以前、週刊誌で見たのですが、宮城県の小学校の給食が全国で一番しょぼいと言うか、酷いらしいですね。特に利府の小学校が・・・・・。勿論、全体的にも全国ワーストワン。原因は給食費を払わない親が多いからだそうです。
でもね、給食費を払わない割合は沖縄県の方が高いんです。だけど沖縄はまずまずのおかずです。それなのに宮城県の給食は網走刑務所よりも酷く、ギリギリの栄養価ですよ。こんな点も公務員天国の宮城県の酷さだと思いますね。
自分たちは民間の何倍ものサラリー取っていて、給食費払わない親が多いからと言って、あの給食の酷さは無いと思います。情けないですよ。確かに給食代払わない親が悪いと思います。仙台ですから、払える経済状態の親も多いと思いますが、払えう金がなくて払わない親もいる筈です。
ホント、宮城県の行政はは腐っている。必要性の無い箱物ばかり造って、公務員の権限、さらには公務員の為の仕事、天下り先の確保ばかり考えています。
「公務員でなければ人にあらず」を地で行ってます。いっそ、夕張市やデトロイトの様に破産した方が良いと思います。
3.11の震災が無ければ宮城県は破産確定で、公務員にも責任を取らせる事が出来たのですが、残念ですよ。
しかし、ここまで給食が酷いのであれば、子供手当てを給食に充てるべきじゃないでしょうか。人間、貧しい食事ほど惨めなものは無いです。子供の心も曲がるってもんです。
なんて書いて見ましたが、私、幼稚園のとき弁当で凄く惨めな思いをしまして、給食には本当に感謝していたんですね。だから、小学校くらいは食べ物で貧富の差を無くして貰いたいんですよ。
私が最初に入った幼稚園は、故郷のいわき市の好間町にありました。常磐炭鉱の町です。近くに江川卓も住んでいました。実は私と江川卓はちょっと遠い親戚であります。確か私の母の従兄弟が江川卓の叔父です。
この常磐炭鉱なんですが、閉山になってしまったんですね。私の親は閉山した炭鉱町で新聞販売業していた訳なんですが、そりゃ儲かりませんでしたよ。だって殆どの住人が失業者になった訳ですからね。新聞取る人も少なかったし、新聞買える人もいなかったんです。新聞代が払えず、農作物で払っていた人もいましたし、私の家、とてつもなく貧乏でしたわ。
子供ながらに貧乏さに身を詰まらせたのは弁当でしたね。何時も毎日の様にサトイモの煮っ転がしと、梅干しか入っていない弁当でしたからね。他の子の弁当には玉子焼きとか赤い皮のウインナーとか、色鮮やかな弁当なのに、私の弁当ときたらモノトーンでしたからね。
灰色のサトイモとご飯の白。そしてたまに梅干の赤。惨めなコントラストでした。何時も弁当の蓋で隠して食べていました。見られるのが恥ずかしくてね。
またまたたまにですが、、豪華な弁当持ってくる友達からイクラとか焼きタラコを貰ったりしたのですが、嬉しさと惨めさが交錯した気持ちになったのを今でも覚えていますよ。そう言えばイクラ食べたのあの時が最初だったっけ・・・・・・・。
でもね、私より酷い弁当持ってくる子がいました。皮のまま横からスライスした半分の蜜柑とご飯だけの子が・・・・・・。
私、ビックリしましたよ。蜜柑がおかずだなんて。蜜柑の橙色とご飯の白のコントラストは綺麗でしたが、どんな母親が弁当作っているんだと、怒りさえ沸いてきました。どれだけ手抜きなんだと。
その子も私同様、他の子に見られない様に蓋で隠して蜜柑弁当食べてましたが、気の毒でしたねぇー。見ていられず、私、サトイモの煮っ転がし、あげてましたよ。これは無いだろと思いながら・・・・・。
その後、私の親は好間町に見切りを付け、逃げるように仙台に出て行きました。
幼稚園は私が引っ越した直ぐ後に赤痢が発生し、休園だか廃園だかしたようです。あの時の蜜柑弁当の子、大丈夫だったのか、今でも時々思い出しています。
まあ、こんな暗い思い出があるもんですから、私、弁当を見るとあの時の惨めな思いが込み上げて来るんです。だから、私、弁当を滅多に買わないんです。特に駅弁なんて高校の修学旅行の頃食べたきりで、30年以上食べてません。気が重くなって食べる気にもなりませんよ。
これがトラウマって奴なんでしょうね。あの時の思いはもう、したくないですね。
ではでは。