二銭銅貨

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ファウスト/ゲーテ(相良守峯訳)

2011-07-18 | 読書ノート
ファウスト/ゲーテ(相良守峯訳)

岩波文庫

当時有名だったファウスト伝説を詩による戯曲形式で書いた詩篇。壮大なファンファジーを語る中に、社会批評や倫理的な理屈などの様々な事柄が記述されている。悪魔に魂を売ることによって普通じゃ出来ない色々な事にチャレンジできるようになって、様々なファンタジックな経験をする話。

11936行目、天使たちの言葉、「絶えず努め励むものを我らは救うことができる。」の部分は、訳者の注によると「ファウスト全曲のモットーともいうべき重要な文句」とある。

ファウストは魂を悪魔に売ることによって世の真理を窮めようとし、様々なチャレンジを絶えず励む中で、グレートヘンとの恋に落ち、その恋から彼女をして殺人を犯さしめ、地獄に堕とさせてしまうという罪を犯してしまう。このことが彼を苦しめるけれども、その贖罪を求めて第2部のファウストはずっと放浪を続けているようにも思える。

魂を悪魔に売るという事を倫理的に許されない事をすると言う意味に取れば、仮にそのようなことになったとしても、他人や社会のために、あるいは真理の追究のために、チャレンジし続けている経過の中でそれが起こったのであれば、最終的にはその罪は贖罪されるということなのだろうか。

チャレンジすると言うことは人間社会の進歩にとって必要不可欠な重要な要素である。しばしば無謀で無思慮なチャレンジが災厄をもたらすことがあるけれども、それは人類進歩にとって避けることのできない副作用なのだと思う。そのリスクを取ってチャレンジするということなしに進歩するということは、ありえないので、進歩するためにはチャレンジを絶えず努め励み続けなければならない。

進歩の副作用を恐れてチャレンジぜすに尻込みしていてはいけない。例え、それが魂を悪魔に売る行為だと人に言われようとも、それにチャレンジするような人が世の中にあっても良く、仮にそのような人でも最終的には贖罪される。極論すればそういうことなのだろう。

ちなみに、進歩とは言いかれれば環境に適応して生存し続けることを意味し、これは生物の生物たる由縁を表すものである。リスクを取ってチャレンジし続けるという事は生物の自然な性質でもある。

なお、本の中では地獄に堕ちたグレートヘンも許されて天国にいてファウストのために歌っている。

11.07.07
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高慢と偏見/ジェーン・オースティン(富田彬訳)

2010-07-16 | 読書ノート
高慢と偏見/ジェーン・オースティン(富田彬訳)

岩波文庫

人の心の動きを繊細に、心情的に、美術的に表現して行くのが心理小説というものだと思うけれども、本作はそれをロジカルに綿密に検討している点が特徴だ。この作者自身が普段からそういう思考をしていると思われ、それは興味深いことだ。この人は情動と論理的考察が、同時あるいはそれに近い形で心の中で機能するような人なんじゃないかと想像したが、そのような人は少ないと思うので、そういう人が居るということ自体がおもしろいと感じた。

普通、人は情動に動かされて行動しながら、その上に論理的考察が乗っかっているように思われ、また、その情動と理性は同時には働かないように思う。たとえば、ある一定時間怒り狂って怒鳴りちらした後、少し時間が経過して、落ち着いて来た所で理性が働くというようなケースである。こんな風に理性と情動はタイムシェアリングで交互に出て来て機能することが多いと思う。けれども、この小説では情動に基づく行動と論理的な考察が分離して同時に並列処理されているかのように見える所が面白い。仮に交互に出て来るとしても、その交代時間が短い。論理的考察は常に心に常駐し情動をモニターしているかのようである。

普通ロジカルに心理を考察すると小説として成立しなくなるし、一方で芸術を志向して小説を書くと論理的で無くなるように思う。芸術とは情動に基づくものであり、また論理は物理科学の基礎だから、普通はこの両者は両立しないと思う。だから、この小説の論理的な基礎は面白いとい思う。
内容は出来損ないの少女マンガのようだし、表現も素朴と言うか幼稚だけれども、この小説が評価されている事の1つはそれだと思う。

これを20代前半の女性が書いたことは驚きだ。

この作品が評価されるもう1つの特徴は、作品全体に流れる荒削りだけれども若々しく荒々しいチャレンジングな特質だと思う。この特徴は、こうしたデビュー前の若い女流作家の作品に共通しているようにも思う。むやみに自信に満ち怖いもの知らずで、一直線に暴走している感じだ。まさに作品自体が高慢と偏見なのだ。

10.07.16
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オネーギン/プーシキン(池田健太郎訳)

2010-06-26 | 読書ノート
オネーギン/プーシキン(池田健太郎訳)

岩波文庫

タチアーナはそれでもオネーギンを深く愛してしまっていた。何でだか分からない。どうしてだか分からない。多分、少女の時のオネーギンの第一印象の打撃が深く深く心の底に打ち込まれているからなのかも知れない。理性では排除すべき恋愛と分かっていて、また、平凡な結婚から紡ぎだされる習慣の色どりが有力な恋愛の1つであって、自分が今その環境にあることも分かっていて、それでも、その打ち込まれた楔は抜かれることが無いし、また抜こうともしない。メラメラと燃え上がる恋の炎は抑制されていない。そのエネルギーの高さは隠されているだけなのだ。

彼女は強い理性で、その恋愛の炎を完璧にカバーして外に漏れないようにしている。その強力な理性は白く輝くセラミックのように美しく、宇宙船に貼られるタイルのように強固だ。

それだけではない。タチアーナの美しさは、その外見の美しさにあるだけではない。内面の情熱の炎の強烈なエネルギーの高さがその美しさの本質なのだと思う。厳冬のロシアの古風な家屋の中にある暖かい暖炉みたいだ。

10.06.19
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白痴/ドストエフスキー(木村浩訳)

2010-06-20 | 読書ノート
白痴/ドストエフスキー(木村浩訳)

新潮文庫

ディラックのδ関数というのは、高さd、幅1/dの関数におけるdを無限に飛ばした超関数で、様々なところで使われる便利な性質がある。電気の世界では、これはインパルス関数と呼ばれ、ある回路の入力にこれを入力し、その出力波形を見ることによって、その回路の電気特性が総て分かるという性質のものである。たとえば音楽ホールで、かしわ手をポンと打つと反響があるけれども、このかしわ手がインパルス関数に相当し、反響がインパルス・レスポンスとなる。この反響の周波数がそのホールの共振周波数、その減衰の早さがそのホールの音の吸収の良さを表すものとしてホールの特性が分かるのである。

無制限の良い人、つまり無制限に他人に対して役立とうとするような人物はこの世には存在しない超人間だけれども、そのような人間をこの世の中にほうり込んだらどうなるであろうか?その時のその周りの人々のリアクションはまさにインパルス・レスポンスに相当しており、それを観測することによってそれらの人々や、その社会の特性を総て分析できるかも知れない。

一般には、社会での人と人のやりとりはδ関数のような極端な信号ではなく、適度に抑制されたモダレートな信号である。入力も出力もそのような抑制された信号なので、各人個々の特性はあまり表に出ないし、またそうであるからこそ社会は無事に機能して運営されている。しかしながら、そのままで各個人の特性を分析するのは非常に難しい。それを解決する手段の1つが、そのような実験で、もちろんドストエフスキーがそんな事を意図していたかどうかは分からないけれども、そのような実験を行ったのがこの小説ではないかと思った。

ドストエフスキーはムイシュキン公爵を完全な善人として描こうとしたらしいけれども、読んだ印象では、彼よりもその周囲の人物達が良く描かれていたのでそう思ったのである。

10.06.12
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カラマーゾフの兄弟/ドストエフスキー(原卓也訳)

2009-11-08 | 読書ノート
カラマーゾフの兄弟/ドストエフスキー(原卓也訳)

新潮文庫

ドストエフスキーについては、いたずら好きで、お茶目で、人のあげあしを取ったり、からかったりするのが好きで、理屈っぽく、人情家で、涙もろくて、ふざけていて、意地悪で、女好きで、移り気なんだけれども真面目で正義感の強い、気弱な所もある人だっていう印象を受けました。

この小説は様々な人間や社会の模様をその中に塗りこめたもので、特に思想や宗教についても深く深く考察しているように思われるものだが、芯になる部分は父と子の話なのかと思った。三兄弟と私生児の父親との関係の話が主筋だけれども、もう1つ貧乏な家庭の父と子の小エピソードがある。このエピソードの父親は主筋の父親に対して対比的だし、またそのエピソードの最後の部分は小説の締めくくりに使われている。三兄弟の父親は父では無いと小説の中の弁護士が断言していて、それがこの物語の一つの主張であるけれども、それに対して貧乏な家庭の父と子の関係を理想的なものとして見ているのかも知れない。

でもドストエフスキーってひねくれものだからな。
そうではなくて、もっともっと深い逆の意味があるのかも知れない。
ドストエフスキーの小説って、
そのひねくれ度合いの凄さにあると思った。
気持ちいい程、
見事にひねくれている。

09.09.04
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