えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・毎年の終わり

2024年12月31日 | コラム
 今年もひるねが長かった。会社と同じ時刻に起きて、気分がずんと落ち込んだ鬱を言い訳にしようと考え二度寝して二度寝を止め、着替えて準備していた掃除道具を手に取る。脚立を上り下りして作業。背が届かないのでどうしても脚立との共同作業となる。運動不足の身体にはどんどんと堪える。バケツに溜めたぬるま湯はあっという間に冷えるが、去年の寒さに比べれば全然ましであった。今年は通年の平均最高気温を更新したらしい。確かに朝も突き刺さるような寒さとは無縁で、通勤の通り道の公園の土を踏んでも霜柱の高さは低く、風も冷たくはない。髪が邪魔だった。

 弟がガレージで車を洗っていたので、この掃除が終われば一番大変な
玄関掃除を手伝ってもらえるだろうかと薄ら期待していたが、最後の掃除に移る頃には車ごと姿を消していた。昼頃には戻ってきていたがどこへ行ったのかを訊ねるのも面倒になるほど疲れていた。玄関掃除は一人でやりたくない理由は、玄関扉を大きく開けなければならず、昨今の時勢柄少しでも眼を離したら誰かが入ってきそうなのがただ恐ろしく、人がもう一人居てくれれば安心になるのだが、肝心の労働力は消えてしまった。仕方ないので、少しでも休んだらもうそのまま動かなくなりそうであったので、左半身をきしませながら玄関の土間にあるものを外へ出していった。今年は出かける人はおらず文句も無かった。デッキブラシでこすっても取れない汚れが増えていく。自分の人生と同じように増えた取れない汚れをこすって水を流すとまあまあ見栄えはましになった。泥靴の靴跡が往復する。あまりにもホースの水圧が低いのでホースは全て出してしまった。途中で酷く折れて水圧が減っていたようで、ホースを全て出してしまうとまともな水圧に戻り、水圧でだいたいを掃除して水洗いを終え、あとは腰を溜めてデッキブラシにもたれかかるように力を込めてこするだけだった。雑巾で玄関のドアを拭き終えるとやっとこさ掃除が終わる。たった三時間だが左半身がひび割れたように疲れていた。毎日はできない。毎年一度だから何とか責任感でできるだけだ。いつまでも続けなければならない。いつまで続けられるだろうか。歳を重ねていく。私たちは老人になりつつある。

 休んでいると弟が帰ってきた。母と姿を間違えて声をかけると野太い声が返ってきたので身をはね起こすと、昨日母が仕込んでいた唐揚げ用の肉を冷蔵庫から取り出そうと難儀していた。「おかえり」「ただいま」これくらいの距離が年齢の適切なのだと思う。

 本年も一年お付き合いいただきましてありがとうございました。こちらでは時事について書くことは慎んでおりましたが、毎月のように国や世界が変わりかねないニュースが飛び交うとても忙しない年であったと思います。来年もまた早々にアメリカ大統領の交代という大きな転換が訪れますが、国に絶望せず個人に埋没しすぎず、己を尽くすことが人にできることではないかと思わされた次第でした。
 とうとう二十年近くここに居座っておりますが、また来年も年を積み重ねるため、何卒よろしくお願い申し上げます。よいお年をお迎えください。
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・ゲームセンターへ

2024年12月28日 | コラム
 放出台だった。会社の近くのゲームセンターは殆どが一回200円であったことを踏まえると一回100円の台は当然ながら放出台と見るべきで、かといって以前随分前の景品を2000円きっかりの確立機で掴まされた覚えもあり、放出台といえどもクレーンゲームの筐体の設定は店側の良心にかかっている。繁華街のゲームセンターだった。隣ではのび太とスネ夫を足して二で割らないような小柄な男に、ジャイアンを小粒にしたような男が「次失敗したら殺すぞ」と脅しをかけていた。若い二人連れだった。「こつがあるんだよ。おまえは全然できねえな」と筐体の横から景品を覗き見ながらも指示はせず、どこにアームを入れるか考えているようだった。隣で私は引きずられるようにゲームを遊んでいた。珍しくきちんと動く橋渡しの台で、景品は今年頭に流行ったアニメの主人公だった。知人が好きなので取っても無駄にならない。隣ではジャイアンとのび太が両替をするか店員を呼ぶか迷っていた。QRコードを読み込めば店員が来ることを教えたが、ジャイアンは短気にも私が来る前に助言を受けた店員を探しに筐体の光が眩しい店内へと消えていった所だった。
「そんな便利な機能があるんですね」
「すぐ来てくれますよ」
 ジャイアンが戻ってきたので私はゲームに戻る。起き上がりこぼしのように安定しない景品だった。店員を呼んでもきりがない。しばらくゲームから遠ざかっていた事もあり、ゆっくり遊びたかったが如何せん一回が重なればそれなりに高い。気がつけば四千円ほどすっていた。のび太はジャイアンの手助けで無事景品を手に入れ、ジャイアンは続けざまに店員を呼んで新しい景品を置かせると「1000円で取るから」とゲームに挑み始めた。私はまだ取れなかった。
 またジャイアンが両替に行くとのび太は筐体の前に回って動かし方を考え始めた。
「上手い方なんですね」
「はい、うまいです。ほんと・・・」
「私なんか下手すぎて殺されるかも知れませんね」
「いやあ、ほんとにうまいので、僕も殺されそうです」
 のび太は見かけによらず物怖じしないのか、マスクをかけたワンレングスが静電気で派手に散らかっている様態の女から声をかけられても平然と返事をした。ジャイアンが戻ってきたので口をつぐむ。彼は確かにうまかったが、結局2000円ほど巻き上げられて「すぐ転売するぞ」と捨て台詞を吐いて去っていった。
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・明日の話

2024年12月14日 | コラム
 何をしに遠くへ行くのだと訊ねられた時の答えは相手に応じて変えている。そう親しくもない人には「遊びに」と応じ、ついでにお勧めの店や場所を教えてもらう。親しい人には「会いたい人に会いに」と伝える。納得してもらえることもあればしてもらえないこともある。相手にも私にも与えられた時間は平等でスタート地点が異なるだけだ。その日一日の時間の割り当てを私の為に少し割いてもらう。そのためには何かしらの代償を払うことは礼儀として当然ではないだろうか。実際それを売り物にするしょうばいも紀元前から存在している。私はその場所に取っては一過性のお客様なので、喋ってもよい。好きなことを適度に(これが難しい)話してもよい。ただし口に出して声に乗せて喋るので取り返しはきかない。人によっては打ち消せない。そこまで疑り深い人とは向こうの方から離れていくので遭遇したことは幸いにない。家族以外の人に会う時に抜ける息は年年増えるばかりだ。どれだけ身体の中に呼吸をため込んでいたのかと呆れるほど外へ出た私は喋る。どもりながら喋る。喋ることが無くなっても相手の時間をねだるほど喋りたがる。今日も忙しい相手を捕まえて三〇分もらった。いただいた。

 メールやSNSなど文章を使うほうが楽ではあるのだが、書けば書くほど身体の中に余計な物が溜まっていく感覚を覚えることもある。それは相手に対してではなく、自分自身で文章を推敲するために繰り返している最中自分に向けられる視点が放り投げる夾雑物だ。伝えるための文章は伝わらなければならない。伝わりたいことを絞って伝わるように書く。当然のように求められる能力だが難しいと思う。伝えたいことと伝えなければならないことの分量に生じる差を自覚するには慣れと賢さと、それから親切な相手が必要だ。

 今のところまだそれを指摘してくれる相手はいる。できる限り無くしたくないと思う。忘れられないように顔を見せに、どう見られるかは構わずに会いに行くそれはおそらくストーカーの心理に近いのかもしれない。昔はもう少しマシな言葉があったはずだが、今は古びてしまった。
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