いわき市生まれの者としては、いわき市を代表するお寺として閼伽井嶽常福寺を思い浮かべる人が多いと思います。私も機会があるごとに参拝しております。
今回はここ数年、この常福寺で想った事を書きたいと思います。
時は3~4年前の夏でしょうか。私は水石山頂上の水石山公園に鎮座する大岩・水石様を参拝へ行きました。
ここの水石様は龍蔵権現として祀られている。龍蔵権現と言えば山形県鶴岡市湯田川の由豆佐売神社が龍蔵権現と呼ばれていた。つまり三島溝咋姫が祀られていると考えられる。それで参った次第です。
その日は途轍もない暴風雨でした。水石様らしい歓迎と言えます。畏まって丁重に参拝しました。祟りが怖いですので。
そして次に向かったのが水石山の隣山??に鎮座する閼伽井嶽薬師常福寺。
私、子供の頃、ここの境内で写真を撮った事があるのですが、なんと下半身がオレンジ色になっていました。
オレンジ色が写ったと言うのは心霊的に凶と言われてますが、私は写真の写し方が悪かっのだと考えていた。
しかし、後に分かったのですが、その場所では秋に火渡りの神事が執り行われていた。
その火が残留思念と言うのでしょうか、それが写真に被さって写ったのか。或いは私は火による浄化の対象なのか・・・・・。
まっ、色々考えちゃいました。
暴風雨の中、私はアメリカ製の大き過ぎる迷彩色軍事用レインポンチョを頭から被り、傘もささずに歩きます。そしてお堂の前に佇む。
お堂では説法をしている様でした。私はそのまま佇みます。
説法が終わり、60代のお坊さんがお堂の勝手口??から出て来た。その後ろに30代のメガネをかけた若いお坊さんが、前のお坊さんの肩に手を置いてついて来る。
どうも若いお坊さんは目が見えないみたいです。
私、考えちゃいましたね。彼は目が見えないから生きる為仕方がなく仏門に入ったのか。心から仏に帰依したくて僧侶になったのか。
目が見えないと言う事は、情報が耳でしか入らない訳です。それで仏がどう言うものなのか悟れるのか。
私が目が見えなかったらどの様に生きようか。あん摩さんに成るしかないか。否、目が見えずに生きるのは辛い。私なら生を望まない。
何で自分は目が見えないのか。神も仏も居ないのではないか。何で自分はこんな辛い目に遭うのか。そう思うと神や仏を恨んでしまう。恨みながら死を選ぶ。私ならそうすると思う。
しかし、この若いお坊さんは仏門に入った。仏に縋った。縋っても視力は戻らないのは分かっている筈。それでも仏に帰依する。その心境はやっぱり目が見えない人生を歩んでいないと分からないのだと思います。
仏しか自分にはない。そう思ったのか。本当に其れしか無いのか。
その一生を生きて死の間際、どの様な想いをするのか。仏に捧げた自分の一生を誇らしく思うのか。納得出来て死ぬのか。そう生きるしかなかったと嘆くのか。
仏に付いて何も分からない私には、どう思案しても分かりません。目が見えていても人生に付いて全然分かっていないですし。
私にはどう考えても答えは出せそうもありません。
続く。