諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

人殺しの家系の誕生日と命日。そして月命日。

2022年07月31日 10時19分07秒 | 霊体・恐怖
私の人生、負の偶然が大変多いとこれまで何度か書いてきましたが、これも負の偶然なのかなぁー。確率的には何千分の一だと思うのだが。

今年の4月18日、私の父が亡くなりました。87歳でした。

死因は鬱病からの認知症、パーキンソン病・アルツハイマー病、そこからの小脳機能の低下による誤嚥性肺炎です。また、レントゲンでは癌の影が映っていました。

しかし、その段階では胃カメラを飲める体力も亡くなっていたし、癌だと判明しても手術に耐えられる体力も無くなっていた。

私の糖尿病の主治医は「87歳でアルツハイマーからの誤嚥性肺炎は老衰に近いよ」と慰めていましたが、2Kのアパートに移って精神がおかしくなっていた。完全に鬱病になった。それで新築の家を不動産屋を回って探していた。

私は87歳で新築の家を買われては堪らんと、不動産屋を回って認知症に掛かって判断力が無くなっているから話に乗らない様に釘を刺して回ったが、それが響いて更に鬱を深めたのかも知れません。

本人には威張る対象が必要でした。弱そうな女性を見ると直ぐに怒り散らす。そう言う態度を子供の頃から見ていたから、本当に父親が嫌いでした。

弟も父親譲りで、マクドナルドのチキンナゲットを買って家に戻ったらマスタードが入っていなかった。それで店員にブチ切れし態々家に持って来させる屑。こんな屑は屑の様な死が待っている。

何れ必ずそうなる。私は負の予感だけは大抵当たる。父親の死も私だけが予感していた。ちゃんと忠告した。その通りになって何も言い返せないようだが、これからが本当の苦難が待っている。それだけば分かっている。

鬱病ですから最初から意味不明な話になってしまいましたが、父が亡くなるとしたら1月の可能性が高いと思っていました。祖父は1月18日、本家の長男である従兄は1月26日に共に事故死で亡くなりましたから。

しかし、1月は無事過ぎた。だとしたら次の危険日は私の誕生日である2月18日ではないかと思っていました。

実は父の誕生日は10月30日です。その10月30日ですが、父の母である祖母の命日でもあります。子の誕生日と親の命日が同じ。確率的には365分の1ですが、こう言う負の奇跡は私の一族ではよく起きる。だから私の誕生日に亡くなるのではと考えてました。

そして2月、3月が過ぎだ。入院していましたがコロナで面会謝絶です。私が呼ばれたのは4月18日。そして私が到着して1時間半後、叔父らが到着して30分後に亡くなりました。

つまり私の誕生日である18日に父は亡くなった。そして祖父も18日に亡くなっている。私の誕生日である18日に。

これ、偶然でしょうかね。私の家系らしい負の偶然。また何かある。人殺しの家系の負はまだまだ続く。何かそんな感じがしています。

私の考え過ぎなら、それが一番良いのですが。


ではでは。


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鼻節神社が何時の間にか心霊スポットになっていた。これってもしかしたら私のせいか?

2022年07月27日 09時07分24秒 | 霊体・恐怖
7月21日木曜日。近くの宮城生協に食料品を買いに行った。

アイスカフェオレ用の牛乳を買う。生協の食パンが半値以下の60円で売っている。パンを食べると鬱になるから食べない様にしていたけど買ってしまった。

実は暑さの為かクルマのバッテリーが上がっていた。バッテリーが寿命なのかも知れない。ダメ元で充電してみた。そしてエンジンスタート。

おっ、エンジンが回った。良かった。っと思った束の間、パワーウィンドゥが動かないのに気が付く。

うーん、私の人生、何時も正と負が表裏一体だ。喜んだ束の間、ガッカリだ。

そうなると心が弱い私は直ぐ人生を投げ出したくなる。欝と糖尿病が心配だが、60円の食パンをヤケッパチで買う。サトウ商会で買ったバターソースをつけて喰ってやろうか。

レジを済まして週刊誌の立ち読みをする。Vジャンプの最新号があった。ドラゴンボール超を読む。やっぱり面白いな。

次にビックコミックオリジナルを手に取る。卑弥呼と黄昏流星群を見ようとした。あれっ、この回読んだな。

仕方なくペラペラとページをめくる。ガロの「つげ忠男」風の漫画があった。暫し読む。どっさりと鬱が降って来た。タイトルを見たら「父を焼く」。

今の私にこの漫画は猛毒だ。一瞬で重度の鬱になった。途中で読むのを止めた。今日は薬も飲んでいない。早く家に帰って薬を飲まなけば辛くて耐えられない。

そう思いながら隣に置いてあったムックが目に入った。「最恐 心霊スポット」とある。

手に取って宮城県の心霊スポットを見る。おっ、猿田彦尊が祀られている鼻節神社が心霊スポットになっている。あの神社、何時の間にか心霊スポットになっていたのか。知らなかったぞ。

実は私、以前に「鼻節神社も・・・・、やっぱり祟り??」と題してブログを書いていたのだ。

でも心霊スポットには数えられていない筈だ。何時から心霊スポットになったのだろう。

宮城県で有名な心霊スポットと言えば八木山橋、関山峠、与兵衛沼、三居沢不動尊等々が挙げられるが、鼻節神社が心霊スポットだったとは。

しかも全国5位にランクされている。急に心霊スポットに認定されたみたいだ。本当に知らなかった。

早速、鼻節神社の記事を読んでみた。

何だこれは。ページの都合上省略して書いているが、私がブログで書いた内容そのままではないか、これ。どうなっているのだ。

うーん、多分間違いないと思うが、私のブログ記事を読んでそのまま書きやがったな、これ。ずっこいな。まっ、私も編集記者時代、よくやっていたけど。

鼻節神社は元鹽竈神社と言える神社だ。

否、大元の鹽竈神社は松島に沈んだ大根神社だと言えるが、もしかしたら私が書いたブログのせいで、鼻節神社が心霊スポットにされてしまったのか。

それは流石に困るぞ。この鼻節神社は怖いのだ。もしかしたら私、祟られてしまうではないか。

鼻節神社を舞台とするアニメ・漫画を見た時、これは不味い事になるぞ。祟られるぞと思った。

そしたら女性の作者が27歳の若さでクモ膜下出血で入院した。漫画は休刊となった。それ見た事かと思った。

本当に私のブログを見て書いたのであるならば、私、本当にヤバイかも。

でも、私は鼻節神社を最重要神社として、丁重に神道の考えに基づいて畏怖の気持ちを持って参拝した。アニオタみたいに萌え萌えで参拝はしていない。決してしていないぞ。私は祟られない筈だ。

そう思いたい。そう思っていたら益々鬱が酷くなった。帰ろう。

祟るなら萌え萌えのアニオタか、「最恐 心霊スポット」の編集者に祟って欲しい。私じゃなく彼らに祟ってください。

私はもう十分祟られている。どうか、どうか、私をこれ以上祟らないでください、鬼渡神でもある猿田彦尊様。

そう呟きながら帰路に就いた。


ではでは。






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七北田刑場(仙台藩刑場)で処刑された人々の遺体は、周りの麦畑に放置され朽ち果ていたと言う話は本当だろうか。

2019年02月08日 05時13分25秒 | 霊体・恐怖
「仙台郷土史夜話 三原良吉」と言う本の前文にこうある。

「たとえば、七北田刑場跡に立って、麦畑に散乱する刑死者の白骨に、一遍の念仏を唱えるくらいの思いやりがなければ、郷土史を語る資格はない」。

えっ、七北田刑場で処刑された遺体は七北田川に流されたのではないのか。

以前、読んだ本に「処刑された者の血が七北田川まで流れ、真っ赤に染めた」と書かれてあった。私は川の側で処刑され遺体は七北田川に流された。処刑されだ罪人の吹き出た血が、川まで流れて行ったと言う事だと思っていたが違っていたのか。

もしそうなら罪人とは言え、余りにも無情ではないか仙台藩よ。

供養を許さなかったと言うのは、処刑された罪人達の遺体を麦の肥料にする為だったのか。それは流石に悪質ではないか。ここまでの悪行を仙台藩はしていたのか。

七北田刑場跡は向原の高台にある。八乙女駅から徒歩5分かからない距離。斜め前にある。ここから見渡せるのは地形的に、八乙女駅周辺としか考えられない。

七北田刑場で処刑された人数は一説によると7600人。少なくても7000人以上なのは間違いない。

三原良吉の話が本当であるならば八乙女駅周辺は麦畑で、その昔、7000人以上の遺体や骨が累々としていたと言うのか。

それは余りにも酷すぎる。そこまで人の霊を軽んじていたのか伊達家は。罪人だからと言って人の死者の躯を何だと思っているのだ。だから仙台人は人が悪いと言われるのだぞ。

地震が来たり、大津波が来たりするのも死者への配慮が惨過ぎるからではないのか。仙台には怨霊が渦巻いている。その一因は伊達家にあるのではないか。

そう言えば地下鉄・八乙女駅前の昔の住所は「字念仏」。そして八乙女周辺では当たり前のように幽霊が出るとの話を良く聞く。

そして八乙女駅前の幹線道路では交通事故が異様に多発していた。祟りではないかと、事故で死亡した人の慰霊碑が建っている。

何故、そこで事故が起きるのか。処刑場所は七北田川周辺で転々と移されたらしいが、どうも石碑の場所で処刑が行われていた時期も有ったらしい。

その場所が八乙女駅のガード下って、ちょっと考えられないぞ。歩いている人は全然気にならないのか。私はビンビン来るぞ。

交通事故多発の原因は処刑された人の遺体を弔わず、その地に放置していたからではないのか。そんなの余りにも哀しいではないか。本当なら本当に悪質過ぎるぞ仙台藩は。八乙女駅は霊場そのものではないか。

以前、ブログでも書いたが仙台北郵便局から八乙女駅までの道のりで、嫌な感じが何時もしていた。仙台北郵便局の斜め前には末期の水を飲む場所もある(以前は台原寄りにあったそうだが)。

浄化されていないと思う。

十数年前、向原で敷地50坪程度の軽量鉄骨の中古の白い家が売りに出ていた。ボックス状の部屋をその地でドッキングさせて建てる昔流行した家だ。価格は500万円。安過ぎる。見晴らしも良いし、ここに住んでも良いなと思った。

しかし、実際に行ってみたら変な感じがした。前にある白い家にエネルギーと言うか、気がサァーーーっと吸い取られる感じがした。何だこれは。幽体離脱ってこれの事か。不味いぞここは。

そうやって逃げて来ました。500万円の家の確認なんて出来ませんでした。近づく事が出来ませんでした。

多分、あそこの家は霊感とか関係なく、大抵の人が私同様の感覚に陥ると思います。それほどの場所でした。

駄目な所は駄目。家は良い気が流れる土地に建てるべき。つくづくそう思う。あそこは駄目だ。

それにしても三原良吉の話は本当なのか。本当だったら八乙女駅から七北田川までの土地は全部ダメだろ。

16歳の頃、奥羽自動車学校で中型自動二輪の免許を取ったが、何時も身体がボーっとしていた。免許取るのに大変苦労した。ここにはもう来ないと思って普通車の免許は他で取った。それも影響していたりして。

まさか。ドンくさい私だから流石にそれは違うだろうけど、私の家から近い場所で7600人の骨が無造作に放置されていたとしたらショック過ぎる。

もし本当にそうなら、心の底から仙台と言う街を軽蔑する。本当に酷過ぎる。伊達家は呪われるのではないか。

事実、伊達家家臣の有名人は自分を人殺しの家系と呼んでいる。呪いを実感している。でも、ここまでの悪質さであったなら、やっぱりよっぽどの事になりそうだ。

日々、施しで呪いの中和に励んでいる方だが、そう簡単ではないだろうな。


ではでは。

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余命3ヵ月と言われたら、即身仏になろうと思ってた。

2018年11月27日 08時40分15秒 | 霊体・恐怖
余命三ヶ月。そう言われたらその三ヶ月をどう過ごそうか。

この件で長年考えました。答えは未だに出ていませんけど。

折角この世に生まれたのだから、何か生きていた印を残したい。それにはどうすべきか。あと三ヶ月しかない。出来る事は限られている。

家族がいるのであれば残りの時間を家族と共に過ごすのだろうけど私は独り身。死ぬ時は一人。一人の方が私は良い。

でも何かを残したい。人々に自分の事を覚えて貰いたい。出来れば人の為になる事をして死にたい。だったら、どの様に死んだら良いのだろう。

若い頃の私が考えに考えて出した答えが即身仏です。私が即身仏になって日本の平和を永遠に祈り続ける。それで日本が平和になるのであれば、素晴らしい死に方だと思いました。

そう思ったら居ても立っても居られない。即身仏になるにはどうしたら良いのか。

調べましたよ、若い頃の私は。本当に死ぬつもりで。

即身仏は簡単に言うと、土の中に穴を掘って竹の節を切り抜いた竹筒を刺して空気穴だけを残して入り、念仏を唱えながら餓死します。

その数年後に掘り起こし、どっかのお寺に安置してもらい、信者たちや参拝客に拝んで貰う寸法です。

全国に十数体の即身仏があるそうです。その内、六体の即身仏が山形の庄内地方のお寺にあります。湯殿山麓呪い村あたりだと思います。

即身仏はただ単に土の中に入れば良いってもんじゃありません。その前に即身仏になる為の準備が必要。その準備が私に出来るのか・・・・・。

即身仏はミイラです。綺麗にミイラになる。腐らない様にミイラになる。それにはどうしたら良いのか。

先ず、ギリギリまで身体を絞る必要が有ります。ガリガリに痩せねばなりません。脂肪たっぷりの身体では腐ってしまうので。

一般的には殆ど食事をせず、野山を念仏を唱えながら歩きまくって痩せるそうです。

うーん、それってキツイぞ。

それでなくても通常の人より太っている私です。それに身体が硬い。そんな私が野山を歩き回る。山歩きは使っていない筋肉を酷使します。本当にキツイぞ、そりゃ。

更には防腐剤として漆の樹液を飲むらしいです。漆を飲みまくって腐らない身体を造るそうです。

私、漆を飲んだ事なんて有りませんから分かりませんけど、漆に触れるとかぶれる訳です。それを飲むのって健康に悪そう。どうなるのだろう。

調べてみたら、漆には蛆や細菌を撃退する成分があるそうです。そして漆を飲むと大汗をかき嘔吐を繰り返す。それで痩せるみたいです。ライザップより効果が有りそうです。でも本当に辛そうだ。

そうやって体重を落とし土の中に入ります。そして念仏を唱える。

そこでボンヤリと生きて来た私でも流石に気が付く筈。念仏ってどう唱えたらいいのか。般若心経で良かったのか・・・・。

うーん、私は仏教徒なのだろうけど、そんなに仏教を信じている訳ではない。修験者でもない。

それなのに何で即身仏にならなければならないのか。この死に方に意義は有るのか。「即身仏になるんじゃなかった。失敗したぁー」と後悔するのではないか。

土の中で「即身仏は中止。出してくれぇ~~」とか叫んだら、出してくれるのだろうか。

「何を言っているんだ今更。男が決意したなら最後までやり通せ。念仏を唱え続けて早く餓死して、立派な即身仏になれ!!」とか介添え人に言われたりして。

私の事だから土の中で悩みに悩む。餓死は相当に辛い死に方。ダイエットも成功しない私に出来る訳が無い。

もう「助けてくれぇ~、ここから出してくれぇ~、すみませんでしたぁ~」と絶叫し続けるでしょうね。

そして絶望し諦めて餓死する。即身仏となり掘り起こされる。その姿はどうなっているのだろうか。

私の事だから絶叫した表情で死んでいると思います。もの凄い形相の筈です。それって即身仏として大丈夫なのか。

更に考えてみたら、私は足が太くて内股なので座禅・胡坐が出来ない。恥ずかしながら女の子座りとか、M字座り??しか出来ないのです。

そんな座り方して凄い形相しているデカ頭の私のミイラを、即身仏として迎えてくれるお寺が有るのだろうか。

調べてみたら、やはり綺麗な形で即身仏に成れないケースも有るそうです。それでなくても即身仏は恐ろしいのに、苦悶の表情のミイラって凄く恐ろしい。

私の場合は更に女の子座りしている。色々な意味でもっと恐ろしい。この即身仏はオカマだったのかと思われてしまう。それは違う。それは断じて違うぞ。

即身仏になる前に「オカマじゃないよ」と張り紙を頼んでおく訳にも行くまい。これは困ったぞ。

その点も調べてみたら、凄まじい形相だったり、綺麗に座禅・胡坐していない即身仏は人様に見せられず、お寺にも安置されず、人が立ち寄らない蔵みたいなところに置かれたりするそうです。

それだったら即身仏になる意味ないじゃん。

うーん私の場合、絶対にそうなる筈。それって本当に私らしい落ちだ。私の人生、何時もそんな感じだったもん。

絶対に嫌だ。三ヶ月の命だとしても即身仏になるのは中止だ。ヤメ、ヤメ。

そう思って即身仏になるのは諦めました。

凡人は凡人らしく死ぬ。黙って消える。そして自然に帰る。それが私らしい死に様のように思います。

それで十分だと思います。


ではでは。




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幽霊はタイムトラベラーなのではないか?

2018年09月21日 04時37分21秒 | 霊体・恐怖
以前、「幽霊との対峙」と言う記事を書きました。

私が神を実感したくて丑三つ時に神社を参拝してみようと考え、その第一回目として近くの征夷大将軍を祀る神社へと足を運び、その最初で出会ったのです。詳しくは「幽霊との対峙」を読んでみてください。

これは私が38歳の時でしたから、もう16年も前になります。この幽霊との対峙で今までの考え方が覆りました。幽霊は霊体ではない。肉体を持つ個体なのだと。

確かに霊体や気体ではない。しっかりとした肉体を持っていた。しかし、私が後ろを向いて直ぐに消えた。2秒も経っていないのに。

煙のような気体ではない。ちゃんと肉体を持っていた。其れなのに消えた。これはどう言う事なのか。

確かに間違いなく消えました。2メートルも離れていない距離で対峙していたのです。走って逃げれる訳が無い。音もせずに消えたし。

これはあの場所から離脱した。姿が見えなくなったと言うより別の空間へ行った。気配も消えたのでそうとしか思えないです。

幽霊は男でした。菅原文太似。歳は50歳前後。少々濃いアイボリー色の麻??の長ズボンに白の長袖開襟シャツの姿でした。

あの姿は横溝正史シリーズに出て来る刑事が着ている感じです。現代であんな格好をしている人は少ない。多分、昭和初期から戦後直ぐ辺りの時代の人物だと思います。

そしてその幽霊は瞬きを一切せず私を見た。現代の私を見た。これってタイムトラベルしている事になりませんか。

私は彼を間違いなく幽霊だと断定しています。今に生きる人ではない。でも私を見た。現代の私を見た。これって凄い事ではないでしょうか。

私が死ぬ。成仏しなかった。それでちょくちょく現代に現れる。これって不幸な事なのか。どうなのだろう。

未来を見続ける事が出来る。これって素晴らしい気がしないでもない。ホント、どうなのだろう。

現世に未練がある。これって悪い事なのか。

天国や地獄なんて誰も分らない。生まれ変わる事も分かっていない。でも、死んだ者が此の世に現れる。

過去、肉体を持っていた者が、また肉体を纏って現れる。生と死の境界性を越えて現代に現れる。これは私、事実として確信した。

でも現世を見た幽霊の気持ちはどうなのだろうか。また生命を持ちたいと思っているのだろうか。生きている人間が羨ましいのだろうか。自由に消える事が出来る肉体で普通に暮らしているのだろうか。

こんな事、死んだ幽霊にならなければ分らないですね。

でも私、多分、成仏出来ないと思う。物凄い恨みを持っているし。

勿論、それを抑えている。でも死んだら抑える必要が無くなる。私も祟り霊になるのだろうか。

あの幽霊は私を歓迎していなかった。敵意が感じられた。恨みを持って死ぬと言う事は、あの姿を意味するのだろうか。

うーん、分らず。こればっかりは死んで見ないと分りそうにない。

でも、生きている間は考え続けようと思う。

何の意味も無い事だとしても。


ではでは。
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