続きです。
そう言えばいわき市三和町合戸に「日本昔ばなし」にも採り上げられた、「ひねくれ婆と明神様」と言う話が残っている。
夫が亡くなって生きる張り合いが無くなった婆さんが、神様のお供え物を勝手に食ったり、言い伝えを守らず明神様にとっちめられる話だが、夫を失って悲しい気持ちから心が捻くれ、それらをしでかしていた。
明神は「夫の想い出を大切にして生きろ」とひねくれ婆を諭したが、想い出と共に穏やかに生きるのは、色々踏み越える事があると思う。
そこまで辿りつくのは大変ではないのか。あのお婆さんも本当は悲しくてしょうがなく、元旦早々、夫の墓参りに行ったのではないだろうか。
90歳を過ぎて夫を想い独りで生きるのが辛い。早くお迎えが来て欲しい。少なからずその気持ちはあると思える。
そう言う思いで高齢で独りで生きるのは幸せなのだろうか。早くお爺さんの元へ行った方が幸せではないのか。
うーん、ここら辺の事は全然分からないなぁー。
「吉野せい」はどう思っていたのだろうか。私、この方とは不思議な縁を感じる。
例えば「洟をたらした神」。この本は短編集なのだが、この「洟をたらした神」は「吉野せい」の息子の事である。そして私の本名と同じなのだ。
そして開墾をしていた。亡くなった娘の名が「梨花」と聞いてもしかしたらと思ったのだが、やはり私の母方の祖父祖母と同じく梨園を経営していた。同じ好間の地で。祖父祖母と同年代だし。
私の母方の家系で小説家がいたと聞いているが、もしかしたら親戚だったりして。同じ梨園を営んでいたのであれば、祖父祖母と面識もあった様に思える。興味が尽きない。
「吉野せい」は最晩年になって、小説家として認められた。しかし、それでも良い人生とは言えなかっただろう。貧困で苦労のし通しだったし、最愛の娘を亡くしているのだから。
お金が無くて娘を医者に見せる事が出来なかった。お金があったら娘は助かっていたかも知れない。働かない夫を恨んでいた。
これで小説家として名声を得たとしても全然幸せじゃない。あの怨念の文章は、幸せな者には絶対に書けない。
自分の人生に納得していなかった筈。辛い人生だと思っていた筈。夫がしっかりと働いていたら、娘は死ぬ事は無かった。そう想いながら、夫と同じ墓に入るのは幸せなのだろうか。
否、当時は子供が先に無くなるのは珍しい事ではなかった。戦争もあったし、医療も充実していない。私の父の姉も35歳で子供を残して癌で亡くなっている。逆縁が多かった。
分からない。長生きしたとしても幸せとは言えない。あのお婆さんも独りで生きるのが辛く感じていた。その思いを語りたくて、私に声をかけだのでは無いだろうか。
うーん、私も最後は独りで死んで行く。勿論、自分の人生を呪って死に逝く。
馬鹿な力士が引退の弁で「北斗の拳」のラオウを気取って、「我が人生に一片の悔い無し」と言っていたが、悔いが無い人生なんて有り得ないのでは無いか。
悔いだらけだ。悔しいし、悲しい。大抵は夢が散って「こんなもんだ自分の人生は」と諦めて死んで行くのではないのか。
こんな事、今の私には分からない。死の直前じゃないと分からない。
否、逆に分かってしまったら、自死を選ぶ事になるのではないか。
まだ分からなくていい。何となくだがそう思う。それで良いのだと思う。
分からないら生きて行けるのかも知れないし。
ではでは。