えー、上のタイトル、掴みはOKだったでしょうか。
当たり前ですけど、政宗と信長はメールではなく、文通していたって事なんですよね。
この話、随分、昔に読んだ本に書かれていたのですが、どんな内容だったのかチョット思い出せません。
ただ、政宗は信長を父のように、はたまた兄のように慕っていたのは確かだったと記憶しています。勿論、信長も政宗を可愛がっていたようです。
信長は1534年生まれで、1582年に没。政宗は1567年生まれで1636年に亡くなっていますので、政宗が15歳の頃に信長が討たれた訳です。
当然、文通期間は政宗が15歳の頃までと言うことになります。多分、実際に会ったことは無いはずです。
まあ、歴史通の人はご存知だと思いますが、この二人、大変、境遇が似ているんですよね。
信長の父・信秀、政宗の父・輝宗とも短命でしたし(輝宗の死の一因は政宗ですが・・・)、双方とも弟を殺していますし(信長の弟は信勝、政宗の弟は小次郎)、またまた、双方とも母親には愛されてなかった様ですし、家も最初は一枚岩ではなかった等々、結構、共通点があります。
実際、文通は政宗の父・輝宗と信長から始まった様ですが、
「政宗 信長様、母上も家来も私の目を(天然痘で片目になった)、ゲゲゲの鬼太郎みたいでキモイ、キモイっていうんですよー」。
「信長 気の毒よのう、政宗。わしも子供の頃は、うつけ、うつけと家来たちにも影口叩かれ、辛かったぞう」。
「政宗 母上も家来たちも弟の小次郎ばかり贔屓にして、僕の事は蔑ろにするんですよぉー」。
「信長 わしが若い頃も弟の信秀の方が優秀だと言われ、馬鹿にされたもんだ。そのせいで弟を殺さなくてはならなくなった」。
「政宗 可哀想な信長様。うぇーん」。
ってなこと、手紙に書かれていたかも知れませんが、どうも政宗は信長を手本にして生きてきた節が見れると思います。
激しい性格も、海外に目を向けた思想も信長とよく似ています。
何度も徳川幕府を挑発する事件を起こしているし、天下を取る機会も最後まで諦めませんでした。
その振る舞いは、信長の後継者其の物です。
どうして政宗と信長、伊達家と織田家が親密だったのか、同じ思想だったのか気になりました。何か理由があるのではないかと。
そして見つけましたよ共通点を・・・・・・。
何と織田、伊逹両家の血筋はナガスネ彦に繋がります。
これには驚きました。そしてチョットだけですが、信長の生き方・行動、そして自分自身を第六天魔王と称していた事が分かってきたような気がします。
つづく。