(雨の日も晴れの日もひねもすコオロギが鳴く草むら)
砂浜の上を素足で歩く春!ハマヒルガオの紫の花弁が懐かしい!しかし、たくさんきらめいてあった白砂はもうそこにはなく波はいつもと変わらないリズムで優しげだったけど、浜は昔の浜ではなく水が湧いた岩ももうどこにあるのか、姿があいまい色...
送られてきたブログになぜか何かが掻き立てられている。去年の同じ日に自ら書いたことばが送られてくる。思いがけない発見がある。そうか、去年の今頃わたしは浜辺を歩いていて、そして君を思っていたのだー。そして君は遠くにあって身近にはいなかった。その繰り返しの中で時に浸食されていく感情があるのだーー。優雅な精進があるのかもしれない。しかし囲いの、通り一遍の、段階の果ての無残さがそこに見える。人はことばを交わしていて交わしていないのかもしれない。建て前のことばの中、つまり記号のことばを生きて死んでいく。だから古典や民謡を歌っている人は歌いながら思いを浄化させているのかもしれないね。それは陶酔でもあり救いでもあるのかもしれない。