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諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

真田と言えば昌幸・信繁(幸村)よりも真田信之(信幸)でしょ。その3

2015年12月23日 04時28分26秒 | 歴史

続きです。

関ヶ原の戦い。信之は秀忠の軍にいました。

上田城攻めに参加し、父・昌幸の説得に当たるも失敗。更に弟・信繁の守る戸石城の攻略を命じられます。信之は真田同士の戦いは避けたかったでしょう。何とか信繁を説得し戸石城の開城に成功。その後、信繁は父・昌幸の守る上田城に合流し、秀忠軍の足止めに成功しています。

これ、もしかしたら信之の策略だったのではないでしょうか。昌幸と信繁は戦で武功を上げたい。信之は父と弟とは戦いたくない。真田同士の戦いは避けたい。そう考えるとこの結果は真田ファミリーの望み通りの展開と言えます。そしてその主導が出来たのは信之だけだと思えます。

関ヶ原の結果はご存知の通り、東軍の圧勝です。一日で勝敗が決まりました。軍師・勘兵衛の黒田如水も一日で終わるとは思わなかったようです。でも徳川の主力である秀忠軍無しで勝ったと言う事は最悪の展開でも勝てた事を意味します。

これ、徳川家康の采配かどうかは知りませんが、老齢の家康が全てに策謀したとは考えにくいです。多分、徳川家康には途轍もない軍師が付いていたと思います。それが誰なのか。

軍師は名を秘す。軍師が誰なのか知られては、その軍師が軍の弱点となってしまいます。その証拠に有名な軍師は大抵失敗しています。名の知られた軍師は駄目な軍師なのです。

この話色々論議を呼ぶと思います。機会があればその謎の軍師を推理しながら書きたいと思います。

さて東軍の勝利となった。信之はここからが本当の戦だったと言えます。父と弟は敵となり、秀忠軍の足止めと言う武功を立てたのですから。もし秀忠軍が関ヶ原に参陣していたら、小早川秋秀も迷わず東軍に付いていた筈。外様大名の力を借りなくても勝ててた。家康に取っては痛恨だったのは間違いないです。外様大名の力を温存させてしまったので。私も家康なら真田憎しの感情を露にしたと思います。

関が原の戦いに参戦していない信之は大した武功も上げてませんが、昌幸の旧領に3万石を加増されて9万5千石へ。そして上田藩主を命じられましたが、上田城は解体されてます。家康の真田親子への憎しみは半端じゃなかったと言えます。

それでも信之は昌幸・信繁の助命に成功しています。父との決別から信幸の名を信之に改めたのはこの時です。それでも紀伊九度山に流罪となった昌幸の葬儀を認可して貰えななった。それだけ家康は昌幸を憎んでいた。その反面、昌幸を流罪で済ませたのは、家康が信之の存在を重要視していたからだと言えます。

それだけ苦労したのに信繁は大阪冬の陣に参戦。何とか和平に持ち込んだが、内堀と外堀を埋められてしまった。これで豊臣方が勝てる見込みがゼロとなった。

それなのに信繁は大阪夏の陣にも維持と面子で参戦した。これには流石に信之も苦悩したと思います。もう信繁の助命は流石に無理です。信之の度重なる悲しみ・苦悩は計り知れないと思いますね。

 

続く。

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真田と言えば昌幸・信繁(幸村)よりも真田信之(信幸)でしょ。その2

2015年12月22日 09時41分29秒 | 歴史

続きますよ。

 真田信之って地味な人だと思っているでしょ。そりゃ父親の真田昌幸や弟の真田信繁は徳川家康に一泡吹かせたほどの戦上手です。戦国時代トップクラスの軍師だと私も思っています。

でもね、知らないと思うけど真田信之はそれに匹敵するほどの軍功を上げています。親父の昌幸と一緒ではありますが、最初の武田家が織田信長に滅ぼされ信長に臣従。本領も安堵されていましたが、今度は信長が本能寺で自害。それで北条氏に臣従したと思ったら、北条氏と敵対していた滝川一益を支援して、滝川軍の退却に力を貸します。そして今度は徳川家康に味方し、北条氏の沼田城を奪取。

更に圧巻なのは信之が800騎の手勢だけで、北条の富永主膳が5000の兵で守る手子丸城をたった1日で奪取しています。この武功は昌幸・信繁でも流石に簡単には出来ないでしょう。私はね、これで真田一の弓取りは信之だと確信しました。

この時期、真田家は一番の波乱の時代でした。この波乱で信之は生き残る事の重要性を学んだと思います。信繁はこの波乱を経験していません。人質だったので。もしこの時期の真田の波乱を見ていたら、後に豊臣に味方するとは無かったかも知れませんね。

その後、真田昌幸は味方した徳川家康から沼田領の割譲を持ちかけられ、それを拒否。今度は徳川に敵対していた上杉側の味方し、信之は戸石城にて300の兵で着陣。徳川の主力部隊を翻弄し勝利に貢献しています。信之も家康に一泡吹かせているのです。武功面でも有数なのです。

真田信之の実力を一番評価したのは、最初は敵だった家康でしょう。豊臣の時代になってから本多忠勝の娘・小松姫を自分の養女にし、信之に嫁がせています。つまり家康は信之の義理の父となったのです。それだけ信之と言う人間を買っていた。自分の味方につけておきたかった。

信之も家康の実力を評価していた。関ヶ原では昌幸・信繁と敵対してまで家康の東軍に付いてます。父と弟と敵対してまで家康に付いた。これは関ヶ原は東軍の勝利を確信していたからです。

関ヶ原の戦いは謀略戦です。戦いの開始時点で東軍勝利と言っても過言ではない。それが信之には判っていたが、昌幸・信繁は理解出来なかった。

昌幸は息子が東軍と西軍に分かれれば、どちらかが生き延びると思っていたとか言われてますけど、この家族は徹底的に話し合っているのです。以前の昌幸であるならばそれが判った筈です。

私は昌幸が沼田領の割譲で家康を根に持っていたと思うのです。本当は秀吉の意向だったのにです。

そして高齢故の頑なさも出て来た。狸と言われた自分の地に落ちた名声を戻したかった。更には昌幸の妻は石田三成の妻の姉妹です。それで冷静に判断が出来なかったと思うのです。

壮年の頃の昌幸なら的確に判断し、その時勢に応じて心を鬼にして主君を頻繁に代えていたのに、生き延びる事の大事さが高齢故に軽んじてしまった。自分の意思しか考えなくなった。それが信之には残念だったと思いますね。

信繁の場合も妻は石田三成の盟友・大谷吉継の娘です。信繁にも豊臣を裏切りたくない気持ちはあったと思います。でもそれ以上に冷静な判断が出来ない。驕りがある。自分の実力を示したたい。そして余りにも戦の経験が少なかった。この点が確実に信之よりも劣っていたと断言出来ます。

 

続く。

 

 

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真田と言えば昌幸・信繁(幸村)よりも真田信之でしょ。その1

2015年12月18日 08時57分40秒 | 歴史

来年の大河ドラマは真田幸村ですってね。タイトルは「真田丸」だとか。

知ってましたか、真田幸村って人は存在しない事を。真田幸村のモデルは真田信繁だって事を。

真田信繁本人も生きている間に真田幸村とは一度も呼ばれていません(諸説有り)。真田幸村は江戸時代に入ってから、軍記物の書に書かれた名前です(しつこいですが諸説有り)。

勿論、その軍記物の書の主人公・真田幸村の正体は真田信繁なのですが、徳川の世になって徳川家康と真正面から立ち向かい戦った真田信繁の名前をそのまま出したら、流石に天下の徳川幕府からお咎めがある。だから真田信繁を真田幸村と名を変えて描いた。それがそのまま歴史上の人物として真田幸村で通ってしまったのです。

うーん、何といいましょうか、気の毒ではありますね真田信繁さんは。自分が真田幸村なんて名前で語られているなんて考えてもいなかったでしょうし。出来れば大河ドラマでは幸村ではなく信繁でストーリーを進めて貰いたいです。その方が歴史的に臨場感が出るでしょうし、真田信繁さんの供養にもなると思いますので。

そうは言っても私、「真田丸」あんまり期待してないです。ストーリーが判っちゃってますので。「軍師・官兵衛」も想像通りの展開で新鮮味が無かったですし、微妙なんですよね余りにも有名な武将なので。

それでも大河ドラマと言えば戦国時代が一番ワクワクします。タイトルもうる覚えですが、今年の「花燃ゆ」なんて見てません。「八重の桜」も「龍馬伝」、「平清盛」も殆ど見てません。やっぱり戦国時代が良いです。その点は楽しみですが、いい意味で期待を裏切って欲しいものです。

さて、そんな事言ってる私ですが、あんまり真田信繁さんが好きでありませんし、武将として評価していません。結果的に負けたのですから。武将は何としても勝たなくてはならない。自分だけの命じゃなない。家臣やその家族の命も預かっているのです。自分の意地や感情で考えてはいけない。その点は武将として劣っていると思いますね。

実は私、信繁の兄の真田信之の方に興味が有ります。父親の昌幸、弟の信繁、そして長男の信之。何か私の家族とよく似ていると思うのです。

私は長男です。だから信之に肩入れしてしまうのですが、父親と弟に対する葛藤は凄かったと思います。この親子は頑固だと思いますし。

私、思うのです。意地を見せて死ぬより恥を忍んで生き延びる方が辛い。そして絶対に価値があると。信之もそう思っていたと私は考えます。そして昌幸や信繁にもそれを判って貰いたかった。そして危惧した通りの結末になった。

信之は無念だったと思います。馬鹿な親父と弟を持って。判って貰えなくて。辛い人生だったと思います。生き延びても幸せとは程遠い一生だったと思いますね。

 

つづく。

 

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人殺しの家系と狂気の家系。【永井尚長・内藤忠勝編】

2014年05月08日 23時05分15秒 | 歴史
私、度々このブログで「人殺しの家系」と発言して来ましたが、一体何の事なのか分らない方も多いと思います。

一言で言うと「親の因果が子に報い・・・・」って事なんですが、とても複雑すぎて一言では説明出来ません。

しょうがないので今回は私の家系に繋がる「永井尚長(1654-1680)」の人生で、ニュアンス的なものを是非分って頂きたく書きたいと思います。

さて、この永井尚長を知っている方は多分少ないでしょう。よっぽどの歴史通でも分らないと思います。

永井尚長は初代永井宗家・永井直勝から続く永井家四代目。徳川家の家臣です。丹後宮津藩第二代藩主となります。まっ、京都ですね。知らないでしようけど・・・。

この永井尚長、本当は次男坊です。家督は継げない身分だったのですが、長男の兄・永井尚房が家督を相続する前、29歳で亡くなっています。吉原で横死したそうです。多分、誰かに殺されたのだと思います。

お家の御曹司が殺された訳ですから、本来は「スワッ仇討ち」となるんでしょうけど、遊郭で殺されたとあってはお家の面目丸潰れです。そんなんで主君の仇討ちしてたら、恥の上塗り、笑いの種です。故に無かった事になったんでしょうね。

でも、これも人殺しの家系故の因果を感じます。兎に角、因果を受けるのは男子、特に長男です。人殺しの家系の長男は夭逝しやすいのです。

私の代もそうです。従兄弟たちも長男は夭逝、若しくは精神に異常をきたしています。

私位です。長男で神仏・眷属・占いに縋り、変人と言われながらも何とか生きているのは。ホント理不尽だと思いますよ。

そう言う事で次男の尚長が永井家の家督を継きました。

そして1680年の5月。主君の第四代将軍・徳川家綱が死去。同年7月に法会が芝の増上寺で行われる事と相成り、尚長は出口勝手門の警備奉行を仰せつかったんです。

そこで事件が起こりました。同じく法会で参詣口門の警備を受け持っていた志摩鳥羽藩主・内藤忠勝に尚長は刺殺されたのです。享年27歳でした。

殺された理由は「内藤忠勝の狂気により・・・・」と「徳川実記」には書かれていますが、「連絡の行き違いに忠勝が怒り、背後から刺した」、「不和が原因」、「尚長が内藤忠勝に切りかかって行き、逆に切られた」等々言われています。まっ、こんなの今となっては藪の中ですけどね。

でも私は思うのです。もしかしたら人殺しの家系故、先祖が殺した者が霊感体質の内藤忠勝に憑依し、尚長を刺したのではないかと・・・・・。

こんな事を言う私を皆さんは頭がおかしいのではとお思いでしようが、私も人殺しの家系に生まれ、長年生きて来たんです。私はそう実感してしまうのです。

そんな訳無いと思うでしょ。「何で内藤忠勝が憑依体質なんだ。理由を言え、理由を」と言いたくなるでしょ。

私も本当はそう思いたくないんです。でもね、内藤忠勝の甥っ子が21年後に同じ事件を起こしているんです。

その甥っ子の名は「殿中でござる、殿中でござる」で有名な「播磨赤穂藩主・浅野長矩」なんです。これって偶然でしょうかね。

まっ、狂気な家系だからと言っちゃそれまでですけど、吉良さんに恨みのある者が浅野長矩に憑依して刃物沙汰を起こしたのではと考えちゃいますね。私は。

さて、永井尚長を刺した内藤忠勝はその後切腹。お家も断絶となりました。享年24歳でした。

主君の法会で同僚を刺し殺した訳ですからね、そりゃ切腹ですよ。こうなるのは分っていたでしょうけど、何故踏みとどまらなかったんでしょう。

面子より自分の命とお家の方が重要です。やっぱり憑依されちゃったのではと思いますね。

そして永井家も尚長に嫡子がいなかったのでお家取り潰しに。でも、尚長の弟が何とか家督を引き継ぎ1万石から再スタートを切りました。ギリギリお家が繋がりました。

それにしてもこの事件、永井尚長は人殺しの家系を忘れて油断していたと思います。初代の永井直勝、その息子の尚政・直清兄弟までは神社を数多く建立していますので、油断していなかった筈です。それなのに凄く残念です。

まあ、四代目ともなると天下泰平で油断が生じた。人殺しの家系である事を忘れていたと思われます。油断以外の何物でもないと思います。

艱難を避けて穏便に生き、神仏に懺悔し、祖先に感謝し、出来る範囲の施しをし、負を消費する事が人殺しの家系に生まれた者の唯一の生き方の様に思っているのですが、何とか死ぬまで注意して生きるしかないですね。

ホント、因果な人生ですわ。


ではでは。










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