えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

結構たくさんいた家(読書記)

2014年03月22日 | 読書
 ジョルジュ・シムノン「家の中の見知らぬ人たち」読了。すんなりと読み進められる反面、そこで起きたことが何か、誰が何を思ってそうしたかを考えだすと途端に複雑性が一気に膨らむ。主人公の四十八歳の弁護士、娘のニコラをそれぞれに取り巻く人々。本と酒に埋もれて十八年間を過ごした主人公の過ごす一晩に、突然が忍び込む。極端に驚きもせず、セリフもなく彼は物音を聞いて篭もり続けていた「穴ぐら」から夜一歩を踏み出した。ドアをまたぐ一歩を境目にして、主人公は「見知らぬ人たち」を次々と見つけてゆく。その人たちは彼の身近なところで時間を過ごしながら主人公がただ知らなかったが故に今まで見えなかった人々だ。娘のニコラ然り、彼の知らない間に忍び込み、生活し、死んでいった男然り、バーの主人然り。

 部屋から外に出た階段から見下ろしたレーンコートの男然り。

 主人公は自分が驚いていることを見つけて驚く。驚きの表現は作者シムノンの非凡さを表して余りある。ただ文字を追い掛けていると、いつの間にか何故彼はすべてを甘受したように行動するのかわからなくなってしまう。しかしその理由を懇切丁寧に説明する事なく、彼の一挙一動は驚きの元に自然と描写されてゆく。彼の思考をつらつらと書き続けるよりも、彼自身が何故そのような行為に出たか気づく瞬間を以て全ての説明に替えている。
 飲んだくれと哀れまれる彼が、自分の娘が原因で引き起こされた自宅での事件の弁護へ立つとき、髭をさっと剃り落とし糊のきいた白いカラーを用意して身なりを整えようと考える瞬間、彼は面白味を味わいながらそこにいる。論理的にでも感情的にでもなく、その人がそのままにそこにいる。

 端的に、「娘が男を沢山家の一間に引き入れて遊んだ結果、一人の男が殺され娘の恋人が被疑者になった」と書くと、何故主人公が被疑者の弁護を引き受けたのか、その心理を深く知りたくなる誘惑に駆られる。作者はそれを読者の楽しみと心得ているのか、あえて深堀をせず、けれども洞察に基づいて、主人公の軸をぶらすことなく感情的に矛盾した行為を自然に描く。どこにでもいそうでいて、いざ探そうとするとどこにもいない人を。娘とのやりとりが時間に沿って断片的に差し挟まれながら、極端にならず確かな変化がもたらされている流れが好きだ。
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そんなに騒がしくない小人たち(読書記)

2014年03月19日 | 読書
 ジョン・ブラックバーン「小人たちがこわいので」読了。伝奇、SF、人間恐怖入り混じり少し煩雑の気は感じるが1974年の発表年を観れば相当。川原泉「小人たちが騒ぐので」の元ネタには違いない。文章の抜書きをしようにも際立って文に優れた何かがあるわけではなし凡な文の印象。翻訳の所為かもしれないが説明くさく、主人公たちの味わう恐怖の種類が多彩な分ひとつひとつの出来事の怖さが断片的で、一本の怪談を集中して聞いている時のような怖さの起承転結には欠けている。文章が平坦なことがかえって読む分には気楽。

 これがフィルボッツのように飾り立てた文章、ラヴクラフトのような当人の頭の中をそのままにさらけ出すような川の流れのような文章であれば分量は倍増し、恐怖の方向性が書き手の手腕をさらけだすように散漫になるか、より際立たせるかのどちらかになるだろうか。少なくともフィルボッツはちょっと嫌だ。「赤毛のレドメイン家」の解説者が探偵小説ではなく描写へ評価をすり替えていたのは時代の感覚により仕方無いとはいえ、まだそんなに古くない小説でそれを蒸し返すようなまねは勘弁。

 飛行機の音に呼びさまされる、誰が聴くかもわからない飛行機の音が記憶を呼び覚ましてゆく場面がよい。その飛行機に乗っている人は何も知らぬまま、目的の場所へたどり着くまでの時間を過ごしている。中にはオチの飛行機の乗客のような人物もいるかもしれないが、宅の家の上空を通るアメリカ軍や自衛隊の音が静かに過ごす屋内へ滑り込む時は、紛れ込んだ異物への不快感が呼びさまざれざるを得ない。それだけに物語の肝をつとめる古代の怪奇の力の弱さを残念に思う。

 飛行機の音の不条理な恐怖から呼びさまされた恐怖は飛行機のそれを上回ることなくダイナマイトの前に沈む。クトゥルフTRPGを思い起こしてしまうのはこちらの知識が悪い。どちらにしろ例の彼の影響を忠実に受けていることはまず間違いないだろう。キリスト教の知識が無ければアイルランドの複雑な情勢と絡みつくプロテスタントとカトリックという差が醸し出すものも理解できない身がとやかく言う問題でもない。ただ電車内の読み物としてはきっちりと整った読みやすい文なので頭に優しい本だと思う。
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遊び心のプログラム<「面白さ」の直覚>

2014年03月08日 | コラム
 「おすすめのゲーム」「面白いゲーム」「名作と呼ばれるゲーム」名詞はどんなものにでもあてはまりそうな形容詞で評される時、何を以てその形容詞は選ばれるのだろうか。人から「面白いゲームを教えて欲しい」と言われる時、ちょっと考えると物なぞなかなか人に薦められないことに気づく。その人が何を面白いと思うか、という問いが立ちはだかるからだ。

 コンピュータゲームを構成する要素をざっくりと挙げてみる。(1)視覚的要素―モニタに映る表示なお―、(2)聴覚的要素―機械あるいは表示機器そのものが発する音、効果音など―、(3)触覚的要素―ボタン、スイッチ、コントローラ諸々―、(4)非感覚要素―ストーリー、ルール―、こんなところだろうか。(1)、(2)、(3)はゲームを遊ぶプレイヤーの五感が知覚するものである。そのうち残りの嗅覚や味覚も要素の一つになることもそう遠い日ではないのかもしれないが(以前別に取り上げた「食育ゲーム」は味覚も要素の一つである)、今のところは五分の三の要素が目に見えてわかりやすい。では(4)は何者なのだろうか。

 仮に据え置き型のコンピュータゲームを遊ぶ過程を想像する。まず機器へ必要なバッテリーなどを接続し、ソフトウェアを接続して電源を付ける。コントローラを握り、ゲームを始める命令をボタンを通じて機械に与える。この間、機械そのものが異常を知らせる音を発したり、ソフトウェアの接続がうまくいかない場合はモニタへ妙な画像が発せられることもあるが、上手く起動に成功すればゲームは用意されているプログラムを実行し、モニタへ情報を映し出す。たとえば起動直後は必ずオープニング画面を表示させ、その画面にはタイトルを表示しつつ音楽を流す、など。プレイヤーはプログラムに沿って現れた画面や音を認知し、そのゲームに与えられたルールに沿って遊びを始める。

 ルールがプレイヤーに提供する感覚は無い。もちろん、理不尽なルールに怒りを覚えたり、不条理なルールへ疑問を発したりとプレイヤーへ印象を与えることはできるものの、ルールはあくまで遊びのしくみであって、プレイヤーの感覚が味わう物には含まれない。どんなゲームでも、その形のないものへの従属が強要される。強要されたルールやストーリーの中でプレイヤーは遊ばざるを得ない。画像や音楽はゲームを構成する要素の一つであることは述べた。だが、コンピュータゲームを遊びたらしめている要素は目に見えないルールである。
 そのルールが、あるいはプレイヤーを楽しませ、苦しませ、最終的なとして評価を決めてゆくのではないだろうか。ゲームの「面白さ」を決定づける要素はプレイヤーそれぞれにしても。
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