R.デカルト 1596-1650
日本国憲法の「個人の権利」の個人は、やはり、デカルトの第一原理から出発するのだが、これは、仏法の己事究明と、どのように関係するか。
近代を開いた巨人・ルネ・デカルトは、世界を支える確固不動の一点を探索する、そのためには、すべてを疑わなければならない、
1、キリスト教の神
2、社会の伝統や慣習
3、学問の真実
4、法律の正義
5、ありとあらゆる価値
6、こうして疑っている自分
デカルトの懐疑の前には、キリスト教ほど曖昧なモノはない、もちろん失格、また、地球上にいると思っているが、実は、違う天体かもしれない、こうして見ている景色も、ちがって見える動物がいる、だが、疑っている自分がいるということは、どうだろうか。
一般に、「我思う故に我あり」と理解されているようだが、これでは「我思う」を証明しなければならない、その証明を証明・・・どんどん後退していく、だから、これは、
「考えている我がある」
直観的直証的事実であり、形式論理ではないということ、「事実」である、ここに、近代世界を支える確固不動の定点がセットされたことになる、そして、ここから、「近代的個人」と「合理的理性」が引き出された。
だが、やはり「己を忘れることが萬法に証される」までには、行かなかった、それが、近代の限界といいたいが、そもそも次元がちがう、立っている次元がちがっていた。
日本国憲法の「個人の権利」の個人は、やはり、デカルトの第一原理から出発するのだが、これは、仏法の己事究明と、どのように関係するか。
近代を開いた巨人・ルネ・デカルトは、世界を支える確固不動の一点を探索する、そのためには、すべてを疑わなければならない、
1、キリスト教の神
2、社会の伝統や慣習
3、学問の真実
4、法律の正義
5、ありとあらゆる価値
6、こうして疑っている自分
デカルトの懐疑の前には、キリスト教ほど曖昧なモノはない、もちろん失格、また、地球上にいると思っているが、実は、違う天体かもしれない、こうして見ている景色も、ちがって見える動物がいる、だが、疑っている自分がいるということは、どうだろうか。
一般に、「我思う故に我あり」と理解されているようだが、これでは「我思う」を証明しなければならない、その証明を証明・・・どんどん後退していく、だから、これは、
「考えている我がある」
直観的直証的事実であり、形式論理ではないということ、「事実」である、ここに、近代世界を支える確固不動の定点がセットされたことになる、そして、ここから、「近代的個人」と「合理的理性」が引き出された。
だが、やはり「己を忘れることが萬法に証される」までには、行かなかった、それが、近代の限界といいたいが、そもそも次元がちがう、立っている次元がちがっていた。