諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

御鍋を背負う者。アンバサマと永井平九郎。その5

2017年03月30日 17時43分34秒 | 永井平九郎

続きです。

アンバサマ総本宮の大杉神社は「夢結びの神」として、茨城県稲敷市阿波に鎮座しています。阿波は「アバ」と読むので「アンバサマ」が地名になったと推測します。

阿波と言うと四国の阿波国を思い出します。粟の生産地だったから阿波の地名が付いたらしいです。また粟と海の波から「阿波」となったとも言われてます。

この四国の阿波国ですが、大昔は粟国(粟族)と長国(長族)に分かれていて、名西山の神域が粟国の中心、名東郡・佐那河内地方が長国の中心だったみたいです。

この粟国の主食は粟、長国は米。米は水田を開拓しなければならない。その開拓した者は「井開、井貝」の姓を名乗った。つまり長国の井開さん。略して長井。うーん、なるほど(笑)。当らずも遠からずかも。

粟族の神は神山町神領に鎮座する「上一ノ宮 大粟神社」に祀られる「大宣都姫命」。

長族の神は佐那河内村に鎮座する「御間都比古神社」に祀られる稲の神であり長国始祖神である「観松比古命」。

この「観松比古命」には興味を覚えます。一体誰なのか。東北では観松比古命を祀る神社は無いと思う。私も「観松比古命」の名前は初めて聞きますし。

先代旧事本紀によると13代・成務天皇の時代、観松比古命の9代孫の「韓背足尼(韓背宿禰)」が長国造に任命。その家系が長姓を名乗った。長氏の支流の大海路命の子孫が長宗宿禰。その子孫が長宗我部氏。

長氏本流では建日別命が長国造の遠祖で、長氏は三輪氏と同族。事代主命の神裔となる。そこから考えると「観松比古命」は神武天皇と戦った長髄彦命と考えられているそうです。

私は永井平九郎から神道に興味を持ったのですが、長髄彦命も「長(永)」繋がりで魅入られてました。何か頭から離れられなかった。ここでチョットだけ接点が出ました。感慨深いです。

長髄彦命に付いては建日別命がその人だとする説も有りますが、難し過ぎますのでまたの機会に考えたいと思います。

茨城県の大杉神社に戻します。

大杉神社は通称「あんばさま」。大杉大明神、大杉大権現、今宮大杉大明神とも呼ばれる。祭神は大物主命、大国主命、少彦名命。出雲系の神々。境内に大杉が御神木なので大杉神社と称する模様です。

この大杉神社での注目点は眷属として「鼻高天狗」、「烏天狗」の信仰がある事。源義経の家来である「常陸坊海尊」が大杉大明神の御神徳で様々な奇跡を起こした。常陸坊海尊を通して大杉大明神が願いを叶えてくれる。その常陸坊海尊のルックスが天狗に似ていたから天狗信仰が生まれたそうです。

天狗には役割が決まっていて、鼻高天狗は「願い天狗」。烏天狗が「叶い天狗」。それぞれの天狗様の働きで願いが叶う事から「日本唯一の夢結び大明神」と呼ばれるそうです。

 

続く。

 

 

 

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御鍋を背負う者。アンバサマと永井平九郎。その4

2017年03月28日 08時39分57秒 | 永井平九郎

続きます。

ここで一旦キーワードを上げます。

島の坊、とうせん坊、宗元、桐紋の大鍋、大鍋を背負っている、観音様へ力を願い祈祷、超人的な力、乱暴者、よそ者、悪戯、殺した、一本歯の高下駄、嫌われた、大切な大鍋がウンコで汚された、東尋坊、大島、時化・嵐、逃げて来た、逃げ回った、酒を飲んだ、騙された、海に投げられ殺された、そして漁業の神として祀られた、アンバサマと呼ばれた。

ここで最初の注目点は「島の坊、とうせん坊」である宗元と桐紋です。

桐紋と言うと豊臣秀吉の家紋で有名ですが、天皇家のもう一つの家紋でもあります。菊紋に次いで尊い家紋です。天皇家から賜る最高の名誉の家紋です。

そして桐は鳳凰の止まり木とされる最高の樹木。そこに宗元、つまり宗氏を合わせて検索して出ました、関連が。

対馬市の神社の神紋に桐紋が集中しているのですが、これは対馬市を統治していた宗氏の家紋です。宗氏の庇護を受けていたから対馬の神社の神紋は桐なのです。

ここでピンと来ました。宗元の正体が。

宗氏は平知盛の血筋です。平家は元々桐紋を使用していた。だから宗氏の家紋は桐紋だった。そして対馬を統治していた。

詳しくは以前記事にした「蝦夷の心と安東水軍」を読んで頂きたいのですが、宗氏が統治している時に蒙古が襲来。対馬島や壱岐島は襲われて壊滅状態になった。そこに青森県の十三湊から海流に乗ってわざわざ安東水軍がやって来て、壱岐島や対馬の人々を救出。十三湊に連れて来たとされているのです。

太宰治の本名は「津島」ですが、これは対馬から連れて来られた人々のルーツだからとされます。北東北で津島姓、壱岐姓が多いのもその為です。つまり対馬(津島)だから「島の坊、とうせん坊」と呼ばれたのではないでしょうか。

私、宗元も対馬から逃げて来た宗氏、或いはその家系だと考えます。だから桐紋の大鍋を持っていた。家宝として大切にしていたと思うのです。

しかしながら宗元は対馬から逃げて来た余所者。差別されて育った。馬鹿にされていた。それで力を欲した。だから対馬で熱心に信仰されていた観音様に祈祷したのではないでしょうか。

次に鍋を背負っていた理由ですが、これは二つの意味があります。

一つは力の象徴。大鍋を背負っていても屋根から屋根に飛び回った。これは超人と言えます。更に一本歯の高下駄を合わせて考えると修験者と考えられる。

東北では修験道の信仰が低下してから、修験者の悪行が問題となっていました。田沢湖の辰子姫伝説の本来のストーリーは、辰子姫が法力を持った修験者に言い寄られた困り果てた内容です。宗元も悪行を重ねる修験者と捉えられた可能性があります。

そしてもう一つの意味は濡れ衣。鍋を背負う意味は濡れ衣を意味するのです。

濡れ衣は冤罪と言う意味ではありません。奪衣婆が死者の衣類を剥ぎ懸衣爺に渡し木の枝にかけ、そのしなり具合で罪の重さを量る。つまり濡れている衣類は本来の罪より重く見積もられるという意味です。犯した罪より重く見られると言う事です。

宗元は罪を犯したが、それには理由がある。本当は情状酌量の余地があると言う事なのだと思います。

それと海に投げられ殺されたから漁業の神になった。それは祟りを起こして貰いたくなくて、神として祀ったと考えられます。

それプラス対馬の人間だから海流に詳しかった。航行の知識があった。それが漁業の神に繋がったと思いますね。

「島の坊」を祀った大杉神社ですが、3.11の大津波に流されて現在は社は無いそうです。

山田町の津波被害は甚大でしたからね。瀬織津姫神社も流されちゃいましたが、地震も津波も恐ろしい。本当に油断は大敵。油断して甘く見て亡くなった人が多かった。兎に角、甘く見ないことだと思います。

話を大杉神社に戻します。

実は「島の坊」は大島に連れて来られて置いてきぼりをされて餓死したとの話もあるのですが、大杉神社では網場大杉様として祀られています。

漁業の神だから網場は判るのですが、何で大杉なのかが判りません。しょうがないからアンバサマ総本宮の茨城県の大杉神社を調べてみました。

 

続く。

 

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御鍋を背負う者。アンバサマと永井平九郎。その3

2017年03月26日 10時35分15秒 | 永井平九郎

続きです。

大切にしていた大鍋にウンコをされた。この大鍋は母親との絆。それにウンコをされた。「とうせん坊」は激高。一枚歯の高下駄をカツカツさせながら村に下り、家に火を付け、超人的な力で牛馬を絞め殺し、人々を殴り殺す行動に出た。

村を荒らし回った「とうせん坊」は村を出て、越前の東尋坊真で辿りつき、景色が気に入り住みつく。

或る日、東尋坊の先端で宴会をしている村人達がいた。彼らは優しげに「とうせん坊」を宴会に誘う。

人の優しさに飢えていた「とうせん坊」は喜んで仲間に加わり、しこたま酒を飲んで酔い潰れる。

夢の中で母親の子守唄を聞いている中、違和感を感じ目を覚ます。何と「とうせん坊」は縄で体を縛られ担がれ、崖に落とされるところだった。

「とうせん坊」は涙を流し、「おっかぁー」と叫びながら崖下に消えた。

それ以来、東尋坊で吹く風は「とうせん坊」と呼ばれ、「とうせん坊」の怨念として恐れられるようになった。

 

次に「島の坊」の話です。

今の岩手県、下閉伊郡の山田の海岸に洞窟があり、そこに何時の日からか「島の坊」なる気性が荒い坊主が住んでいた。この「島の坊」、何故か桐紋が付いた古い大鍋を大切にしていて、何時も背中に背負い村に出ては威張り腐っていた。

そして或る時、「島の坊」が留守中の洞窟に村の者が入り込み洞窟内を荒らし、「島の坊」が大切にしていた桐紋の鍋にウンコをする悪戯をした。

帰って来た「島の坊」は怒り心頭。村に出て家を叩き壊し、火をつけるなどの狼藉を働いた。

そこに役人が大勢の捕手を連れて「島の坊」の捕縛にかかる。

これに「島の坊」は更に激怒。「俺の大事な鍋にウンコをしたヤツを捕まえないで、俺を捕まえるとは何事だ。この木っ端役人が」と怒りに震えた。

「島の坊」は大きな鉄棒を軽々と振り回し、高下駄ながらも家の屋根を飛び回り大暴れ。役人は更に捕手を増強。村人も役人に協力し「島の坊」を取り押さえ、崖から「島の坊」を放り投げた。その後、海が時化となり何日も続いた。

村人達は「これは島の坊の祟りだ」と騒ぎ出し、急いで「島の坊」を祀る神社を建立。「島の坊」を大漁の神として大切に祀った。

もう一つの説では、「島の坊」を役人、捕手、村人大勢で撲殺。大島に遺体を埋めたが、それから魚が取れない日が続いた。村人達は「これは島の坊の怨霊の仕業だ」と騒ぎ出し、大島の「島の坊」の遺体を掘り起こし、漁民達の神として大杉神社に祀った。

 

続く。

 

 

 

 

 

 

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御鍋を背負う者。アンバサマと永井平九郎。その2

2017年03月24日 14時22分52秒 | 永井平九郎

続きです。

「永井平九郎は何時も御鍋を背負っている。敵が来るとその御鍋の下に隠れる」と私が小学生の時に読んだ福島県の伝説の本に書かれていました。

「何で何時も鍋を背負っているのか。敵が来ると鍋に身を隠す。それって亀じゃないの。永井平九郎よ、戦わんかい」と永井平九郎に対しての想いはありましたが、鍋を背負う事に何かしらの意味があるのでは無いのか。永井平九郎同様、鍋を背負う人物がいるのではないかと考え調べました。いました、もう一人、鍋を背負う者が。

その鍋を背負う者とは「島の坊」、「とうせん坊」。多分そのモデルは岩手県高松寺の僧「宗元」だと思われます。この三者のストーリーは三者三様ですけど。

この話で一番浸透しているのは「まんが 日本昔話」でテレビでも放映された「とうせん坊」でしょう。でも先ずはオリジナルと思われる「宗元」の話を最初に語りたいと思います。

 宗元は坊さんなのに何故か力持ちになりたいと寺の観音様に祈願。満願の日に口の中に玉が入る夢を見て力を授かる。宗元はその力を使い悪戯三昧。人々からは鬼宗元と呼ばれ恐れられる。

春の祭り日、宗元は境内の桜の大木を渾身の力で捻じ曲げ、その幹に腰を下ろして何気なくすましていた。人々は桜の大木が倒れていると思い、桜の木の枝を折ろうと群がって来た。宗元は頃合いを見計らって腰を上げる。桜の大木は跳ね上がり、その勢いで多くの人々が死傷した。人々はその行為を罵る。宗元は嫌気が刺して村から出て行き、能登の動石の山に登り「とうせん坊」と名乗った。

しかし、そこでも悪戯・悪行を繰り返す。そこも追われ越前三国の浦へ。そこでも悪行を重ねる。村人はこのままには出来ないと「とうせん坊」の殺害を決意する。

そして四月の花見の日、人々は「とうせん坊」を東尋坊の先端に呼び出し宴会を開催する。しこたま酒を飲み酔い潰れる「とうせん坊」。そこをすかさず人々は「とうせん坊」を抱え込み、海へ投げ捨てようとする。

「とうせん坊」は「計ったな」と叫びながら両腕に若者を二人づつ抱え、海へと落ちて行った。

それ以来、毎年4月の花見の季節になると必ず時化となった。人々は「とうせん坊」の祟りと考え、その季節の時化を「とうせん坊風」と呼ぶようになった。

この宗元の「とうせん坊」の話は更に脚本が加わります。テレビで放映された「まんが日本昔ばなし」ではこうなります。

北上川上流の寺に「とうせん坊」と言う坊主がいた。赤ん坊の頃、大きな鍋の中に捨てられて寺で育てられた。大柄だか知的レベルが低く、何時も大鍋を背負っていて、和尚や坊主仲間に「うすのろ」、「でくの坊」と苛められていた。そこで力が欲しいと観音堂に篭り祈祷を続けた。

満願の日に夢を見た。観音様が現れ手毬を突いていた。その手毬が「とうせん坊」の手に渡る。「とうせん坊」は腹が減っていたので、その手毬を食べた。そして目が覚めたら百人力を手にしていた。

「とうせん坊」は早速その力を試したくなり奉納相撲に参加。手加減が判らず対戦相手を次々と殺してしまった。それで人々から「人殺し」と罵られ山に篭った。

しかし怒りが収まらない村の若者達が山に篭った「とうせん坊」の住処を見つけ、その場を荒し、「とうせん坊」が大事にしていた御鍋の中にウンコをして帰った。

 

続く。

 

 

 

 

 

 

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御鍋を背負う者。アンバサマと永井平九郎。その1

2017年03月23日 12時26分20秒 | 永井平九郎

私、今までも調べながらブログ記事を書いていて、途中で間違いに気が付き方向転換したり、別の記事を書いたりしてます。今回もそうなる可能性が多々あります。かなり難しいのです。こんなこと考えている先達の方がいらっしゃらないので。

私の想像で書くしか有りません。それで最初に謝っておきます。そうなったらスンマセン。

さて、永井平九郎です。どんな人物なのか、はたまた神なのか、詳しくは過去の永井平九郎シリーズを読んで頂きたいのですが、この永井平九郎と良く似ている人物を発見しました。

あっ、その前に上の写真ですが、福島県天栄村に鎮座している御鍋神社です。主祭神は永井平九郎。配神はその両親とされる平将門公と桔梗姫です。二股の瀧は同じ天栄村の田心姫を祀る明神瀧です。瀬織津姫との説も有ります。

さて、ここからが本題です。神社名は御鍋神社のですが、御神体は神社に吊るされているのは御鍋・・・・・・・じゃないですね、これ。どう見ても御釜です。伝承や御伽噺では永井平九郎が何時も背負っていたのは御鍋の筈なのに御釜になっちゃっています。これは変です。神社の名前は御鍋神社なのですから。

これだったら御釜神社と名乗るべきです。因みにこの御釜で永井平九郎の一族が炊事していたとも伝わっています。

それにしても御鍋はどこに行ったのでしょう。不思議です。何で御鍋が御釜に変わってしまったのか。

社前に鳥居の様にそびえる二本のサワラも不思議。何故、こんな風に立っているのかは不明。何か秘密はあると思っていますが判らず。もしかしたら天然の鳥居なのかも。本来の鳥居は二本の樹木なのか。

鳥居は「鳥が居る」。神を鳥と見立てて神社に鎮座している事を示しています。でも御鍋神社の前には鳥居が無い(離れた所にあります)。鳥居が立つべき所にサワラの大木が二本立っている。このサワラが神と何かしら関係があるのか。

これも判らないですねぇー。それとビックリしたのですが、サワラってヒノキの仲間で交配するらしいです。それと杉。この三種の樹木は家を建てる材木として活用されている。

アイヌではシランパカムイが樹木の神、シラッキカムイが家の神なのですが、もしかしたらこの三種の樹木は家の神様が宿る樹木なのかも知れません。

 

続く。

 

 

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