憲法についての議論が沸騰した時、仏教界から、なんのコメントもなかったように思う、仏法では、
一切は 皆空なり
一切は「すべて」、この中に憲法も入るようだ、それが「空(くう)」、空とは、
「すべては 実体がない 原因と関係によって生じる」
「この世界では 絶対的なモノとコトは存在しないのだ」
だから、憲法も絶対ではない、もっと大事なものがあり、世俗的には「いのちと生活」か。
憲法学者の中には、
「アジアに 脅威はない」
「チベットやウィグルは空白地帯だったから 支配されたのだ」
「中国のやることに逆らうのは 得策ではない」
そんなことを、公然と発言している者がいる、これは、アタマの中でこねくりまわした考えだろう、「天安門」で検索すると。ひしゃげた自転車の画像、ヒトの姿がない、数十トンの戦車のキャタピラでスマシュされたのだ、肉も骨も原形を留めていない。
自分の国の若者にさえ、こんなことをするのだから、今、チベットやウィグルで、なにをしているだろうか。
さて、憲法でいう「自由・平等・権利」は近代的思想であり、ヨーロッパ人の考え出したものだ、きわめて抽象的な概念で、これを理解するのは、実際は難しい、それに対して仏法は「諸法無我」、これは「一切皆空」と同じことだが、憲法が特筆大書している「個人の権利」、この個人も近代的な考え方で、ホントーは、なかなか、説明できないものだろう。
曹洞宗の開祖・道元は、
仏法ならうとは 己にならうなり
己にならうとは 己を忘ることなり
己を忘るとは 萬法に證せらるるなり
「萬法」を「まんぼう」と読む僧がいる、
「マンボー チャチャチャー イェイー」
「バカモノ だから お前はダメなんだ」
自我の最高の状態、いや、あるべき正体は、自我を忘れる・自我を超えている、アップルのスチーブ・ジョブズが心酔したはずだ、だが、それだけの意識のある者は少ないようだ。