カヴァレリア・ルスティカーナ、パリアッチ/東京文化会館(二期会)2012
作曲:マスカーニ/レオンカヴァッロ、演出:田尾下哲
指揮:パオロ・カリニャーニ、演奏:東フィル
出演:
サントゥッツァ:大山亜紀子、トゥリッドゥ:岡田尚之
アルフィオ:小川裕二、ローラ:富岡明子、ルチア:栗林朋子
カニオ:大野徹也、ネッダ:嘉目真木子
トニオ:桝貴志、シルヴィオ:塩入功司、ペッペ:小原啓楼
右斜め80度くらいに傾いた大きな大理石風の壁が両サイドにあって、舞台を挟み天井まで届いている。このせいで舞台やピットが水平でなく少し右斜め下に傾いているように感じる。やや不安な印象を潜在的に感じる。最初のカヴァレリア・ルスティカーナの舞台は、多数の椅子と幾つかのテーブルを用いた簡素なステージで、モノトーンな色あいの地味な美術だった。間奏曲の場面では横一列に並べた椅子の上をサントゥッツァが、うつむいて、うなだれて、ゆっくり歩く。間奏曲がサントゥッツァの悲しみを静かに表現する。哀しいねずみ色の涙。
2つ目のパリアッチでは一転してカラフルになる。大道具をたくさん使った明るい舞台。前の舞台のモノトーンなイメージから雰囲気がガラっと変わる。この演目の最初のセットが小さなTVスタジオ、さらに階段座席を使った大型スタジオに変化する。階段席はパイプで作ったような骨組みに樹脂製と思われる黄色い椅子を多数並べたもので、黄色い椅子は合唱団によって運ばれて階段席に置かれる。
カヴァレリアの最後で縦に長く接続されたテーブルをグルッと回し、舞台を飛び出したように見せる演出があった。客席から見ていると映画のカメラの急速なクローズアップのようで興味深かった。劇的な演出。パリアッチではパイプの階段席をゆっくり回し、階段席の一番上で逢引きするシルヴィオとネッダに照明をあてる手法が採られた。ちょっと映画のクレーンを使った長回しの手法のようだった。映画の1ショットだとしても良い構図のシーンだ。黄色の椅子達が効いていたように思う。薄暗がりと若々しい恋愛の輝き。
パリアッチは設定を現代か、あるいはそれに近い時代のTVショーに道化師の悲劇を移植したものだった。ネッダの衣裳や仕草は前半がちょっとだけ「ティファニーで朝食を」のオードリー・ヘップバーン風、後半がちょっとだけモンロー風。演出家は60年前後の時代設定をしていたらしい。登場人物の仕草からは現代風にも感じられた。
現代ではマスコミやメディアだけでなく、インターネットやゲーム、その他さまざまな場面で、虚構と現実がまざりあって溶融している。TVショーでは芸人のプライバシーが売り物にされ、ニュースショーでは庶民の生活が音楽付きで上演され、ゲームでは実際の戦闘が画面の中で繰り広げられ、インターネット上には虚偽と真実が入り混じって自己主張を声高に叫んでいる。虚構と現実の見分けが付かなくなった現代。現代人は皆カニオをなんだろうかと思ってしまった。パリアッチの喜劇をTVショーに置き換えた読み替えにそうした意図は無かったかも知れないが、そんな風にも感じられた。
サントゥッツァの大山亜紀子は堂々としたソプラノで強さを感じた。トゥリッドゥの岡田尚之は真面目な印象。アルフィオの小川裕二も堂々としていた。カニオの大野徹也はとても演劇的で苦しげな歌でカニオの苦痛を感じさせるものだった。ネッダの嘉目真木子は低い音が良く安定した安心感のあるソプラノ。シルヴィオの塩入功司は若者らしい単純で情熱的、イタリアな歌で、ネッダとの恋が良く表現されていた。桝貴志は迫力のあるバリトンで劇全体をしめていた。ぺッペの小原啓楼は要所のアリアをロカビリー風の衣裳でばっちり決めて、うまい。
演奏はややあらっぽい感じはしたが、抑揚のある歌うような演奏で歌手たちと良くアンサンブルしていた。イタリア気分満載の演奏だったように思う。
12.07.15 東京文化会館
作曲:マスカーニ/レオンカヴァッロ、演出:田尾下哲
指揮:パオロ・カリニャーニ、演奏:東フィル
出演:
サントゥッツァ:大山亜紀子、トゥリッドゥ:岡田尚之
アルフィオ:小川裕二、ローラ:富岡明子、ルチア:栗林朋子
カニオ:大野徹也、ネッダ:嘉目真木子
トニオ:桝貴志、シルヴィオ:塩入功司、ペッペ:小原啓楼
右斜め80度くらいに傾いた大きな大理石風の壁が両サイドにあって、舞台を挟み天井まで届いている。このせいで舞台やピットが水平でなく少し右斜め下に傾いているように感じる。やや不安な印象を潜在的に感じる。最初のカヴァレリア・ルスティカーナの舞台は、多数の椅子と幾つかのテーブルを用いた簡素なステージで、モノトーンな色あいの地味な美術だった。間奏曲の場面では横一列に並べた椅子の上をサントゥッツァが、うつむいて、うなだれて、ゆっくり歩く。間奏曲がサントゥッツァの悲しみを静かに表現する。哀しいねずみ色の涙。
2つ目のパリアッチでは一転してカラフルになる。大道具をたくさん使った明るい舞台。前の舞台のモノトーンなイメージから雰囲気がガラっと変わる。この演目の最初のセットが小さなTVスタジオ、さらに階段座席を使った大型スタジオに変化する。階段席はパイプで作ったような骨組みに樹脂製と思われる黄色い椅子を多数並べたもので、黄色い椅子は合唱団によって運ばれて階段席に置かれる。
カヴァレリアの最後で縦に長く接続されたテーブルをグルッと回し、舞台を飛び出したように見せる演出があった。客席から見ていると映画のカメラの急速なクローズアップのようで興味深かった。劇的な演出。パリアッチではパイプの階段席をゆっくり回し、階段席の一番上で逢引きするシルヴィオとネッダに照明をあてる手法が採られた。ちょっと映画のクレーンを使った長回しの手法のようだった。映画の1ショットだとしても良い構図のシーンだ。黄色の椅子達が効いていたように思う。薄暗がりと若々しい恋愛の輝き。
パリアッチは設定を現代か、あるいはそれに近い時代のTVショーに道化師の悲劇を移植したものだった。ネッダの衣裳や仕草は前半がちょっとだけ「ティファニーで朝食を」のオードリー・ヘップバーン風、後半がちょっとだけモンロー風。演出家は60年前後の時代設定をしていたらしい。登場人物の仕草からは現代風にも感じられた。
現代ではマスコミやメディアだけでなく、インターネットやゲーム、その他さまざまな場面で、虚構と現実がまざりあって溶融している。TVショーでは芸人のプライバシーが売り物にされ、ニュースショーでは庶民の生活が音楽付きで上演され、ゲームでは実際の戦闘が画面の中で繰り広げられ、インターネット上には虚偽と真実が入り混じって自己主張を声高に叫んでいる。虚構と現実の見分けが付かなくなった現代。現代人は皆カニオをなんだろうかと思ってしまった。パリアッチの喜劇をTVショーに置き換えた読み替えにそうした意図は無かったかも知れないが、そんな風にも感じられた。
サントゥッツァの大山亜紀子は堂々としたソプラノで強さを感じた。トゥリッドゥの岡田尚之は真面目な印象。アルフィオの小川裕二も堂々としていた。カニオの大野徹也はとても演劇的で苦しげな歌でカニオの苦痛を感じさせるものだった。ネッダの嘉目真木子は低い音が良く安定した安心感のあるソプラノ。シルヴィオの塩入功司は若者らしい単純で情熱的、イタリアな歌で、ネッダとの恋が良く表現されていた。桝貴志は迫力のあるバリトンで劇全体をしめていた。ぺッペの小原啓楼は要所のアリアをロカビリー風の衣裳でばっちり決めて、うまい。
演奏はややあらっぽい感じはしたが、抑揚のある歌うような演奏で歌手たちと良くアンサンブルしていた。イタリア気分満載の演奏だったように思う。
12.07.15 東京文化会館