「おすすめのゲーム」「面白いゲーム」「名作と呼ばれるゲーム」名詞はどんなものにでもあてはまりそうな形容詞で評される時、何を以てその形容詞は選ばれるのだろうか。人から「面白いゲームを教えて欲しい」と言われる時、ちょっと考えると物なぞなかなか人に薦められないことに気づく。その人が何を面白いと思うか、という問いが立ちはだかるからだ。
コンピュータゲームを構成する要素をざっくりと挙げてみる。(1)視覚的要素―モニタに映る表示なお―、(2)聴覚的要素―機械あるいは表示機器そのものが発する音、効果音など―、(3)触覚的要素―ボタン、スイッチ、コントローラ諸々―、(4)非感覚要素―ストーリー、ルール―、こんなところだろうか。(1)、(2)、(3)はゲームを遊ぶプレイヤーの五感が知覚するものである。そのうち残りの嗅覚や味覚も要素の一つになることもそう遠い日ではないのかもしれないが(以前別に取り上げた「食育ゲーム」は味覚も要素の一つである)、今のところは五分の三の要素が目に見えてわかりやすい。では(4)は何者なのだろうか。
仮に据え置き型のコンピュータゲームを遊ぶ過程を想像する。まず機器へ必要なバッテリーなどを接続し、ソフトウェアを接続して電源を付ける。コントローラを握り、ゲームを始める命令をボタンを通じて機械に与える。この間、機械そのものが異常を知らせる音を発したり、ソフトウェアの接続がうまくいかない場合はモニタへ妙な画像が発せられることもあるが、上手く起動に成功すればゲームは用意されているプログラムを実行し、モニタへ情報を映し出す。たとえば起動直後は必ずオープニング画面を表示させ、その画面にはタイトルを表示しつつ音楽を流す、など。プレイヤーはプログラムに沿って現れた画面や音を認知し、そのゲームに与えられたルールに沿って遊びを始める。
ルールがプレイヤーに提供する感覚は無い。もちろん、理不尽なルールに怒りを覚えたり、不条理なルールへ疑問を発したりとプレイヤーへ印象を与えることはできるものの、ルールはあくまで遊びのしくみであって、プレイヤーの感覚が味わう物には含まれない。どんなゲームでも、その形のないものへの従属が強要される。強要されたルールやストーリーの中でプレイヤーは遊ばざるを得ない。画像や音楽はゲームを構成する要素の一つであることは述べた。だが、コンピュータゲームを遊びたらしめている要素は目に見えないルールである。
そのルールが、あるいはプレイヤーを楽しませ、苦しませ、最終的なとして評価を決めてゆくのではないだろうか。ゲームの「面白さ」を決定づける要素はプレイヤーそれぞれにしても。
コンピュータゲームを構成する要素をざっくりと挙げてみる。(1)視覚的要素―モニタに映る表示なお―、(2)聴覚的要素―機械あるいは表示機器そのものが発する音、効果音など―、(3)触覚的要素―ボタン、スイッチ、コントローラ諸々―、(4)非感覚要素―ストーリー、ルール―、こんなところだろうか。(1)、(2)、(3)はゲームを遊ぶプレイヤーの五感が知覚するものである。そのうち残りの嗅覚や味覚も要素の一つになることもそう遠い日ではないのかもしれないが(以前別に取り上げた「食育ゲーム」は味覚も要素の一つである)、今のところは五分の三の要素が目に見えてわかりやすい。では(4)は何者なのだろうか。
仮に据え置き型のコンピュータゲームを遊ぶ過程を想像する。まず機器へ必要なバッテリーなどを接続し、ソフトウェアを接続して電源を付ける。コントローラを握り、ゲームを始める命令をボタンを通じて機械に与える。この間、機械そのものが異常を知らせる音を発したり、ソフトウェアの接続がうまくいかない場合はモニタへ妙な画像が発せられることもあるが、上手く起動に成功すればゲームは用意されているプログラムを実行し、モニタへ情報を映し出す。たとえば起動直後は必ずオープニング画面を表示させ、その画面にはタイトルを表示しつつ音楽を流す、など。プレイヤーはプログラムに沿って現れた画面や音を認知し、そのゲームに与えられたルールに沿って遊びを始める。
ルールがプレイヤーに提供する感覚は無い。もちろん、理不尽なルールに怒りを覚えたり、不条理なルールへ疑問を発したりとプレイヤーへ印象を与えることはできるものの、ルールはあくまで遊びのしくみであって、プレイヤーの感覚が味わう物には含まれない。どんなゲームでも、その形のないものへの従属が強要される。強要されたルールやストーリーの中でプレイヤーは遊ばざるを得ない。画像や音楽はゲームを構成する要素の一つであることは述べた。だが、コンピュータゲームを遊びたらしめている要素は目に見えないルールである。
そのルールが、あるいはプレイヤーを楽しませ、苦しませ、最終的なとして評価を決めてゆくのではないだろうか。ゲームの「面白さ」を決定づける要素はプレイヤーそれぞれにしても。