無風の湖面に石を投じた漣のような歩みが観客を静まりかえらせた。美女のオモテに綺羅の装束をまとったシテの友枝昭世は赤い着物のワキツレを従え松を過ぎ越えながら、四つの柱で囲まれた本舞台へ足を踏み入れた。能「紅葉狩」は女たちの宴から始まる。やがて自分を討伐するワキの男を誑かすため、シテの鬼は女へと姿を変えて男を待つ。諸国廻りの僧侶のようにシテの登場を待つのではなく、この能ではワキは本来自身が座るべき右手前の柱で待ち構えるシテの作り上げた場へ飛び込まなければならない。橋掛かりからシテの本舞台へ踏み入る宝生閑のワキ平維茂の足運びは、緊張を保ちながらもするりとその場へ見事に溶け込んだ。
平維茂が名乗りを上げ、互いの連れ同士が詞をやりとりする中、かれは微動だにせずそこにいた。―あれは何だろう―といったものが、思わせぶりな素振りひとつ見せずそこにいる。それは舞台の空気を一点に押えている文鎮だった。
やがてかれは男を迎えるために立ち上がる。周到にいじましくしどけなく、かれはワキを脇座へ追いやり、シテとワキの対角線をつくりあげた。支度の終わりを告げるように手を軽く上げ、舞いだす。緩やかに緩やかに、対角線の先に端坐するワキと扇で酒を酌み交わす楚々とした足取りの合間に時折床をとん、と、音を立てずに力を込めて足を下ろす。かれが足踏みする度にワキの姿勢は崩れ遂には上半身を傾け、扇を持つ左手を中空に浮かせたまま停止する。
「かくて時刻も移り行く 雲に嵐の声すなり 散るかまさきの葛城の、神の契りの夜かけて 月の盃さす袖も、雪を巡らす袂かな」
その停止を切欠にかれは広げた扇をきっと全身で翻して間を斬った。それまでは振り返る、うつむく、首をかしげる仕草に合わせてオモテは含み笑いを漏らしたり、不敵な笑みを浮かべたりとワキが目覚めている間は確かに艶のある女であったものが、扇の一線でこれから表す姿を重ねて舞っていた。全く別のものに変わる直前のどちらでもないものが内に込めた鬼の力強さを仄めかしているのだ。これから鬼へ変わる、しかし姿は女である。女と鬼を行き来するその舞はかれのまとう着物よりも鮮やかに写った。かれが女である時は終わり、憚ることのない足踏みは音を増して舞う手は鋭く、しかし執拗にワキの眠りの深さを推し量りやっと、作り物の山へと姿を隠した。女でもなく鬼でもないものの舞い納めの瞬間だった。
ワキはその光景を目にすることなく、目覚めた目前に立つ鬼を太刀で討つ終わりをただじっと、中空に酒を重ねた盃である扇を持ちながらこれも微動だにせず待っていた。
平維茂が名乗りを上げ、互いの連れ同士が詞をやりとりする中、かれは微動だにせずそこにいた。―あれは何だろう―といったものが、思わせぶりな素振りひとつ見せずそこにいる。それは舞台の空気を一点に押えている文鎮だった。
やがてかれは男を迎えるために立ち上がる。周到にいじましくしどけなく、かれはワキを脇座へ追いやり、シテとワキの対角線をつくりあげた。支度の終わりを告げるように手を軽く上げ、舞いだす。緩やかに緩やかに、対角線の先に端坐するワキと扇で酒を酌み交わす楚々とした足取りの合間に時折床をとん、と、音を立てずに力を込めて足を下ろす。かれが足踏みする度にワキの姿勢は崩れ遂には上半身を傾け、扇を持つ左手を中空に浮かせたまま停止する。
「かくて時刻も移り行く 雲に嵐の声すなり 散るかまさきの葛城の、神の契りの夜かけて 月の盃さす袖も、雪を巡らす袂かな」
その停止を切欠にかれは広げた扇をきっと全身で翻して間を斬った。それまでは振り返る、うつむく、首をかしげる仕草に合わせてオモテは含み笑いを漏らしたり、不敵な笑みを浮かべたりとワキが目覚めている間は確かに艶のある女であったものが、扇の一線でこれから表す姿を重ねて舞っていた。全く別のものに変わる直前のどちらでもないものが内に込めた鬼の力強さを仄めかしているのだ。これから鬼へ変わる、しかし姿は女である。女と鬼を行き来するその舞はかれのまとう着物よりも鮮やかに写った。かれが女である時は終わり、憚ることのない足踏みは音を増して舞う手は鋭く、しかし執拗にワキの眠りの深さを推し量りやっと、作り物の山へと姿を隠した。女でもなく鬼でもないものの舞い納めの瞬間だった。
ワキはその光景を目にすることなく、目覚めた目前に立つ鬼を太刀で討つ終わりをただじっと、中空に酒を重ねた盃である扇を持ちながらこれも微動だにせず待っていた。