えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・蒸し返しの話

2022年01月22日 | コラム
 地上波放送の金曜ロードショーで『新解釈・三國志』が放映されていたので何気なくチャンネルを合わせ、このところ頭痛が酷いので音声を消して漢服の俳優たちをモニターで眺めていたものの、それでも相応に疲労が残った。劉備役に大泉洋を据えてムロツヨシに諸葛孔明役を当て、董卓から赤壁までを二時間強でぶっちぎる力技は劉備を主人公にする以上はある程度仕方ないとはいえ、コメディ調子にしてもきれいに破綻していた。盛り上がりは渡辺直美の貂蝉が化けの皮を剥がして広瀬すずの正体を現し、呂布から「好みじゃない」と正味三分ほどでばっさりやられてしまうところが頂点だと思う。
 映画館での公開時期が2020年12月とある意味時期に恵まれていたのか興行収入はきっちり40億を稼いだ。褒めどころはそれと、劉・関・張の三義兄弟や夏侯惇がある意味本作に対する第三者の視点で呆れながら手堅く演じていた部分くらいだろう。特に三義兄弟は佇まいも雰囲気も役がよく合っていたので勿体なかった。たとえば、一応の笑いどころとして董卓軍との対峙に劉備がだだをこねて戦場には関羽と張飛しか来ない、という場面があるが、転じてここでは三人の力を合わせて呂布と戦う見せ場なので、いつかどこかで見た無双ゲームのような殺陣を披露するならば三人いた方が引き締まった。ついでに関羽と張飛がそれぞれ一騎打ちをするカメラワークも、某コーエーテクモゲームスのシミュレーションゲームの一騎打ちカットとよく似ていた。ローアングルからすれ違い、方向転換して競馬のように馬首を並べて打ち合う流れにはなんとなく見覚えがあったが気の所為にしておきたい。
 台詞のクスグリが多すぎて場面場面が冗長となりメリハリがなく、いつどの場面を見ても配役が変わっただけでやっていることは見えないマイクを軸に左右でボケと突っ込みに別れているだけなので、特に三國志である意味はわからなかったが何かしらの目的はあるのだろう。とりあえずは現在放映されている大河ドラマに出演している俳優が本作には多数出演していたらしいので、少々遅すぎる顔見世としての役割は果たしたのかもしれない。
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・乾いた泥道

2022年01月22日 | コラム
 朝、部屋に溜まった冷気の中を爪先立ちでそそくさと泳ぎ雨戸を上げると庭の土から透明な結晶がいくつも顔を覗かせていた。長靴を履いて庭に降りると霜柱が足の裏で割れていく懐かしい感触がする。これも昔は土の水気が多かったか、寒さが厳しかったのか、倍ほどの高さがあったように思う。或いは乾燥がそれだけ厳しいのかもしれない。ともあれ庭には霜柱が立つ。陽の光が当たれば溶けて泥になり、正午を回る頃には乾ききっている。
 霜柱は公園の中央に立つ欅の巨木の根にも沿って立つ。植え込みに沿って桜やスダジイが枝を伸ばしているこの公園は、人が踏み固めて遊んでいる土の方へも貪欲に根を伸ばしているようで、出かけるとまだ黒い泥濘が残っていた。既に誰かが歩いてスニーカーの底の凹凸が水溜りのように散らばっている。うっかり足を踏み入れてしまった。左足が地面を掴みきれずに前へ滑りかけるのをこらえて引き抜くと爪先から泥にまみれている。土の感触と一言で表しても千差万別で、乾きの遅い中央の泥濘から砂場に移ると土の中にあるコンクリートの砂の入れ物にぶつかるのか、周りはすっかり乾いていて硬かった。それでもアスファルトやコンクリートのような反発はなく、足の裏からほどける荷重が地面に吸い込まれていくような感覚が柔らかい。靴は泥まみれになった。
 ゆっくりと歩いているうちに黒い泥は乾いて灰色がかった茶色になり、それとともにあちこちで欠片が落ちていったのか、用を済ませて家に帰る頃には靴の縁だけに土が残っていた。時計は正午の手前で、今日もまた誰もいない道の上に雲のない青空が広がっている。明日も骨がきしむほど寒いだろう。冬は空が青ければ青いほど次の朝が厳しくなり、土の中に溜まった水分は凍りついて溶ける間に奪われていく。土の中で張り巡らせた根が水を抱えてあちこちで春を待つ中、日当たりのいい公団の真ん中に植えられた紅梅が五分咲になっていた。
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・雪のある窓

2022年01月08日 | コラム
 町が雪に包まれてゆく過程を窓辺から眺め続けられるのは贅沢な楽しみだと思う。開いては溶けていくぼたん雪よりも小粒ながら、しぶとく道路や植木にまとわりつく雪が温度を下げたその上に雪が積もっていく。コンビニで用を済ませようか逡巡している一時間のうちに丸いつつじの植え込みがすっかり白く染まっていたため慌ててコートを着た。歩いてすぐの距離なので傘は差さなかったが二十メートルほどで後悔した。被ったフードから余る髪へしがみつくように白い結晶が次々と絡み、コートの袖から覗くフリースの袖口にも雪の結晶が溶けないまま残っていた。風はなく重さで舞いながら雪が落ちてくる。雨雲よりも空へ深く沈み込むような雲から雪は降り続けて、道中の植え込みには既に土まで薄っすら雪が被っていた。
 コンビニで用を済ませた帰路も変わらない調子で雪は穏やかに降っている。車列がワイパーを動かしながら遠ざかる。私は早足で帰宅する。歩いている人の赤い傘へ小紋のような雪の白が散っていた。雨とは違って空気は乾きながら、雪がそれぞれにまとう湿気の間をかいくぐって泳ぐようだ。油で艶めく常緑樹の葉先から水滴が滴っている。
 玄関の前で雪を払い落とし部屋へ戻る。短い距離ながら動いたおかげで温まった体の血流が一気に指先へ暖かい血液を送りコートが暑くなった。一通り片付けて庭を見ると、つつじの植え込みの三分の一ほどが雪を被っている。そのまま一時間ごとに雪は積もり、二時間後には三センチほどに積もっていた。木々の間に雪を逃れたヒヨドリとオナガが交代で雪をふるい落としている。窓辺からは冷気が滲み、床がゆるゆると冷え始めていた。
 明日のことも今日のことも気にせずに暖かく雪を眺めていられる余裕があるのはリモートワークのおかげだが、おかしなことにリモートワークが始まったのはつい昨年のように思える。始まったのは一昨年のはずなのに、積もった雪を見ていると二〇二〇年三月の突発的な豪雪とその後を思い出していた。それでも今年はその二年後であることを噛み締めながら、夕方に向かう雨戸を下ろした。
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・星色青天

2022年01月01日 | コラム
 突き抜けるほど晴れている。
 深夜に近くの寺の除夜の鐘が天に響き渡る下、今年も地元の神社ではどんど焼きや福銭配りやお神酒を分ける氏子の姿は見られなかった。御神籤の台も受付からは離され、見慣れたアルコール消毒液の四角いプラスチックボトルが使い込まれた木製の郵便受けのような箱の隣に置かれ、その隣には上に三十センチほどの穴が開いた箱に御神籤が詰まっている。時計が0時を示すと本殿の扉が開き、宮司が何がしかの儀式をして扉を開け放った。ここの本殿は本来の木製の本殿を守るため、鉄筋で出来た本殿を上から被せるような二重構造になっている。手前には柱に二本の鈴緒が結び付けられ、賽銭箱が設えられている。参拝客は神妙に宮司の儀式が終わるのを待ち、かれが社務所のほうへ去ったあとも境内は静かで、列の最後尾に並ぼうと人の間を抜けても「あけましておめでとう」の声は囁きすら聞こえなかった。
「オリオン座しかわからないや」
「冬の五角形はわかるよ。あれとこれとそれ」
「わからねえよ」
 一月の深夜はオリオン座が社務所の真上にかかる。そこからベテルギウスの橙色を起点に左下でダイヤモンドのように煌めくシリウスを捉え、シリウスからプロキオンへと星を繋げば大三角形がわかる。昨日の昼間の雪雲はどこに流れたのか、空にかかる汚れを拭い去って新年の夜は冴えていた。列が進めば進むほど列が長くなり、少しずつ後ろの方からさざなみのように明るく今年を祝う声が聞こえてくる。参拝を済ませ、先程の御神籤の箱から消毒を忘れずに御神籤を引いて持ち帰った。帰宅すると玄関口からは残った家族が仏壇に供えた線香の香りが溜まっている。軽く咳き込んで私も仏壇に線香を供え、お灯明を消して寝室に戻った。眠って起きた今日も奥底まで青い空が期待通りに広がっている。空が青い正月の清新な空気を吸って、皆で挨拶を交わした。

 今年もまた新型コロナウイルス感染症の余波はなくならず、新しい生活様式に馴染みながらもまだまだ余談を許さない状況が続いておりますが、年神様は決まった足取りで決まった時間に訪れます。歳を重ねていく実感を積み重ねながら今年も拙文にお付き合いをいただければ何よりの幸いです。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
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