の流れは、そのまま漫画が作られる過程の源流だ。
「私にしか分からない形で、不自然の目くばせがあった。」
足元に転がるエネルゲンの10年前の缶はきれいに洗われて写真に収められる。彼に目配せされた不自然はあるいは不自然ではないかもしれない。それが不自然として目配せされる瞬間までの過程のとらえ方は変わらずに洗練されて、狂言回しの少女たちは前に出すぎることなくものたちへ触れてゆく。筑波山の北側に潜伏するガマの油工場と人並みの大きさのガマたち、冒頭の一コマだけ生々しい質感とリアルタッチで現れるツチノコたちも彼女たちの暮らしの延長の中でふと発見されてしまった馴染みがある。本を開けばしんとしたのどかな時間が漂う風情は職人芸のたまものだろう。
余談だが『グヤバノ・ホリデー』が発売された後、作中に登場したグヤバノジュースを売る上野アメ横地下街の食品店からグヤバノジュースは数か月かけて売切れて行った。それを掣肘するかのように今回はカステラ風蒸しケーキの生産終了を解題に記している。律義で好もしい。