えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・残り続ける日付

2022年05月28日 | コラム
 休息が欲しくて朝から横になり、風を通して眠っていた。今日はどうしても行かなければ行けない場所がある。家族の支度が整って呼びかけられた声が聞こえて目を覚まし、着替えて髪を整えた。まだ今時分の風は冷たくて心地よい。足を窓側に向けて眠っていたので爪先が少しだけ冷えていた。靴下を履くと部屋にこもる蒸れた熱気までが足先に閉じ込められるように蒸し暑くなった。夏日だった。去年の同じ日も何かを羽織って外に出ることが考えられないほどの暑さで、多少は繁華街に外出することへ引け目を感じずともよいほど世相が落ち着いていたと記憶している。それでも今現在より歩く人には緊張感があった。良し悪しは問えない。長い映画を見てパンフレットを買い、映画館にいる間は電源を落としていた携帯電話に電源を入れ直して知らせを受け取った。知らせに上書きされて映画の何を見ていたかは思い出せない。落ち着いたらそれを書こうと思い忘れて一年後が来ている。あの時隣の席で感動していたお嬢さんは、映画を見終わったその足でこれから外国へ移住しに飛行場へ行かなければならないと去っていった。その後姿がビルの地下街の階段を降りていったことは覚えている。今日も何かを羽織ると日焼け以上に汗を蓄えそうだ。車の中に冷房が入っていた。道路は渋滞している。誰もいない家の中で自分が何かをしてしまったのではないかと言い知れぬ恐怖と緊張感に延々と駆られながらうつむいて目的地へと揺られていった。街路樹の葉の青さが目に痛い。日傘をさした人や帽子を被った人が皆半袖で歩いている。三年前まではそれが当たり前だった。今は懐かしくも珍しい光景として取り上げられている。人が休日に家族や仲間連れで歩いていることが白眼視された二年を経て、信号待ちをしている人たちが距離を考えずに団子になっているのを見るとぎょっとするように自分が反応していることに驚く。目的地に着いた。用事は三十分ほどで済んだ。帰りの道路は空いていた。帰宅して何も起きていない家に入ってまた寝転がった。夢も見ることなく寝入って目覚めると時計は夕方を指していたが、まだきつい日差しが爪先を焼いて全身に薄汗をかいていた。体から年寄りの臭いがする。
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:読書感『野生のごちそう 手つかずの食材を探す旅』ジーナ・レイ・ラ・サーヴァ  棚橋志行 亜紀書房 二〇二一年六月

2022年05月14日 | コラム
 幼い頃『自然図鑑』に触発されてスダジイを探し実を割って中の核をねずみのように齧ったり、ツクシとともにたんぽぽの葉を摘んで呆れられながら天ぷらにしてもらったり、ノビルの球根を花壇から抜いたはいいが食べたいと言い出しきれずに干からびさせたりといった体験が『野生のごちそう 手つかずの食材を探す旅』の表題を見て最初に思ったことだった。奇遇なことに第一章にはノビルの仲間の植物が身近に採集できる野草として紹介される。だがそれらを摘むのはデンマークの一流レストラン「ノーマ」の料理人たちで、それらが生えている場所は共同墓地であるという、こちらの感覚や常識をむしろ疑うべきなのかもしれない場面から「野生のごちそう」を巡る著者の調査と思索は始まる。
「そこで採集をするのが合法かどうかは誰も知らなかったが、街の一流シェフは皆そうしているという。
 その墓地には、市内でいちばん美味しい野生のラムソンが採れるという評判があった。」
 自国を含めた周辺諸国で採集できる食材しか使わないという信念のもと、料理人たちは墓地の植物を摘んでその場で一齧りし味を確かめた後に瀟洒で高額な料理へ仕立て上げて客に提供する。取材した採集で仕入れた野草を使った料理を振る舞われる著者の箸はつまらなそうに皿をつついている。民話や伝承の世界ならばもれなく夜中に怪異が起きそうだがノーマの材料採取地はほんの皮切りに過ぎず、嗜好を原理に突き進む食の資本主義はとどまることを知らない。お金さえあれば法を問わずに何でも手に入るという事実の列挙が多すぎて徐々に感覚は麻痺してゆく。野草を始め野生動物の肉や燕の巣といった「野生のごちそう」は「地位を測る物差し」なのだ。少なくとも今現在はそういうことなのだと各地を取材しながら著者はぽつりと語る。
「資本に見放され、放置されたこういう空間が、未来の野生の辺境となるのだろう。」
 誰かや何かを責めたり自分の考えを強く挙げることはしない。著者もまた食を巡る先人に連なって各地へ渡りその土地の野生とされている食材を口にしていく。ノーマの料理の簡素な箇条書きから一転して味の表現が豊かになるというあからさまな皮肉を織り交ぜながら食べ、味わい、食材を手に入れる過程にある社会問題や自然の状況を客観的に分析する。特にコンゴの滞在で手に入れた体験は本書とは別に論文にもされているほど濃厚だ。血の臭いを嗅ぎつけて蠅たちはブッシュミートと呼ばれる現地の野生動物の肉にまとわりつく。それ以上に人間と札束が無数の見えない餓鬼のような手で肉にしがみついている。現地の保護活動に従事する男性との短い恋愛を緩衝材にしつつも一瞬で金権絡みの現実に引き戻す起伏の激しさが人間の剥き出しの野生の執念なのかもしれない。探索の果に「辺境なんて、じつは想像上の概念だったのだ」と著者が答えを書くよりも早く読者は野生という定義がいかにあやふやな概念なのかを札束の切れ味から察し感じ取ることができる。
「<手つかずの自然>とは長きに渡って特定の場所についての概念だったが、それと同時に、私たちの食欲や願望を映す鏡でもあった。人間の欲望は自然を、そうあってほしいと願う風景につくり変えていった。」
 内的な欲望が自然を作り変えることをいやというほど読んだあと、スウェーデンから密輸したヘラジカの肉をアメリカで味わっている著者の目が作り出していた「そうあってほしい風景」を、少しだけ尋ねてみたくなった。
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