諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

沖縄県・嘉手納基地からアメリカ空軍撤退が決定。

2022年10月30日 22時05分38秒 | 政治・経済
沖縄県民の皆さん、否、琉球人の皆さんと言った方が良いのかな。

沖縄の嘉手納基地からアメリカ空軍が撤退するんですってね。50数機の戦闘機を全部グァム島に持って行って、嘉手納基地には戦闘機がゼロになるとか。

沖縄の人は嘉手納基地からアメリカ空軍が撤退するのが念願だったのでしようか。そうなのでしょうね、玉城デニーを沖縄県知事に選んだのですから。結果が出ましたね。おめでとうございます。

この情報、日本のマスコミは未だに流していませんが、ネットでは大騒ぎしています。大変な事になったと。

アメリカ空軍の言い分では台湾有事になったら嘉手納基地が攻撃される。50数機の戦闘機が撃破される。だからグァム島に移すのだそうです。

でも、大丈夫だそうです。アメリカはアラスカ基地からから戦闘機で、定期的に沖縄へ監視に来ると言ってるので。

そんなの間に合う訳ないだろ。アメリカさんも冗談がキツイぜ。

これはアメリカも中国が台湾を侵略するのは確実と判断している。だからのこその嘉手納基地からの撤退。

中国軍が台湾を襲うと同時に、中国解放軍が沖縄に上陸してくると思います。

「琉球人の皆さん、ニイハオ。我らは中国解放軍あるよ。我々が倭人に侵略された琉球の皆さんをを開放しに来たあるよ。これからは我が中国解放軍が琉球を統治するあるね。琉球は中国の琉球自治区として平和に暮らせるあるよ」と言いながら。

まっ、建前ではそんなこと言ってもウイグル自治区の方々のようにタダ同然で奴隷の様に働かされ、内臓取られたりするのでしょうけど。

変だと思っていたんですよ。反日政党までもがトマホークの配備に賛成しだしたのでね。こういう事だったのですね。

ただ、沖縄県知事を玉城デニーにしたのだから沖縄県民は中国人になりたいと思っていたのでしょうが、玉城デニー率いるオール沖縄の候補が那覇市長選で敗れましたね。

これってどう言う事。もしかしたら今頃事の重大性を知った訳じゃないでしょうね。

何を今更言っているのでしょう。もういい加減遅いですよ。アメリカも呆れて返っていたでしょうから。それも出て行った一因でしょうから。

まっ、どうなるのかは分かりませんが、日本人でいたいなら沖縄から本土に出る。中国人になりたいのなら沖縄に留まる。この究極の選択を迫られるのではないでしょうか。

それにしてもホント、エライことになりましたね、沖縄は。


ではでは。


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「鎌倉殿の13人」のラスボスは、北条泰時だと思う。その17

2022年10月30日 15時42分37秒 | 出版・テレビ・CM・ドラマ・映画
続きです。

大江広元は1125年6月10日、急に下痢を伴う病となり、その日の内に死亡したと言われてます。享年78歳です。

北条政子は1125年5月29日に発病し、頑張ったが同年7月11日に死亡している。

北条政子の発病と大江広元の死はたった11日の違いです。偶然で片付けられない。毒殺だとしたら犯人は同一人物と考えられます。やはり暗殺だったとしたら北条泰時の犯行だと思います。

ところで大江広元ですが、彼が存在していなかったら私の姓は長田でした。だから凄く興味があったのです。

でも、目的が分からない。名誉欲があった。自分の力を試したかったとの思いは感じられますが、それだけでは論じられない。私は空恐ろしさを感じます。

もし大江広元について回答を出さねばならないのであれば、「大江広元はサイコパス」だった。人に伏したり、煽てたり、時には恫喝し、自分の思い通りに駒を動かした。人との争いそして戦を楽しんでいた。

自分は戦わない。戦うのは机上の上でのみ。将棋を楽しむが如く戦を楽しんでいたのではないか。

そうなるとやっぱりサイコパス。とてつもない知能と知識を有しているサイコパスだと私は思う。

それに北条泰時も気が付いた。ほっておいても長くは生きれないのは解っているが、鎌倉の御家人、そして源氏を翻弄した大江広元を病では殺さない。

暗殺しなければ鎌倉御家人や源頼朝とその子達が浮かばれない。その想いから北条泰時は大江広元の暗殺を決行したと考えます。

北条義時、北条政子、そして大江広元は死んだ。これで北条泰時は終わりとした。

執権とはなったが、鎌倉御家人の実質的なトップには三浦義村が握った。泰時もそれを許した。っと言うより自分は大江広元を目指した。

北条家には長老として北条時房が存在する。泰時と時房は北条家のツートップとして互いに対峙しながらも、北条家の存続の為に協力した。共に時政、義時みたいな真似はしたくないという思いがあったから。

その後、鎌倉幕府は蒙古襲来となり、戦は勝利し御家人たちに与える報奨が出せず、北条家は御家人から不満を持たれてしまう。そして滅亡。北条氏とは親戚筋の足利尊氏が室町幕府を起こしています。

結論から言うと、この時代の文化、思想、命よりも面子と権力、権威、そして領地が重要視される感情では、誰が政権を握っても長くは続かなかったと思いますね。

さて、タイトルに対しての総括ですが、鎌倉幕府を動かしていたのは大江広元。として新たな大江広元にならんとした男が北条泰時。

大ボスで対峙したラスボスの泰時。その想いが「鎌倉殿の13人」のラスボスは、北条泰時だと思いました。

北条泰時は私情を捨て、北条家同士の争いは避け、政敵になる要素のある時房、政村、朝時を重んじた。例え騙されても義時のようには生きたくない、その想いが強くあったと思いますね。


ではでは。








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「鎌倉殿の13人」のラスボスは、北条泰時だと思う。その16

2022年10月29日 17時39分45秒 | 出版・テレビ・CM・ドラマ・映画
続いちゃいます。

中国の三国志に出てくる魏の曹操は「治世の能臣、有事の奸雄」と呼ばれていました。

源平時代は日本史上、トップクラスの有事の時代だったと言えます。

当然、有事の時代だから奸雄でなければ生き延びられない。平和ボケしていたら領地を奪われ殺される。誰も信用できない時代。多くの者が奸雄だった。

後白河上皇、後鳥羽上皇、平清盛、源義朝、源頼朝、北条時政、北条政子、そして北条義時。その他の鎌倉御家人の大半も奸雄と言えた。

特に北条氏は源頼朝を担いで他の有力御家人を撃破した。同じ平家の血筋でも容赦はしない。狡猾な罠に嵌めて粛清し続けた。

北条氏こそが武家の実質的な棟梁。源氏の征夷大将軍はただの飾り。執権たる北条氏が日本の実権を掴む。朝廷であっても北条氏が管理する。その意志は確実にあった。

そして承久の乱が終了。朝廷をも下した。これで武家の天下となった。北条氏の天下となった。有事の時代は終わった。

しかし、まだ奸雄は残っている。奸雄達との争いに勝利した北条政子と北条義時の姉弟が。

彼らが生きている間はまた有事が繰り返される。そう考えたのは北条泰時。そして大江広元。

北条泰時が私の考え通り源頼朝の息子であったら、父をそして兄弟を滅ぼしたこの二人は許せない。その考えには大江広元も同調している。この二人は殺さなければならない。

北条義時は1224年6月12日、急に重体となる。そして翌日死亡する。62歳だった。

北条政子は1225年5月29日に発病。病状は回復と重篤を繰り返す。そして生きている内にと自分の冥福を祈る仏事を行い、同年7月11日に亡くなる。享年69歳。

私はこの姉弟は北条泰時による暗殺と考えます。北条義時が源頼朝を毒殺したと考えて、泰時も同じ毒殺で義時を殺した。もしかしたら毒キノコで。

北条政子の場合は即効性の毒ではなかったと思われるので、トリカブトなのかも知れません。

そして泰時は北条政子に毒を盛った時に思った。最大の奸雄が残っていることを。その者の名は大江広元。全ての奸雄のブレーンたる男。自分の師とも仰いだが、この男のせいで多くの血が流れた。この者も殺さなくてはならない。

大江広元は晩年病弱になっていました。承久の乱の時は既に死を予感して仏門に入っていた。それでも病を押して承久の乱に参戦した。京への侵攻を一人激しく主張し、鎌倉幕府に勝利をもたらした。

病弱であり78歳と言う高齢であったが、全ての大元は大江広元。大江広元が存在しなければ、鎌倉の武家人の争いは起きなかったとも考えられる。


続く。




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「鎌倉殿の13人」のラスボスは、北条泰時だと思う。その15

2022年10月29日 11時36分34秒 | 出版・テレビ・CM・ドラマ・映画
ラストにしたいです。続きです。

大江広元と言う男、一体何者なのか。

朝廷時代は下級貴族だった。父親は藤原光能との説もあるが、大江維光が実父とされている。そして母親が再婚したのか中原広季が養父となる。

兄の中原親能が源頼朝と昵懇の間柄で兄に従って鎌倉入りする。そして鎌倉の文官として頭角を現す。

この大江広元の目的は何なのか。

一つ考えられるのは朝廷への復讐です。

自分は朝廷内でも一番優れている。天皇家である一品親王の血筋である。その自分が朝廷の下級官人。

自分の能力を試したい。下に見られた朝廷に目にもの見せたい。だから鎌倉に下ったのではないか。

源平合戦とは言っても本当に戦ったのは、源義朝と平清盛が戦った保元の乱までです。

私に言わせれば源頼朝は坂東平氏の神輿に乗せられただけの存在。平清盛の平家が滅んだのは、平家同士の愚劣な共食いの戦いだと思っています。平将門の時代から続く。

それなのに源頼朝は平清盛同様、天皇の外親になろうと娘の大姫を後鳥羽上皇へ嫁がせようとしたが、その寸前に大姫は20歳の若さで急死する

それではと二女の三幡を大姫の代わりに後鳥羽上皇へ嫁がせようとするも、三幡も14歳の若さで急死する。

二代目鎌倉殿の源頼家は、蹴鞠を通じて朝廷側に近づくも比企氏と共に北条家に暗殺される。

三代目鎌倉殿である源実朝は自分で源氏の血筋は最後だと宣言し、和歌を通じて朝廷に近づいたが、頼家の子の公暁に殺される。その前には北条家に対抗するために実朝が好を通じていた和田氏も滅ぼされている。

頼朝の子、全員が頼朝同様朝廷側に近づてい殺されている。これは当然、北条家の犯行の可能性がある。北条の血筋であっても源氏の自由は許さない。それはある筈です。

でも、大江広元の影が見えるのです。自分を下級官史として扱った朝廷を潰してやると言うおオエヒロモお意思が感じられる。

私、これら4人の頼朝の子供たちの死。そして頼朝の死は北条氏を操った大江広元が関与していると感じています。

それを北条泰時が知っていたとしたら。自分が残っている最後の頼朝の子であると自覚していたとしたら。

北条泰時と大江広元は戦場で意見が対立したことがあります。

泰時は「自分の今の兵は少数。味方が参陣するのを待って攻撃すべきだ」と主張。

大江広元は「戦は勢いが大事である。今は勢いに乗っている。兵力が僅かでも今の勢いに乗って攻めれば、敵は大勢であっても何か策があるのかと思い怯む。味方もこぞって参陣する。今こそ攻めるべき」と主張した。

結果、泰時は大江広元の主張に従い少人数の兵で参戦。すると味方が大江広元の言う通り、遅れてはならじと参戦。戦は大勝利となり泰時は自分を恥じたと言います。

そこから泰時は大江広元に対し、信仰に近い感情を持ったと思います。

泰時の執権時代、自分の領地拡大は目指さなかった。大江広元の様に御家人達との対立は避けた。御成敗式目を制定し、鎌倉の武家政権を安定させた。

北条泰時は鎌倉時代最高の執権と称されますが、これは大江広元を手本にした。大江広元にあらんとして政治を行ったからだと思います。


続く。






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「鎌倉殿の13人」のラスボスは、北条泰時だと思う。その14

2022年10月27日 13時05分13秒 | 出版・テレビ・CM・ドラマ・映画
続きます。

「鎌倉殿の13人」。このタイトルからこの大河ドラマの主人公は、鎌倉殿である源頼家、源実朝の政権をサポートする側近御家人の13人となります。

大河ドラマでは北条義時が主人公ですが、史実で考えると今までの経緯に対処してきた者、先導・計画した者、そして登場人物を動かした者。それを考えると一人しか思い浮かびません。

その者の名は大江広元です。私は大江広元が鎌倉殿や北条家、そして全ての騒動に関与した13人のリーダー。大ボスだったと思っています。

大江広元が京から鎌倉に下って来てから、鎌倉御家人の激動が始まったのがその証拠です。

大江広元には目立った多くの領地は無い。兵も少ない。しかし、役職は鎌倉殿に続きダントツの2位です。

人格も優れている。兵力も領地も少ないから警戒されない。嫉妬も逆恨みもされない。

圧倒的な知識がある。的確に次の展開が読める。だから全ての御家人から畏敬を集めていた。頼朝も義時も先ずは大江広元に相談する。

大江広元にとっては源頼朝や北条政子、北条義時などはただの手駒だったのではないか。私はそう思っています。

彼が何よりも優れているのは軍師としての才能です。

「大江広元が稀代の大軍師だ」と言うと笑う歴史通もいると思いますが、名の知られている軍師の最後はどうなりましたか。

中国の諸葛亮孔明、黒田勘兵衛、島左近、真田信繁、山本勘助、太原雪斎、源義経等々、皆最後は失敗しているじゃないですか。

竹中半兵衛だって35歳で病死している。秀吉の役に立つ前に亡くなった。仕方ないとしてもそれでは最良の軍師とは言えない。

家康の軍師である本多正信も息子の正純の代で失墜した。良い息子を育てられない。それも軍師として失格だと思います。

軍師たるものは最後の最後で勝ち、そして生き延びる。それが軍師です。

「軍師は名を秘す」と言う言葉がありますが、敵の軍師の名前が分かった時点で、その軍師の負けは必至。名が知られない軍師こそが最良の軍師です。

その点、大江広元は文官として知られていたが、軍師としては目されていない。軍師としての手柄は欲しがらない。御家人に手柄としてくれてやる。

文官として目立たなく行動しているが、全ての案は大江広元が発案している。

尼将軍と言われてましたが、田舎者で学のない北条政子に政は無理。北条義時も同様。源頼朝なぞ子供時代に伊豆に流された。師と呼べる者などいない。政も軍事も学んでない。だから初戦は簡単に負けた。

だからこそ私は「鎌倉殿の13人」の影の大ボスは、大江広元だと確信しています。


続く。


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