諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

織田信長、豊臣秀吉、明智光秀の首が残っているとしたら、日光東照宮にあると思える。その14

2023年12月23日 13時47分15秒 | 永井直勝
続きます。終わりにしたいです。

日光東照宮に明智平の地名がある。南光坊天海が明智光秀との説がある。

その理由は簡単です。日光東照宮には明智光秀が祀られている。だったら明智平の地名が残っていても不思議じゃないです。

其れだけでは無いですよ。何と織田信長も豊臣秀吉も日光東照宮には祀られているのです。知らなかったでしょ。

日光東照宮は陰陽道や結界が張られています。それは南光坊天海の意向と考えて良いです。

でも、南光坊天海は天台宗の僧侶。家康は東照大権現と名付けられている。

これは仏教の僧侶の発案だけとはとは思えません。神道の知識が加わっている筈。

東照大権現ですが、東の天照大神の意味合いがあります。やはり神道の神の名を徳川家康に付けた。こんな真似は僧侶の天海だけに出来る訳がありません。

徳川家康は当然、人間です。人間は神にはなれない。それが神道の根本です。

しかし、家康は東照大権現なのです。権現、明神は仏教と神道の集合した神の位です。

どう言う事かと言うと、家康は薬学に通じていた。つまり家康は薬師如来の生まれ変わり。否、薬師如来が人間・家康として地上に降り立ったと、無理やりな解釈をしたと言えます。

豊臣秀吉も豊国大明神として祀られましたが、その神名にも苦心が見えます。

秀吉は母の大政所の腹に日輪が射して妊娠したとか言われてます。

これ、イエスキリストも同様ですが、神は産まれる前も神。人として生まれても神。亡くなっても神なのです。つまり父親がいては困る。

だから日輪が射して秀吉が生まれた。神・秀吉が大政所の腹に入った。つまり秀吉は太陽の子。だから神なのだ。そんな風に考えたと言えます。

さて、日光東照宮には織田信長、豊臣秀吉、明智光秀が祀られている。その理由は何か。

一番は彼らの祟りを恐れたからなのは間違いないでしょう。

この考え方、天台宗の南光坊天海では発想できません。これは神道の考え方なので。

言い方は悪いですが、神社は怨霊の封印装置的な役割も有しています。怨霊を神として祀り、鎮まり座していただく場所が神社の役割の一つなのです。

その知恵がある徳川家の家臣は誰がいるのか。

それは永井直勝でしょう。既に若い時分に討ち取った池田恒興の首を御神代として、屋敷の庭に池田神社を建立したのですから。

直勝は徳川家の知の象徴でもあります。書院番頭でもありましたし、細川幽斎から有職故実を学び徳川家の礼儀や幕府の式典を定めています。南光坊天海、林羅山と並ぶ知の重鎮だったと言えます。

そして永井直勝は日光東照宮の造営奉行に任命されている。つまり日光東照宮建設の現場監督をしていた。

直勝の実家は曹洞宗の寺であり、熊野権現の神社でもあります。直勝の父は僧侶であり宮司。そして大浜藩主。直勝も神道と仏教の知識があった。だから造営奉行を命じられた。

そして織田信長、豊臣秀吉、明智光秀を日光東照宮に祀ったのも永井直勝だと私は考えます。徳川幕府の安寧の為。彼らの祟りを防ぐ為にです。

ただ、日光東照宮には肝心の徳川家康の墓は無い。久能山東照宮に埋葬されている。つまり日光東照宮は家康の分霊を祀っている事となります。それは何故か。

それは日光東照宮には織田信長、豊臣秀吉、明智光秀の首、若しくはお骨がどこかに埋葬されている。

家康の遺体と信長、秀吉、光秀の首、若しくはお骨を同じ場所に埋葬するのは不味い。家康が恨まれてしまう。

そう考えて家康の遺体は久能山東照宮に埋葬されたと私は考えます。家康もそれを望んでいた筈です。恨まれていると思っていたでしょうからね。

長々と書いてきましたが以上です。

この説を立証するには、永井直勝の人生をしっかりと紹介しないと理解しても貰えないと考え、永井直勝に付いて長々と説明して来ました。

永井直勝は私の家系の宗家です。勿論、身贔屓の面はあります。「そうであっていればなぁー」との思いも私にはあります。

っとは言え絶対そうだとは主張はしません。

私はそう考えている。それだけです。妄信はしないでください。


ではでは。

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織田信長、豊臣秀吉、明智光秀の首が残っているとしたら、日光東照宮にあると思える。その13

2023年12月22日 12時57分29秒 | 永井直勝
長くなりましたが、そろそろ終わりたいと思います。続きです。

徳川家康が亡くなり、日光東照宮は黒衣の宰相・南光坊天海が、陰陽道や結界を駆使して建立されたとする説が有力です。

そして南光坊天海には明智光秀説がある。その一つの証拠として日光東照宮のそばに明智平の地名が見える。光秀てある天海が自分の姓を地名に残したと噂されています。

私は嘘だと思います。それは明智光秀の本能寺の変は余りにもお粗末だからです。っと言うより一か八か暗殺するしか無かったのかも知れませんか。

信長暗殺の原因は長曾我部との関連とか言われてますが、私的には明智光秀の子孫が著した本に書かれている説を採ります。

信長には光秀の領地を全て取り上げて、大陸に進出させる計画があった。上手く行くかは分からない。

試しに「どんなもんかな」と言う感じ。上手く行ったら儲けものと言う感じだっただろう。

光秀は50代中頃。何時亡くなってもおかしくはない。今後、活躍できる期間は短い。それで光秀に大陸進出を命じていたと思います。自分には逆らえないと思って。

光秀と同じ心境で関ヶ原の戦いで中立の立場をとったのが佐竹氏です。

佐竹氏は水戸54万石を所有していたが、近隣一族を合わせると80万石を軽く超える。そんな大物外様大名を徳川藩に隣接させておくわけにはいかない。実質250万石に成長した伊達藩とでも組まれたら、徳川は敗北する可能性がありますし。

私が家康ならどうするか。関ケ原の戦いで佐竹氏が徳川に付いたら、その褒美として蝦夷地を与えます。勿論、水戸藩は国替えにして。

家康も三河から関東に国替えされたのです。自分がやられたのだから、躊躇なく蝦夷地への国替えを命じると思います。

当時は他国同然の蝦夷地です。佐竹氏も行きたくはないでしょう。寒いし。
広大な領地は得られても開拓するのも大変ですし。

だったら領地を減らされても中立の立場を採った方がマシ。秋田藩20万石への国替えは、或る程度は覚悟していたと思えます。

話を明智光秀に戻します。光秀は信長を討った事により、朝廷から征夷大将軍に命じられています。天下を取る気は合ったと思えます。

しかし、織田家の家臣団は黙っていない。

せめて細川幽斎は味方してくれると考えていたみたいですが、その願いも潰えた。そして明智軍13000の兵は滅亡した。光秀の行動はお粗末だった。

天海ならそんな無謀な策は採らないと思います。滅亡する結果は目に見えていた。私だったら徳川に内通していたと思います。家康は光秀を尊敬していたみたいですし。徳川と明智なら豊臣に勝てたと思いますので。



続く。






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織田信長、豊臣秀吉、明智光秀の首が残っているとしたら、日光東照宮にあると思える。その12

2023年12月21日 11時19分01秒 | 永井直勝
続きます。

さて、豊臣秀吉が亡くなり関ヶ原の戦いが勃発。この戦い、世紀の凡戦でした。何せ東軍も西軍も下手こいちゃいましたから。

本来は徳川秀忠が東軍の大将だったのです。家康の後継者であることを証明する戦いだった。だから徳川の38000の主力軍を率いていたのです。

それなのに真田昌幸の策略に引っかかります。真田軍は2500。その人数で勝てる訳がない。完全に足止めするのが目的。それで関ヶ原の戦いには間に合わなかった。

本来なら東軍の勝利は確定していました。家康の裏切り工作は完璧でしたから。

それなのに主力の秀忠軍が来ていない。そりゃ小早川秀秋も裏切りを躊躇しますよ。

でも、石田三成もポカしていた。信頼できる15000の兵が細川幽斎が500の兵で籠っている丹後田辺城で足止めくらい、関ヶ原の戦いに間に合わなかった。

もし、その15000の兵が関ケ原に到着していたら、小早川も裏切らずに豊臣方として戦っていたかも知れない。どっちもポカしたギリギリの戦いだったと言えます。

秀忠軍に同行していた軍師は本多正信。もう歳だったのでしょう。若い時分の切れ味は無くなっていた。もう軍師としての寿命は尽きたと言えます。秀忠と一緒に真田昌幸に翻弄されたのですから。

こうなると徳川家の軍師は不在となります。だれが軍師の役に付いたのか。

政治面では南光坊天海が軍師格だと言えます。この南光坊天海は謎多き人物。どうして徳川家の重鎮になったのかも不明。ここにヒントが有ると私は思います。

南光坊天海を徳川家に迎え入れたのは誰なのか。天海が自分から雇ってくれと徳川家に出向いたとは考えにくい。徳川家の誰かが天海を誘った筈。その者は誰なのか。

南光坊天海の出身地は会津。当時の会津は福島県の大半と新潟県の一部、そして山形県の一部に跨っていた。日本の要地だったと言える。現に会津藩は徳川家が支配するようになる。

その会津の南光坊天海と接点の或る人物は誰が。それは出羽の国で修験者をしていた永田徳本だと私は思っています。天海も修験者だったみたいですし。

永田徳本は天海の才を知っていた。そこで甥の永井直勝に伝えて徳川家に召し抱えられたのではないのか。

林羅山のケースも永田徳本が絡んでいます。

林羅山は徳本に薬学を学びに来た。

林羅山の才に気が付いた徳本は、「薬学なんてどうでも良い。そなたの才を生かす場所は徳川家だ。甥の永井直勝に口を利いてやるから、徳川家に奉公せよ」と徳川家に仕官させています。

永田徳本は武田信虎・信玄の典医だった。その伝手で武田家とも関連が深い。そして甥は永井直勝。このルートが徳川家の発展に寄与したのは間違いないと思います。


続く。








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織田信長、豊臣秀吉、明智光秀の首が残っているとしたら、日光東照宮にあると思える。その11

2023年12月20日 10時45分03秒 | 永井直勝
続きです。

考えてみれば永井直勝は元々、松平信康の家臣。それが徳川家を分かつ争いが起きて、信康は家康に自決を命じられた。言わば直勝は敵将に仕えているのである。家康の婿となる自分とは立場が似ている。徳川家で永井直勝を見る目はいかほどであろうか。

永井直勝はどんな気分で家康に仕えているのであろうか。自分は直勝の様に家康を義父として慕う事は出来るであろうか。

否、蔑まれ続けるだろう。そして永井直勝も蔑みの目で見られている筈。よく耐えられるものだ。

そこで池田輝政は永井直勝に聞いた。「貴公の知行はいかほどか」と。

直勝は「5000石でございます」。

輝政は嘆息して語った。「我が父・恒興の首がたったの5000石とは。徳川殿には安く見られたものだなぁー」と。

これは家康に対する批判ではない。永井直勝に対する徳川家臣団に対する擁護と言える。

直勝は見栄えが良い。それで家康の傍にいられる。それを嫉妬する者もいるだろう。直勝は家康と敵対していた信康の小姓だったのである。嫉妬の感情は生まれて当然。

それを父・恒興の首が5000石とは低過ぎると輝政は言い放った。それで徳川家臣団の嫉妬を和らげたと言える。

永井直勝は池田輝政に討たれる覚悟と、その可能性は判断していたと思う。だから死装束を纏ったのは確かだが、それだけが理由ではない。

直勝は漆黒で飾りが少ない鎧のデザインからも、目立ちたがらない性格だと判断出来る。それでも派手好きの伊達政宗を真似て死装束で池田輝政に対峙した。

それは豊臣秀吉の自分に対する殺意の返答だと私には思える。

実は秀吉は池田輝政にも豊臣姓を贈っている。直勝も豊臣姓を頂戴している。秀吉は輝政同様、直勝も同待遇で迎えると暗に語っているのである。それを袖にされた。だったら死んで貰うしかない。

それに対する返答が死装束。「秀吉よ、貴公の魂胆は全て承知しているぞ」。その意思表示が死装束だと思える。伊達政宗も豊臣秀吉に対する死装束だったので。

池田輝政は決心した。これからは豊臣家と決別すると。

秀吉は老いた。かつての秀吉ではない。

家康の婿に自分を据える。自分の心情など全然考えていない。池田恒興の息子の自分を家康の婿にする。自分に対する配慮が足りない。

それは自分は豊臣姓を賜ったとしても、自分は秀吉にとってただの駒だから。例え直勝を討って生きて豊臣家に戻されても、秀吉の駒として生き続ける。そんな人生は真っ平だ。

「永井直勝と同じ道を歩もう。徳川家に誠心誠意仕えよう」。そう輝政は心に決めたと思えます。

事実、家康の次女・督姫との間には五男二女を儲けた。夫婦仲も円満だった。

督姫も武家の習いとは言え、人生を翻弄されて生きてきた。自分と同じだ。そう督姫に同情し、仲睦まじく過ごしたと思えます。


続く。





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織田信長、豊臣秀吉、明智光秀の首が残っているとしたら、日光東照宮にあると思える。その10

2023年12月19日 11時00分31秒 | 永井直勝
続きです。

池田輝政と督姫は結婚。その後、徳川側で池田輝政と徳川家臣団との対面の会が設けられた。その徳川家臣団の中で白い死装束の者がいた。

輝政は「あの者は誰か」と周りの者に尋ねる。そして知った、あの男が父の仇・永井直勝であると。

輝政は居ても立ってもいられず、直勝の正面に立ち座した。

輝政は「貴公が永井直勝殿であるか」と聞く。

直勝は「如何にも」と応える。

輝政は尋ねた。父・池田恒興の最後を。

直勝は応えた。「小牧長久手の戦いは激戦でした。恒興殿は既に、安藤直次の槍を受けていた。直次は万千代と叫び自分の事だと勘違いして駆け寄り、恒興殿と一騎打ちとなり申した。私は恒興殿の十字の槍で左人差し指を落としながら辛くも勝利した。恒興殿は首を取って手柄にせよと言われた」と。

輝政は暫し黙って考えた。直勝の話には嘘は無いだろう。それは直勝の欠損した左人差し指が証明している。父は最後まで全力を出して戦い敗れた。武士としての本懐を遂げたのだ。

父・池田恒興は49歳。体力的には下降を辿っていた。それでも父は、手負いでありながらも正々堂々と武将らしく逃げずにこの若い永井直勝と戦い敗れた。武士として恥じる事のない死であった。

永井直勝は死装束で自分の目前にいる。死を覚悟している。直勝もまた武士として正々堂々と父・恒興と戦った勇者ではないか。その者を父の仇として殺して良いものか。

それにしても自分の存在をどう考えたら良いのだろう。

小牧長久手の戦いは父・恒興が仕えていた織田信長の子・織田信雄のたっての依頼で、徳川が信雄に与力した戦いだった。本来の仇は織田信雄であるのだが、信雄は早々と秀吉に恭順した。情けない武将だ。そんな男の為に父は命を落としたのだ。

しかし、世間はそうとは取らない。父・恒興は永井直勝に。兄・元助は安藤直次に討たれた。弟・長吉も負傷し、義兄の森長可も討たれた。自分の仇は徳川家と誰もが見ている。

その徳川家康の婿に自分がなる。

父・恒興はどう思うか。兄・元助はどう思うか。池田家は天下の笑い者。私は軽蔑の眼差しで見られている。自分が本当に情けない。これで武将と言えるのか。

目前の永井直勝は死装束で自分と対峙している。父の敵として自分に討たれるつもりでいる。

永井直勝をこの場で討てば、池田家の面目も少しは立つであろう。

しかし、この直勝は正々堂々と父と戦った男なのである。討ち死には恥ではない。恥なのは家康の婿、秀吉の養子の立場で直勝殿を討つ自分では無いのか。

輝政は聞いた。父の首の所在を。

直勝は答えた。「我が屋敷の庭に池田神社を建立し、恒興殿の首をご神体としてお祭りしています。父上の鎧は我が寝所に置いております。恒興殿の名刀「笹の雪」は我が家の家宝としておりますが、お返ししたいと思います」と。

直勝は父・恒興を自分の守り神として祀ってくれている。その想いで自分の穢れが晴れた気分になった輝政は、「それには及びません。笹の雪はこれまで通り直勝殿がお持ちください」と答えた。

輝政は直勝に魂を清められた。父・恒興は武士の中の武士に討たれたのだ。父の名誉は守られた。その礼として輝政は「笹の雪」をそのまま直勝に預けた。

それは直勝を心から許したと言えるだろう。


続く。
















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