諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

坂上田村麻呂の夢枕に立った鬼渡神。 その4

2014年03月30日 01時44分54秒 | 神道

続きます。

さて前置きがやっと終わりまして、これからが本題です。

田村麻呂は奥州で金を採取して大和朝廷軍の軍事資金にした。そして金を採取した事を地主神に感謝し、金を採取した場所で地主神を祀ります。

事件はその晩起こります。眠りについた田村麻呂の夢枕に謎の神が現れたのです。

田村麻呂は「貴方様はどなた様?」とか言って尋ねたら、その謎の神は「吾は山でも川でも海でも直ちに渡り行く故、鬼渡神と申す」と自己紹介したんです。ただそれだけの話です。

私はこの話を知り最初は田村麻呂を鬼渡神は守護したのだと考えました。もう随分昔の話ですがそう思い込んでいたのです。神道について殆ど知りませんでしたから。

しかし今は違います。鬼渡神は田村麻呂を守護したのではなく、地主神でる鬼渡神を祀り上け守護神としたのです。これはかなり意味合いが違います。

神道は基本、怨霊を祀り上げて呪いを封じ自分たちの守り神に昇華させる宗教です。怨霊を祓い清めて神にする宗教なのです。つまり鬼渡神は田村麻呂に敵対していた蝦夷側の神です。地主神を祀って出て来たのですから当然です。

考えてみたら皮肉な話です。蝦夷の神の恵みである金を強奪するのが蝦夷征伐の目的で、その金の力を利用し蝦夷を討ったのですから。或る意味、蝦夷の神が大和兵を奥州に来させ、大和朝廷側に祀り上げられて蝦夷を討った事になります。

これは奥州の鬼の首領だった悪路王(大嶽丸でも可)の情婦だった立烏帽子(鈴鹿御前でも可)が坂上田村麻呂を好きになり、悪路王を裏切り、田村麻呂に協力して悪路王を討った話に重なります。

そして立烏帽子、鈴鹿御前のモデルは蝦夷の女神である瀬織津姫と言う事になります。つまり「金=瀬織津姫」なのです。

金の神様と言えば鉱物の神である「金山彦神・金山姫神」と成ります。そしてその両神の仏号は「弁財天」。弁財天は瀬織津姫とされているので、「金=瀬織津姫」はこの点でも繋がります。

実は私の住む仙台市の岩沼市や国分町に「金蛇水神社」あります。祀神は「水速女命」。つまりミズハノメ命で弁財天としても祀っています。

ミズハノメ命は水神。弁財天は金の女神。二神は同神とされていますが金の採取は最初、川の砂地から取った筈なので、水と金は繋がります。そして水神の眷属は龍であり蛇。そこから金蛇水神社となったと思われます。


つづく。


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坂上田村麻呂の夢枕に立った鬼渡神。 その3

2014年03月29日 01時12分50秒 | 神道

話を坂上田村麻呂に戻します。

田村麻呂は金の採取・採掘をしながら蝦夷と戦う戦法を取ります。

その兵力は4万人。現地で金を採取して兵糧や兵士の賃金を賄いながら戦うのなら4万人の兵力が理想的だったと思われます。

過去、10万人を動員しても勝てなかった訳ですが、その4万人の兵は農勢期を気にする事無く常時戦える兵です。それでも蝦夷兵の10倍の規模となります。こうなると蝦夷もたまったものではありません。万策尽きたと言えます。

田村麻呂・アテルイの時代は蝦夷だって農耕をしています。縄文時代の様に狩猟オンリーではなく、農耕が生産の主力です。戦を続けていては田畑を耕せない。食料が供給出来ない。つまり暮らしていけないし戦えないのです。

そうなると大和朝廷側に投降する蝦夷が続出します。大和朝廷側に投降した蝦夷は熟蝦夷。投降せず最後まで戦った蝦夷は荒蝦夷と呼ばれています。

田村麻呂は最後に駄目押しの策を講じます。何と投降してきた熟蝦夷を大和朝廷側の兵士として、最前線で仲間だった荒蝦夷と戦わせたのです。つまり目には目を。蝦夷には蝦夷をです。

かつての仲間同士を戦わせる。この発想は蝦夷には理解出来なかったと筈です。蝦夷は良い意味で社会主義・共産主義の国です。皆で助け合う種族なのです。

アテルイ・モレは仲間と戦う事は出来ないと判断したのでしょう。最後まで戦っていた500人の蝦夷達と共に田村麻呂に投降。大阪まで連れて行かれて全員が処刑。蝦夷側が全面降伏した訳ではありませんが、これが一応の決着となりました。

田村麻呂は帰順したアテルイら蝦夷兵を平城京に連行。アテルイ達の武勇と器量を惜しみ、「戦後の蝦夷統治に尽力させるべき」と助命を嘆願したそうですが、貴族達に「野生獣心、反復して定まりなし」との判断で、田村麻呂の意向は聞き入れられず泣く泣く処刑されたとなっています。

私、これはチョット疑問です。

蝦夷同士を不条理に戦わせた田村麻呂が、アテルイ達の助命を願い出たとは思えません。一応の決着は確かに着きましたが、まだまだ蝦夷との戦闘は続いているのです。アテルイの息子もアテルイの死後も戦い続けています。アテルイ等を奥州に帰すなんて考えられない。それが危険なのを一番知っているのは田村麻呂です。私はこの話は田村麻呂を奥州の英雄にする為のフィクションだと思います。

その理由は青森県の「ねぶた・ねぷた祭り」一説で証明出来ますが、この話は今回は飛ばしまして次回書きたいと思います。


つづく。

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坂上田村麻呂の夢枕に立った鬼渡神。 その2

2014年03月28日 03時52分32秒 | 神道

続きです。

坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、勝利を収めた要因は何なのか。

正直、多くの説があります。「これだっ」とはどれも断言出来ません。何故なら田村麻呂は鬼から東北を救った英雄となっていますからね。かなり捏造されている事例が多いように思います。

そこで私はあくまで合理的に考えたいと思います。勿論、ここから書く事は多くの説を鑑み組み立てた結果の私の想像であり妄想です。その点、理解の程お願いします。

さて田村麻呂が蝦夷に何故勝利出来たか。当然、先の将軍達と違う戦法で戦った事が挙げられます。その一つは徹底した殺戮です。

戦とはそれまで兵士対兵士の戦いでした。それが田村麻呂が将軍となってからは非戦闘員である女子供、老人に対しても蝦夷と見れば殺戮する様になった。蝦夷側も「戦でここまでの行為をするのか」と戦意を失う者も現れた。

そしてもう一つは大和側の兵士の傭兵化です。

当時、いや、織田信長が登場する以前の戦国時代まで兵士は百姓でもありました。農勢期は鍬を持って田畑を耕し、農閑期には鍬を刀に持ち替え戦をしていた訳です。だから戦を長く続けられなかった。武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いが中々決着が付かなかったのもその為です。

田村麻呂の時代もそうです。何せ一時期は京の都、または鹿島あたりから遥々10万の兵を動員して蝦夷征伐に来ていたのです。

そして田植えの季節になると帰えらざる負えない。兵糧の心配もあるし10万の兵に渡すギャランティも大変です。長い期間戦を続ける事はまず不可能でした。

その問題をどうするか。

田村麻呂は副将軍時代から考えていたと思います。東北で採掘した金で兵士達を賄う事を。織田信長を数百年遡り田村麻呂が地産地消と言ったら変ですが、金を採掘しその金で傭兵を戦に投入したのです。

蝦夷討伐の一番の目的は金です。金の略奪です。当時日本は金の産出世界2位の国でした。「黄金の国・ジパング」って言うでしょ。そのジパングの名の由来は「津軽(当時はチパンルと発音していた)」との説がある位、東北は金が豊富だったのです。

2年半前に例のY氏の関連で岩手県遠野市の早池峰神社にツアーとして正式参拝に行った時の事です。

近くの「又一の瀧」に苦労して登りました。そして瀧に着いてビックリ。瀧は砂地になってたのですが、その砂にキラキラ光るものがあるんです。金です。指で何とか摘めるかどうかの大きさですが、金が結構な割合で砂に混じっていたんです。

私、正直「暫くここで暮らして金を採取したいなぁー」なんて想うほど金がありました。これは仙台市周辺の渓流ではありえないです。今だってこれ程あるのだから田村麻呂の時代は金だらけだったと思いましたね。

因みに「又一の瀧」の意味は「熊野・那智の瀧は一の瀧と呼ばれているが、この瀧も又、一の瀧である」と言う意味です。これは那智の瀧も瀬織津姫を祀っているとされているが、又一の瀧も瀬織津姫を祀っている事を示しています。

そして或る意味、瀬織津姫も金に関わる神様だと言えます。


つづく。

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坂上田村麻呂の夢枕に立った鬼渡神。 その1

2014年03月26日 02時48分42秒 | 神道

暫く神道のカゴテリーで書いていませんでしたね。

それどころか「所業無情なる日々。鬼渡神と神々の源流」と題してブログを書いているのに、鬼渡神に付いても全然触れてませんでした。

正直、鬼渡系神社の祭り神は神道界のオールスター??の神々が祭られているので、一言じゃ簡単に言えないのであります。

だから小出し小出しで書いて行くしかないなぁーと思っているのですが、それもチョット味気ないんで、今回は鬼渡神が「吾は鬼渡神と申す」と発言した唯一の伝承を語って見たいと思います。

さて鬼渡神が自己紹介した話は地元の神代研究家??の佐治芳彦さんの本に書かれていました。確かタイトルは鬼に関して書かれていた文庫本だったと記憶しています。

勿論、その本には鬼渡神に付いて佐治芳彦さんの考えが書いているのではなく、何か古くから伝わっている古文書??に鬼渡神が書かれていて、そこからの引用です。そのネタ本の名前は不明です。

私、佐治芳彦さんが書いたその鬼の文庫本探しています。どっかのダンボールに入っている筈なのですが、震災でどこに行ったのか分からずです。しょうがないので今回は私のうる覚えの知識で語りたいと思います。

さて、この物語の主人公は坂上田村麻呂です。田村麻呂に付いては説明は要らないと思います。蝦夷を制圧した偉大??な征夷大将軍です。東北を征服したのに何故か東北の英雄となっています。

私の故郷・福島県には田村麻呂から名を取った田村郡もあります。宮城県には田村麻呂の親父である苅田麻呂から名付けられた刈田郡なんて地域もあります。更には田村麻呂は宮城県の利府町辺りで産まれた伝説もあります(二代目田村麻呂ですけど・・・・)。

それだけ東北人から尊敬されていますし、親しまれてもいます。蝦夷は田村麻呂によって征服されたのに、東北人は良かった良かったと思っているのです。

その理由は色々考えられますが、東北人は自分を蝦夷だとは思っていないのが一番の理由だと思います。

青森県のねぶた・ねぷた祭りなんか蝦夷の族長だったアテルイを、悪路王や大嶽丸と言う鬼にしてハリボテ(巨大な灯篭なのでしょうか)を作り、田村麻呂に退治させて喜んでいる祭りです。

つまり田村麻呂は本当は東北を征服に来たのに、東北を鬼の悪行から救ってくれた英雄に祭り上げているのです。

これでは東北の為に、蝦夷の平和な生活を守る為に、少ない兵士で火の玉になって戦ってくれたアテルイ等蝦夷兵の御霊が気の毒でなりませんよ。

何でこれ程までに田村麻呂の人気が高いのか。幾つか理由があります。

一つは奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝が先に蝦夷を制圧した田村麻呂を神格化し、自分の行動の正当性を田村麻呂になぞる事で証明。田村麻呂への信仰を推奨する事によって源頼朝は自分の威厳を示し、東北を統治し易くした。

又は田村麻呂は蝦夷を徹底的に殺戮。更には捕虜・奴隷として蝦夷を九州に連れて行ってしまい東北の蝦夷は激減。金を採掘するため大和朝廷側の人間が東北に住みついた。

他にも色々説がありますが、この2つの説が有力だと思います。残念ですけど。

では何故、田村麻呂は東北を制圧出来たのか。

田村麻呂の前には紀古佐美、大友弟麻呂、そして田村麻呂の親父の刈田麻呂等が10万人の兵を動員して蝦夷制圧の戦いを挑んだのですが、アテルイ等が率いる蝦夷側は4000人程度の兵で神出鬼没にゲリラ戦を慣行。あんまりやる気のなかった大和側は、蝦夷に何度もボロ負けしていたのでした。

そこで坂上田村麻呂が登場します。田村麻呂は過去の将軍達とは違う戦法を取ります。


続く。




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人の命を預かる怖さ。【東日本大震災・大川小学校の悲劇】 その4

2014年03月21日 07時40分20秒 | 東日本大震災
さて3.11の時、大川小学校の最高責任者であった教頭の思案と判断を探ります。

先ず、午後2時46分に震度6強、震度7の大地震が発生し、児童は校庭に集められた。

地震から約5分後、6メートルの津波が来ると警報が発令。

児童の親たちがクルマで迎えに来る。教師は点呼を取り名簿に記入するように指示。親は教師の話を無視して子供を連れ去ったケースもあった。

その中の母親の話では、校庭には100人前後のひとが避難していた。

教頭が地元住人に「裏山に子供が上れるのか。山が崩れないか」と聞いていた。住民は「ここには津波が来ない」と発言していた。

以前、津波の避難訓練をしていた地域の学校から転勤して来た教師は、裏山に避難することを教頭に直訴していた。裏山では椎茸栽培の実習をやっており登れると判断していた。

小学6年の2人の児童は「津波が来る。皆死ぬ」と言い、裏山に避難する事を懇願。

教師は「学校に残る方が安全」と発言し、懇願した2人の児童の意見を跳ね除ける。

教頭は避難するためのスクールバスをそのまま待機させた。

津波到達1分前になって態々200メートル離れた川沿いの新北上川橋の三角の避難指定場に建物を縫うように列を成して非難を開始した。

津波が児童達を襲った。最後列の教師1人と数名の児童は裏山に逃れ助かった。

以上が大体の経過です。しかしながら助かった児童たちをよく調べると、そう聞いたと言う話になっているので、正確とは言えないようです。

ただ、確かな事は大川小学校がある釜谷地区の住人の4割、189名が亡くなっています。これは、ここまで津波が来ると思っていた人は少なかったからだと言えます。

釜谷と言う地名から水難をイメージするのですが、三陸沿岸は長年津波警報が出ても大した津波が来なかったことから、狼少年的に思われた方が多かったかも知れません。

しかし、それでも児童の親で大川小学校まで子供を迎いに来ている方もいる。津波の到来を視野に入れて行動しているのです。複数の親に判断できて、先生たちに決断出来なかったという事は、やはり思慮が足りない。津波到来のシュミレーションを怠っていたと言えると思います。

一番残念なのは教頭の思案の低さです。「裏山に登れるのか、崩れないか」と聞いたと言うことは、教頭は裏山に登った事が無いと思われます。確かに校庭には老人も避難していたし、低学年の児童は登れないと指摘する人もいるようですが、その知識が無い者が判断してもどうにもなりません。

走って1分程度の裏山を教頭ともあろうものが把握していないと言うのは、児童の命を預かる者としての資格は無いと思います。

また、これは私の妄想であり危惧でもあるのですが、教頭は「先生病」、更には「上司病」にかかっていた可能性があると思います。

「自分は先生だから上司だから自分が判断する。指示する。それは教頭たる自分の特権。自分に従うことを強要する。自分の考えが優先。そして判断し指示することが自分の仕事。児童や部下の意見を聞いてしまっては、自分の存在意義が無くなる。それは許さない。自分は教頭。権力者なのだから・・・・・」、何て考えが頭を過ぎったかも知れません。

東京都では教職試験の倍率は1.7倍と聞いています。割と簡単に教師になれます。しかし宮城県で教師になるのは大変です。兎に角、「公務員にあらずんは人にあらず」の土地柄ですからね。県警でさえ私の時代で10倍の倍率です(警視庁は1倍。大抵なれる)。公務員は名士なのです。だから宮城県はえばり散らす公務員が多いのです。

中でも教師は公務員の上位に君臨します。教師以上と言ったら大学の教授や医者位です。今の時代教師は、食べられない者が多くなった弁護士よりも上だと言えます。

教師の中には生徒でも無い目上の者に対し、命令口調で語る馬鹿が大勢います。そして教師界の副将軍の教頭なのですから、知識も無いのに自分の考えに凝り固まっていた可能性も疑がわれます。

また、自分に対しての責任も考えたと思います。もし裏山に逃げて児童が怪我して、その上津波が来なかったら自分の責任。校庭になら避難指定場だから津波が来ても自分の責任じゃない。指定した奴の責任になる・・・・・なんて考えたたとは言いませんが、公務員たる教師は失敗の出来ない人生を強いられてます。似た様な事を考えたかも知れません。

結果、教頭の判断ミスで死者・行方不明の児童が74名。教師が10名。他に待機させられたままのスクールバスのドライバーも、一緒に校庭から非難した住民も亡くなった。そして自分も犠牲になった。ホント、いたたまれないですね。

犠牲になった大川小学校の児童23名の親は、石巻市等々を相手取り23億円の損害賠償を訴えていますが、裏山に逃げる判断をしなかった教頭も亡くなっているのです。七十七銀行女川支店の裁判と論点は同じです。勝訴するのは難しいと思います。勝訴したら裁判ラッシュに成るでしょうし、国もそれを考えていると思います。。

ただ言える事は、教師だったら学校の周辺の事も知って置くべきだと言う事です。あんな豪華な校舎を造る金があるのなら、裏山を整備してなだらかに登り易くする位の考えが浮かばない事自体、教育者失格だと思いますし、どうしても過疎地に赴任した事での教師の資質を疑っちゃいます。

最後に逃げる逃げないの判断は、人それぞれです。裏山に逃げる事を主張したのに、教師の指示に従い命を落とした児童達が気の毒で成りません。

そこで先生、教師と言う主従関係の廃止を私は訴えます。もう、先生と呼ばず「○○さん」で教師も生徒も呼び合ってはどうでしょうか。

命に上下はありません。自分の命くらい自分で判断させる制度も必要だと思いましたね。

っと書いて来ましたが、先生たちの多くは亡くなった訳ですし、あの大地震ではパニックで冷静な判断は難しかったのかも知れません。死者に鞭打つ事を言ってしまい私も心苦しいです。

ネガティブシンキングな私なら、少しでも助かる可能性に貪欲に動いたと思うので、どうしても残念でならず言い過ぎでしまいました。失礼しました。


ではでは。






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