えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・『奇跡がくれた数式』(原題 The Man Who Knew Infinity)2016年10月22日

2016年10月22日 | コラム
:預言者とかたりべの1729
 1729。

 「つまらない数のタクシーだった」とジェレミー・アイアンズ演じるゴドフリー・ハロルド・ハーディが、帰郷するために車へ荷物を積み込むデヴ・ハミルのスリニヴァーサ・ラマヌジャンへ言った。デヴ・ハミルはこう返さなければならず、その通り彼は言う。「とても興味深い数ですよ。二通りの異なる方法で、二つの三乗の和として表される最小の数なのですから」と、忙しく手を動かしながらデヴ・ハミルはキャッチボールを返すような速さと気楽さで言った。のちに二人へ敬意を表し『タクシー数』と呼ばれる数は、本来それが語られた病室ではなく路上にせわしなく放り出されることで、映画へのちょっとした味付けという役を与えられていた。

 数学者スリニヴァーサ・ラマヌジャンという人が1910年代にいた。映画『奇跡がくれた数式』(原題 The Man Who Knew Infinity)の原作『無限の天才』はこの人の人生を取り上げた一書で本映画の封切りを以て邦訳も再販されている。だいたい100年前の人だ。だいたい100年前の人が見つけた式が、今現在の学問の礎にいくつもなっており、本国インドではアインシュタイン級の有名人で小学校の子供でも知っているそうだ。ゼロの概念を作り現在世界中から引手あまたのIT学者を抱える国と考えると、とても象徴的に思う。

 それでも1900年代前半はまだまだ植民地気質が残っており、ラマヌジャンが独学で発見し続けた定理も埋もれる可能性があった。それを今に残すために活躍した人物がイギリスの数学者G.H.ハーディである。映画はたった105分でこの二人の濃いやり取りが分かるよう苦心して構成されていた。物語の主軸は既に大量の発想を抱え込む「預言者」のようなラマヌジャンと、彼の発想を世に出す形に整え発表しようとする「かたりべ」のハーディとのやり取りを断片的に映すことに据えられている。実際の年齢差は15歳だが、二人の役者の42歳という見かけ上の差がそのまま互いの違いを視覚的に表しているのがよいと思った。ちょっと洒落た人ならジェレミーの一挙手一投足が羨ましくなるかもしれない。灰色の三つ揃いの着こなしや巻きたばこ、パイプの吸い方など品のある無造作が型にも役にもバチッと音がしそうなほどはまっていた。

 話中何度もラマヌジャンは「直感」、ハーディは「証明」と繰り返す。故郷に妻と母を残すラマヌジャンと妻帯していないハーディ。アウェイの環境で自らの発見を世に出そうと急ぐラマヌジャンに対してハーディはしつこく証明の重要さを教える。デヴ・ハミルのラマヌジャンはそれを疎ましく思い、心身の苦労をハーディに理解してもらうことを諦めてゆく。こう書いているとハーディが何だか悪い人のようにも見えそうだが、ラマヌジャンの願う定理の発表にはそこに至るまでの過程をほかの人にわからせるために「証明」が必要なこと、そのためにラマヌジャンに足りないものがたくさんあることを最も理解していたがゆえにこの人もまた急いでしまい、結果的に二人は少しすれ違う。そのすれ違いがまた交わったときに現れるわかりやすくかつ数学的なシンボルとして1729は役をもらい、それを果たした。

 ラマヌジャンと別れた一年後、ハーディは同僚のリトルウッドとタクシーに乗る。「こっちのタクシーにしょう」とハーディが指さした1729ナンバーのタクシーを見てリトルウッドは何の意味があるのか、と首をかしげ乗り込む。そのうちわかる、とハーディが乗り込み、車のドアを閉めて映画は幕を下ろす。
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・櫛のはなし

2016年10月08日 | コラム
「このところ『みねばりの櫛はないか』って聞くお客さんが多いんですよ」
 テレビで紹介されたからですかね、と櫛屋の旦那は苦笑した。「特急で三時間なんだから木曾へ行けって話ですよね」「まあそうも言えないので、『うちはみねばりは扱っていませんが柘植の櫛も使いやすいですよ』と答えるようにしています」

 みねばりの櫛は一枚持っている。松本へ旅した際時間がだいぶ余ったので、足を延ばし電車で出かけた奈良井の宿場町で売っていた。ただしこの櫛は材質がみねばりであるというだけで、おそらくテレビで紹介されたであろう『お六櫛』とは別物だ。『木曽のお六櫛――木祖村文化財調査報告 Ⅱ――』に依ると『……木曽名産として広く知られ、木曽木櫛の代名詞となっていたのが「お六櫛」である。お六櫛は歯の細かい梳櫛で、今でも最上のものとされている。』とある。梳櫛は髪の汚れを取るための歯が細かい櫛全般を指すが、お六櫛は写真だと櫛目が目視できないほど細かい。同書に載っている最上級のものは『三寸に一二五本位の歯』、だいたい一センチあたり十本櫛歯が削られている計算になる。普通の半月型の櫛とは違って長方形をしており、長辺それぞれにこの細かい櫛歯が彫られているものを『お六櫛』と定義されているようだ。
「片方は粗歯じゃないんですか」「そうみたいです。両歯とも目が細かくて、荒っぽくブラッシングに使ったらいくらみねばりでも歯が折れるかもしれませんね」

 一名「オノオレカンバ」の名は伊達ではなく、みねばりの木は硬い。あまりにも硬いため歯を削る際にのこが歯の奥まで届かず、部位によっては歯が横から見るとヘラのように途中からへこんでいたりする。この硬い木へ細かく細かく歯を専用の鋸で引くのだから力も途中で歯を折らない技術も要る。ちなみに手引きのお六櫛は現在一年待ちだそうだ。
その櫛屋で売っている柘植の両刃の櫛は片方が粗い歯で、もう片方の歯は細かい。これは解櫛と梳櫛を一枚にしたもので、歯の粗い方で髪を解いて下ろし髪にし絡まった髪を整えた後、細い歯で髪の毛を梳いて汚れを取る使い方をする。使い方を間違えると細い歯はあっさり折れるので注意が必要だ。買って二日で寝ぼけながら硬い髪を梳き櫛で解こうとして折れた時の甲高い音は忘れられない。

 手持ちのみねばりの櫛は半円型で目はそこそこ細かい。これを以てみねばりの使い心地を語るのはどうも乱暴だが、とにかく髪を梳くと硬い。柘植の櫛が髪に吸い付いて髪に合わせるように柔らかく髪を通してゆくのに対し、こちらは細歯のくせにおろしたての歯ブラシのような容赦のなさで髪の間を通ってゆく。先に書いたことと矛盾するがブラシに近い使い心地がする。買って直後は仕上げの荒さのせいか櫛目が髪に引っかかるようで我が強く、売り場の小父さんの助言に従い小さなジップロックで油に数日浸しては使い、浸しては使いを繰り返してようやく使い心地は柔らかくなってきたが柘植の持ち味の柔らかさにはかなわない。その代り手入れをすればするほど応えてくれるので使う分には面白い。むろんお六櫛はもっと手入れが丁寧なのでこれとは使い勝手に雲泥の差があるだろうが、使うまで自分に合うかわからないのが櫛なので油断はできない。

 櫛ごとの使い方は櫛屋に聞くのが一番で、美容院と同じ要領で髪の相談をすれば髪質に合った櫛を教えてくれる。必ずしも目が細かい高級品が自分の髪に合うとは限らない。「櫛の歯が通らない」という表現に出会って悲しい思いをする前にも、まず櫛の種類の多さに驚き木の種類の違いを知ったうえで、できればお店で触り比べるのが櫛にも髪にも良い出会いになるのではないだろうか。
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