えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

中国もの流行

2009年08月29日 | 読書
どういうわけか、昔っから中国文学ミーハーのようなところが
あって、気づくと中国文学関連の書籍がどーっと増えていたのですが、
やはり基礎を知らないとどうということもなく、頭に入りません。

文章を書くとき、どうしても意識しなければならない「音」、
これがわからないと、発音やイントネーション、語の区切りやリズムが
わからない、つまり、喋れる人が無意識に感じられる機微の部分、
叙情とでも、味わいとでも言うのでしょうか、そういうものが
どうしてもなくなってしまうわけです。書き下し文は。
ただ、これはこれで日本語のリズムに乗っていることもあるし、
日本語の訓読に慣れた身には、往々にしてこちらの方が読みいいことも
あると思います。

ただどうしても日本語の追いつかない「音」の要素があります。
詩です。昔の文学者はようも韻を踏むところまで読めたなあと思っていたら、
音ではなく韻文のルールや文字の規則を全部おぼえて作っていたそうです。
うわ……。

もっと読むのにやさしい本は無いのか、と図書館をあさっていたら
「中国の古典文学5 唐代の詩」(奥平卓著 さ・え・ら書房 初版1977)
という本が出てきました。7世紀~10世紀、中国の唐の時代に活躍した
詩人達を時系列順に分類し、詩とそれぞれの生涯をさっくり説明しています。
さっくり、とかきましたが、とても丁寧な省略の仕方がされていて、
「はじめに」の段で「詩経」からの詩の変遷について語り、
唐詩がなぜここまで隆盛を誇ったか、ということが、わずかに2ページほどで
まとめられています。
もちろん、中国の誇る二大詩人、李白と杜甫については、詩の数も多く、
ページ数を裂いて解説されています。一方で、わずか数行でなされる詩人の
説明も簡潔で分かりやすいです。
例えば、唐の初めに活躍した劉希夷(りゅうきい:651-679?)という詩人については

『ハンサムで琵琶が上手で、大酒飲みでおこないが乱れ、最後はひと手にかかって殺されたと伝えられます。

―中略―

かれは張若虚(ちょうじゃくきょ:?-?)などとともに、蝉聯体(せんれんたい)といって、ちょうど映画の画像のように、ひとつの場面がつぎの場面に重なりながら延々と展開してゆく構成の、長編詩を得意としていました。』

伝えたいことを残しながら削ぐ、まとめの努力の汗が見える説明のおかげで、
この人を楽しむための最低限の「読み方」―劉希夷なら、『映画の画像のように、
ひとつの場面がつぎの場面に重なりながら延々と展開してゆく構成』、
つまり、この人はまず現実の景色、その移り変わりがどのように描かれているかを
楽しめばよいのだな―そうした指針をもらうことが出来ます。

私もこれから、指針をもらいながら是を読むつもりです。
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ふっきしました。

2009年08月25日 | 雑記
花火がとってもきれいだったり、
ひさびさに海で泳いで、海の浮力を感じていたりしていた
3日間がおわりました。

昔、浮き輪に乗って海で波乗りして遊んでいた時、波にたたきつけられて
おぼれてから、浮き輪が無いと泳ぎに自身がなくなってしまって
いたのですが、おとといさきおとといは、ほんの少し、泳ぐことを
思い出すことが出来ました。
ぼーっとしてれば、海では勝手に浮かぶことができたんですね。
発見でした。
ただ立ち泳ぎに慣れないのと、体力がずっと落ちていたので、
長く泳ぐのは浮き輪に頼ってましたけど。
プールに行きたい病がちょっと発生しています。


で、海でへばった身体に、「花火には酒だよね」と
3%のチューハイを一本空けたら非常に心地よい眠りが襲ってきて、
友人と喋りつつ眠気に耐えつつ、眠気に敗北して気づいたら朝が来ていました。

なめ:「昨日何時まで起きてたの?」
友人A:「6時」

失われた4時間の間に、彼らは何を話していたのでしょうか。
永遠の疑問が、また一つ増えました。

まあそれはともかく、海は楽しいものでした。
何かにさされて赤くなったのと、きれいにこげた肌と共に
帰ってきてひと満足です。


友人A:「あとお前、対角線に寝てたぞ。フトンの」
なめ:「まじですか」

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たかとびします。

2009年08月21日 | 雑記
電車で二時間くらいのところにですが。
明日から三日ほど、熱海の方までドロンします。

というわけで、ほんのちょっと更新がとまります。

いろいろと考えることが増えたなあ、と思う日々に、
頭の息抜きをしてまいります。

ふう。
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いつもの散歩道

2009年08月20日 | 雑記
電車の時間が毎日とても長いです。
毎日、一日の六分の一ほど電車に乗っています。
中学の頃から、今でも、電車に朝乗っている時間は、
たぶん家でこうしてパソコンを触っているよりも多くて、
その間に何かをしている時間、私は何をしていたのだろうと、
いまさらながらに不思議と想います。

20年近く、歩いてきた道があって、今日もまた靴で同じ
アスファルトと公園を踏みしめている自分と、
昔小さな靴で踏んでいたアスファルトと公園を踏んでいた
子供の自分は、ほんとうに自分だったのか、ほんとうに自分は
昔から今までここにいるのか、

そういうことを、今実感しているのかな?と思います。
指でパソコンを打っている指先のプラスチックの感触も、
このPCがなくなってしまえばずっと分からなくなってしまうわけです。

暦の上ではもう秋です。また秋です。
風が涼しくなってきました。

去年の私と来年の私は、いったいどういうものなのだろうと今の
私がわからないのは、やっぱり不思議なことだなあと思います。
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いろんな意味で夏の陣だった

2009年08月18日 | 映画
コミックマーケットの三日目をぶらついた後の
涼やかな映画でした。

やっぱり今回も「感想文」です。

:「サマーウォーズ」細田守監督 

2006年「時をかける少女」のアニメ映画を撮った監督の
第二段の作品です。
前回と同様、とっつきやすいアニメ映画だと思います。
家族で見ても、親も一緒に楽しめるような。

現実世界と仮想世界が、密接に生活へリンクした中での、
仮想世界のトラブルに立ち向かう、というストーリーですが、
総勢30名近くの、ある一族の中身を描くことに表現が
集中されています。

子供はこどもらしいし、
大人は子供も年下のものもしっかり受け止めてあげられる、
心からのおとなたちで、変な子供っぽさや、こまっしゃくれた
ものからは無縁です。

リモコンを取り上げようとする主人公の男の子をからかって、
リモコンを持ってちゃぶ台の周りをくるくる走り回る男の子たちは、
なまいきざかりでむかつくクソがき具合がちょうどいいです。

家をずっと離れていた親戚が、もめごとを起こしてそれでも
もう一度帰ってきたとき、まず迎え入れて一緒にご飯食べよう、と
言ったのは、彼が始め戻ってきたときまっさきに彼を迎え入れるのに
反発した人でした。
それも情をかけたような迎え入れ方ではなくて、さらっと
「ごあいさつしてらっしゃい。その後、ごはんたべましょう」
と言葉も声も流してくれるのです。
ここで感慨深くものを言うのは簡単ですが、
毎日帰ってくる人と同じように、遠く離れていて帰ってきた人へ、
これをスッと言えるのは、やっぱり「家族」だからこそです。

ここに出てくる人は、距離の取り方がうまくて、ちゃんとかまってくれることも、
ちゃんとほうっておいてくれることも出来る人たちばかりです。
だから、視ていて押し付けがましくはならないし、メッセージも強くないから、
誰でも見られる懐の深さがあるのではないでしょうか。



そんなに難しいことでは、無いと思うんだけどなあ。


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新聞と監督と決め台詞

2009年08月15日 | 雑記
今日、はじめての買い物をしました。

はじめて買う商品は、歳を取るごとに減ってゆくものですが、
新しいものに出会ったとき、それを買う逡巡と買った後の
どきどきはいつも同じように新鮮なのです。

店の前に立って、ちょっと迷って、商品を触ってみて、
意を決して赤い制服の、メガネをかけた小太りの青年に
声をかけました。



「東スポください」





*東スポ……東京スポーツ新聞の略。いわずとしれた「カイチュウ博士の虫の居所」を連載している不思議な新聞。


「……130円です」

店員の目は丸くなっていました。
私は新聞を抱えてどきどきしていました。「買っちゃった!」

お前はもっと別の理由でドキドキした方がいいよ、と今誰かが耳元で囁いています。


理由はあります。
駅のホームで読みふけっていたオヤジの肩からはみ出た一ページが、
私の目を釘付けにしたからでした。


こんな一ページです。



全文を掲載できなくてまことに申し訳ないのですが、記事を抜粋します。



チーム内ではこれまでも、さまざまな”原語録”が飛び交ったが
 にわかに
「ならばよし!」
 が選手間ではブームになっている。
「『蒼○航路』で曹操が言う決めぜりふと一緒なんだよ。
オレたちも苦しい戦を戦い抜いて、

『天下を統一しよう!』


と盛り上がってるんだ」



ごめんなさい。原文は伏字になってません。堂々と作品名を乗っけてます。でも私にはムリでした。ええ。


巨人軍ではこのフレーズが今アツイそうです。
そして監督は「乱世の奸雄」ならぬ「乱セの奸雄」を目指しているくせに劉備が本当は好きらしいです。



あと私の「岩波国語辞典第六版」では、「乱世」は「らんせい」の読みで掲載されています。




日本オワタ。

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いい仕事な文章

2009年08月13日 | 読書
昨日の文芸春秋についてちょっとだけフォローを入れます。
後ろの「昭和天皇」と宮城谷昌光さんの「三国志」はたいがいよいのです。
昨年も宮城谷「三国志」を取り上げました。今回は「泣いて馬ショクを斬る」で有名な街亭(がいてい)の戦いでしたがそれ以上に良かったのが、村上豊と宮城谷昌光の描く老将・趙雲です。

趙雲という武将は、三国志において、前半華やかな活躍を見せる若将軍……な印象が強く、どうしても劉備の死後影が薄くなりがちな男なのですが、よくよく読んでみると最後まで軍を率い続けて戦い抜いた、堅実だが非凡な活躍の目立つ男です。
宮城谷ドラマでは、老いた彼の独白が描かれます。
馬ショクの失策に撤退する蜀の兵たち、護るべき劉備はおろか、共に駆け馳せた関羽、張飛たちももういない。

『―志を果たしたとは、こういうことなのか。
 ときどき趙雲は関羽を想いだしては、そう問うてみた。
 ―中略―
 志を果たしたのは関羽であり、劉備ではないかもしれない。
 では、われに志はあったのか。
 趙雲はおのれをふりかえって目頭が熱くなった。


宮城谷さんは、想いのままに描くことがうまくなった、自分だけで陶酔して描くことがなくなったなあと思います。趙雲の独白は、老いた宮城谷さんが感じたことかもしれません。この時代の、時流と言うもの、歴史の流れを体感してさらに客観視した上で書いているものは、宮城谷さんの大いなる嘘です。
でも、流れを身体で分かっている人の筆致は、確かな歴史を描けていると思います。

三国志は、あまりにも登場人物が多すぎて、書こうとする人はほぼ、自分のお気に入りの人物にスポットを当てるか、事件の時々で目立った人をつなぎ合わせて歴史をつむごうとする傾向が強いと思います。まず「人物ありき」で描いてしまう。
ですが宮城谷さんは、もう誰がかっこいいかとかお気に入りの武将とかも当然あると思うのですが、それを一旦脇に置いて、大きな流れに目を向けています。
何か事件があれば、一度カメラをぐーっと遠ざけて、全体で何が起きているのか考える。宮城谷さんの頭で、事実の流れを確かめた後、流れを丁寧に追ってゆく。
追うときの筆の運びは流暢ですが、武将が言葉を吐くとき、ふ、とテンポがゆるみます。その場で、一人だけではなく関わった多くの武将の立場を切り替えて、言葉をつむいでゆくのをみると、一瞬群像劇のように、武将や兵士達がフラットに見えます。そうして平になったところをもう一度見直すと、お、なにかすごいことをした人がいるぞ、と改めて気づく。

宮城谷さんの、最高の仕事が今脈々とつむがれている、そういう気がします。


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あくたがわショー

2009年08月11日 | 読書
ことしの芥川賞は、イランの人が日本語で書いた「白い紙」…ではなく
磯崎憲一郎の「終の住処」でした。日本人でヨカッタネ。
なんか、またサラリーマン受賞さんです。普段サラリーマンが文章を書く、ということは別に不思議ではないし、言葉にこだわりはあるんだそれなりにフーン、ちぇ。と毎日思っている中の「また」なので偏見はあると思います。

なんでここまでくどくいうかというと、受賞者インタビューのタイトルを読んでこの作家がほんとに嫌になってしまったからです。


 「サラリーマン」と「作家」の時間術
 「良い仕事と僕の小説はどこかでつながっている」
  商社マンが純文学を書き始めたわけ 


なんかのギャグかと思いました。

これと、出だしの

『彼も、妻も、結婚したときには三十歳を過ぎていた。』

これでもうおなかいっぱいになりました。
これ以上もこれ以下も読まなくていいんじゃないでしょうか。
ページをめくれば、この人がじっくり腰を据えて「書ける」ということはよくわかる密度です。ただ、私は経験が足らないのか、かれの文章にきちんと寄り添って読む気力がありません。それだけなのかも知れませんが。

いずれにせよ、書ける人が狙いをさだめて書いた、計算高い文章だと思いました。
せめて日本語が読みたいです。日本語の文章が読みたいです。





だからちょっとだけさけばせてください。


フォント「6」で大声。

それがたいせつなことは分かってるし、
後で消したくなることもわかってます。
いいんだ。後で消せば。


せーの。


書類のためだけの文書なんて

だ い き ら い だ !


すっきり。
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荘子・追伸

2009年08月09日 | 読書
:荘子・追伸:

 借り物のことばばかりで恥ずかしい限りなのだが、『推背図』というまんがにちょろっと「荘子」が出てくる。ご本人ではない。宋の時代、持つことを禁じられていた書物を所蔵していた道士が、ある日密告されて役人に本を押収されそうになる。ところが、道士は本を人間に化けさせて外に逃がしていたので事なきを得た…というあらすじなのだが、発禁となった書物の一冊に「荘子」が加わっていたのだった。頭をおだんごに結わえ、儒服のようなゆったりした着物をまとって、口と顎に飄々とひげを生やして、役人に尋問された時も両手を上げて口をあわあわさせていたりと、かわいげのあるおっさんである。
 
 道士の弟子に引率されながら、他の本たちともおしゃべりに余念が無い。
「大昔、大椿という木があって、八千年の間葉を繁らせ、八千年の間落葉だった。
こういうのを長命と言うのだ」
「また荘さんの話は大げさでとりとめがない」
 ツッコミを入れたのは『抱朴子』である。ふたこぶらくだのような頭に、袖が深くくつろげた仙人風の衣服をまとった、たれ目のおじさんだ。『荘子』からすれば、本気で仙人になりたい人のためのマニュアル本『抱朴子』の方がずっと「大げさ」なのかも知れないが、とてもほのぼのとしたやりとりだ。
 最後に弟子が、道士に尋ねるときもやっぱり言われている。
「何千里もある鳥とか、やたら大きなことを言っていた人は?」
「『荘子』だ」

 そうなのだ。『荘子』は、本人?も漫画の中で「わしは比喩で言っているのだ」と言うように、距離と時間がものすごくおおごとな話が目立っている。たとえば外篇の、「秋水篇」は、黄河の神と海の神の対話で出来ている。雑篇の「説剣篇」に出てくる、荘子の語る三つの剣のうち天子の剣はひとたび動けば天下が服従するすごい剣だ。中華そのものを剣にたとえることが、ここまで読み勧めてゆくとちょっと小さいかな、と思えるほど、壮大な流れが全体を貫き通している。
 第二冊~四冊を占める外篇・雑篇は、後の世の人たちが書き足した部分も強く、内篇で大きく語られていた万物斉同の考え方はより身近なほうへとシフトされている。政治や、普段の生活の中で語られる教えというものがとても増えてくるのだ。自然のままに、ありのままを受け入れ、物に囚われない自在の立場を、外篇と雑篇では強く押してくるのだ。

 でも「ありのままでいる」ことを推すことは、推しているその人が「ありのままでいる」ことに囚われている、ということも出来る。そうなると、これを読んで、あるいは手に取った人は、もう荘子と言う人の語った教えに括られてしまっている、と言うことになるのではないだろうか。そうも語っているし、またそうでないのかも知れない。誰のことばでもないことば。

 
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パンパカパ-ン。いちねん過ぎました。

2009年08月07日 | 雑記
気づくとブログをはじめてから一年経っていました。

誰のものか知らないIPアドレスの増減が未だに一体何なのかよくわからないまま、時々見てもらっている方々にありがとうと告げます。ありがとう。大好き。

また一年、書き続けられますように。

『暗い日曜日』を聴きながら。なめくじうさぎ
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