諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

伊逹政宗と織田信長はメル友?? そして第六天魔王とは・・・。 その1

2013年02月26日 10時42分36秒 | 第六天魔王

えー、上のタイトル、掴みはOKだったでしょうか。

 

当たり前ですけど、政宗と信長はメールではなく、文通していたって事なんですよね。

この話、随分、昔に読んだ本に書かれていたのですが、どんな内容だったのかチョット思い出せません。

ただ、政宗は信長を父のように、はたまた兄のように慕っていたのは確かだったと記憶しています。勿論、信長も政宗を可愛がっていたようです。


信長は1534年生まれで、1582年に没。政宗は1567年生まれで1636年に亡くなっていますので、政宗が15歳の頃に信長が討たれた訳です。

当然、文通期間は政宗が15歳の頃までと言うことになります。多分、実際に会ったことは無いはずです。


まあ、歴史通の人はご存知だと思いますが、この二人、大変、境遇が似ているんですよね。

信長の父・信秀、政宗の父・輝宗とも短命でしたし(輝宗の死の一因は政宗ですが・・・)、双方とも弟を殺していますし(信長の弟は信勝、政宗の弟は小次郎)、またまた、双方とも母親には愛されてなかった様ですし、家も最初は一枚岩ではなかった等々、結構、共通点があります。


実際、文通は政宗の父・輝宗と信長から始まった様ですが、

「政宗 信長様、母上も家来も私の目を(天然痘で片目になった)、ゲゲゲの鬼太郎みたいでキモイ、キモイっていうんですよー」。

「信長 気の毒よのう、政宗。わしも子供の頃は、うつけ、うつけと家来たちにも影口叩かれ、辛かったぞう」。

「政宗 母上も家来たちも弟の小次郎ばかり贔屓にして、僕の事は蔑ろにするんですよぉー」。

「信長 わしが若い頃も弟の信秀の方が優秀だと言われ、馬鹿にされたもんだ。そのせいで弟を殺さなくてはならなくなった」。

「政宗 可哀想な信長様。うぇーん」。


ってなこと、手紙に書かれていたかも知れませんが、どうも政宗は信長を手本にして生きてきた節が見れると思います。

激しい性格も、海外に目を向けた思想も信長とよく似ています。

何度も徳川幕府を挑発する事件を起こしているし、天下を取る機会も最後まで諦めませんでした。

その振る舞いは、信長の後継者其の物です。

 

どうして政宗と信長、伊達家と織田家が親密だったのか、同じ思想だったのか気になりました。何か理由があるのではないかと。

 

そして見つけましたよ共通点を・・・・・・。

何と織田、伊逹両家の血筋はナガスネ彦に繋がります。

これには驚きました。そしてチョットだけですが、信長の生き方・行動、そして自分自身を第六天魔王と称していた事が分かってきたような気がします。

 

つづく。

 

 




 

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狐の化かし(妖術)を物理的に説明すると・・・・。

2013年02月25日 07時57分10秒 | 動物

えー、永井平九郎シリーズはまだまだ続くのですが、中々、思い出し、思い出し、確認、確認で書くのか大変なので、箸休め的に狐の化かしと言うか、妖術について物理的に解明したいと思います。

 

さてさて、私の母親の話で恐縮ですが、昔は狐に化かされたとか、タヌキに化かされたとか、色々不思議な事があったと申しております。

実際、私の母の姉二人は、蛇の祟りにあったそうで、神社の神主に祈祷をお願いして祟りを鎮めたと言う事でした。

 

それと蛇だけでなく、鶏も祟るらしいです。

私の編集者時代のフリーライターの話によると、そのフリーライターの実家は鳥取県で養鶏場を営んでいたそうですが、隣の家の若いお嫁さんが突然、「コケッ、コケッ、コッコッコッコッ、コケコッコー、コケェー」と騒ぎ始め、手を羽の様にばたつかせ、首を前後に振り振り歩き出したとの事です。


まぁ、今で言うと病名は精神病なんでしょうね。

隣に養鶏場があって、何時も何時も「コケ、コケ、コケ」と五月蝿く、夜明けと共に「コケコッコー」と大合唱されたら、精神にも異常をきたすってもんです。


実際、その若いお嫁さん、精神病院に入れられたそうですが、治らなかったそうです。大変お気の毒な話です。人生、これからだって言うのに・・・・・・・・・・・。


まあ、そう言う事(どう言う事?)で、狐の化かし(妖術)の解明です。


まず、よくある狐に化かされた話として、「小判を得たと思い、目を覚ましたら葉っぱだった」と言う話があります。

これって、人間が狐に失神させられたと言う事になりますね。

実際、狐は人様の気を失わせる事が出来るのかと言うと、出来る可能性が十分あるそうです。


実は狐の最大の武器は尻尾です。

考えてみて下さい。何故、あんなに狐の尻尾は大きいのでしょうか。

犬だったら自分の感情を表したり、走る為のバランスを取るために尻尾を使っていますが、自分の体並みに大きな尻尾は必要ありません。猫だってそうです。


狐の場合、あの大きな尻尾はスタンガンの役目を果たしているんです。

つまり、あの大きな尻尾は静電気を蓄得るが為に大きい訳で、獲物の小動物に尻尾を当て、静電気で「ビビビッ」っとやる訳です。

まあ、静電気でビビッときたネズミやウサギは体を硬直しますね。そこを「ガブッ」ってやるのが狐のハンティング方法です。

そう考えると狐の次に尻尾が大きい狸も、同様のハンティング方法だと言えます。狸も静電気を扱うが故に、化かすと思われていると説明ができます。

気の毒なことに、尻尾がフワフワで心地いい為、襟巻きにされたりしていますがね。


さて、狐の静電気の力ですが、人間でも気を失う可能性は十分あるそうです。

そうでなくても昔の人は電気なんて知らなかったでしょうから、ビビビッっとやられたら狐に対し恐怖し、神秘的なものを感じると思います。


そうなると狐火も解明出来ますね。あれも静電気の仕業です。

チョット薄暗くなって、霧雨が降っていたり、湿気が強い天気になると、狐は青白く光って見えます。静電気が放電し光って見えるのです。それが狐火です。

それを見たら昔の人は、狐は神様の使いであると思うのも無理はありません。


っと、まあ、狐の化かし・妖術について、物理的に語りましたが、狐の化かしが全て迷信なのかと言うと、全部は説明出来ません。


私は何か霊的なものが働いて、それが狐の静電気と同様に考えられた可能性があると考えています。

実際、幽霊はハッキリ、クッキリ存在します。それをどう説明したらいいのか私には分かりませんが、幽霊を確認した私には、全てを否定することは出来ません。


まあ、信じる信じないは、自分次第なんですけどね。


ではでは。



 

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永井平九郎の長兄は酒呑童子?!、土蜘蛛?! 【平良門伝説】 番外・善知鳥安方篇

2013年02月24日 03時18分52秒 | 永井平九郎

善知鳥(ウトウ)中納言安方の続きです。

話はタイトルから著しく逸脱しちゃってますが、鬼渡神はニワトリとも読めますんで、鳥と付くと、どうしても興味が湧いてしまうんですよねぇー。申し訳ないです。

 

さてさて、この善知鳥安方ですが、山海の悪鬼を成敗した後、現地のエミシ達に漁業や農作を教えた人物とされている一方、元々は安方悪智と言う名で、親子で流罪となり陸奥まで流されてきたのですが、深く深く反省して善智となり、外が浜なる地で神になったとも言われています。


まあ、どっちにしろ善知鳥安方によって開かれた土地は善知鳥村と呼ばれるようになり、今の青森市になったとさ、っと言う事です。


処で善知鳥って何なのかと言うと、海鳥なんですよね。良くは知りませんがウミスズメ科らしいです。

写真でチラッと見たのですが、何か鵲とカラスを足して二で割ったような鳥ですね。一見、ちょっと色の入ったカラスにしか見えません。


アイヌ語で「ウトウ」は「沼のある場所」の意味になりますが、「善知鳥」を直訳すると・・・・、

[善]・・・徳の究極、すなわち神の意思に叶うこと

[知]・・・神を祀ることによって、神より与えられるもの

[鳥]・・・予知能力を持ち、天空の神々と地上の世界を結ぶ神の使わしめ

っと言う事で、三つ合わせて「ウトウは天空の神々より与えられた神意を、地上の世界に使わし、人々を善へと導く聖なるものと考え、神使の象徴として善知鳥の字を充てた」と言うことになっています。


これって大変不謹慎ではありますが、大和朝廷によるエミシ征伐の言い訳なんでしょうね。

こんなこと言うと罰が当たりそうで怖いのですが、東北人の私としましてはチョット受け入れたくない思いなんです。


さて、善知鳥村、つまり青森市の発祥の地に「善知鳥神社」が鎮座しています。

祭神は市杵嶋姫、多岐都姫、多紀理姫の宗像三女神。

配神は天照大御神、猿田彦神、宮姫神、海津美神となっています。


ここで何故、宗像三女神を祭っているのかですが、「善知鳥」は安方の後妻の「善知鳥の前」が生神になったから付けられた説もあり、そこから善知鳥の前=弁財天となり、宗像三女神が祀られるようになった気もします。


しかしながら、青森県は宗像三女神を祀る神社が多く、同じ青森県にある八戸三島神社もその一つですが、同神社の市杵嶋姫の説明文には、「市杵嶋姫は大変美しい女神なのですが、気の強い性格で、門番を任せられたりする」旨、書かれています。

 

門番となると私は東北故、アラハバキ神を思い起こします。

時の大和朝廷はエミシ征伐の前線基地である多賀城に、都から十一面観音を持ってきた話が伝わっており、その理由として十一面観音の力でエミシ達をやっつけてやろう的に以前は考えていました。。

しかし、今は不動尊、薬師如来同様、十一面観音をエミシの神、或いはエミシとして祀り、殺生の罪を許して貰うが為に祀っているのではと考えます。

そして宗像三女神も同様と考えます。つまり、アラハバキ神を市杵嶋姫に書き換えて大和側の神として祀っているのではないかと思うのです。

 

時代は変わって平将門公の時も、当時の関東はエミシの土地であり、将門公や長男の良門も朝廷に刃向かう敵は鬼であり、土蜘蛛とされ成敗された話が伝わったと考えます。

反面、後ろめたさからの怨霊・祟の恐怖に怯え、神・仏として祀っていると思います。


っと言う事で、この章は長々となりすぎて、もう、シドロモドロになってきましたので、この辺でお開きに致したいと思います。

 

ではでは。



 

 

 

 

 

 

 

 









 

 

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永井平九郎の長兄は酒呑童子?!、土蜘蛛?! 【平良門伝説】  その2

2013年02月19日 02時29分01秒 | 永井平九郎

えー、徳川家康関係の本を読んでいて、ここのお題、のびのびになっちゃいました。失礼しました。

さて、続きです。


今回は良門復讐篇となります。

さてさて、父親の将門公が打ち取られ、復讐に燃えた将門公の長男・良門は、奥州を立ち全国を回って武芸を磨き、同士を集め播州三国の奥に柵を構え、当時、西国第一の要塞と謳われた新田城を襲ったのですが、時の英雄・源頼光にあっさり負けちゃった訳です。

 

こんでは駄目だって事になり、再び兵力を整えるため何故か立山連峰の地獄谷まで行って伊賀寿太郎と出会います。

この伊賀寿太郎は、平将門公と時を同じくして朝廷に叛旗を翻した藤原純友の側近であり、軍師でした。

通称・活閻羅大王。つまり、現世の閻魔大王と称していた様です。

 

このお方のまた、良門同様、「恨み晴らさでおくべきか」と諸国を回り、兵力を蓄えていたところ、同じ志を持つ良門と出会い、源頼光を討つ事で意見が一致。良門の軍師に就任。

 

そして二人は、将門山ってところで決意を新たに旗揚げし、仲間と共に「えい、えい、おー」と雄叫びをあげ、再度、源頼光に再戦を挑んだのですが、源頼光が率いる四天王の一人、渡辺綱に良門が捕らえられました。

そして、父・将門公同様、野望と共に首を跳ねられ、復讐劇は幕を下ろした訳です。

めでたし、めでたし。

 

ってのはまるっきりのフィクションです。

この話、山東京伝の読本「善知鳥安方忠義伝」からの話です。

 

まあ、当時は反乱を起こした将門公、藤原純友はそれだけ恐れられていた訳で、もしこのお二人が手を組んでいたら、とんでもない事になっただろうって話で、その恐怖をもう一度と言う事で、平良門・伊賀寿太郎が組んだ話を作ったと思われます。

この話、勿論、当時ではなく、江戸時代に作られた話なんですけどね。

 

ここでやっとお題の「酒呑童子、土蜘蛛」についてです。

前回、平将門公が額、または片目を打ち抜かれて死亡した話をしまして、それが俵藤太のムカデ退治のモデルとなったのでは・・・・・と言いました。

 

そして今回は酒呑童子を討ち、土蜘蛛を退治した源頼光に平良門が討たれた訳ですから、もしかしたら酒呑童子や土蜘蛛のモデルは平良門だったのではないかと考えた次第です。

大した根拠がなくでスイマセン。

 

ところで「善知鳥安方忠義伝」の「善知鳥安方」って、何なのか気になって調べてみました。

どうも「善知鳥中納言安方」とは、時の征夷大将軍だった様で、陸奥の方まで出向いてきて夷人山海の悪鬼を誅伐平定した人物のようです。

まあ、この悪鬼は朝廷に対抗した荒エミシでしょうから、坂上田村麻呂の先輩なんだと思います。

 

つづく。

 

 

 

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永井平九郎の長兄は酒呑童子?!、土蜘蛛?! 【平良門伝説】 番外編・妙見信仰を掴みだけ語ってみました。

2013年02月10日 04時12分03秒 | 永井平九郎

さて、今度は討ち取られた平良門の話ですが、その前にチョットだけ平将門公一族が信仰していた妙見信仰を語っておきます。

 

またまた家紋の話からですが、平将門公一族の家紋は「九曜紋」です。九曜紋こそが妙見信仰の証です。

この九曜紋ですが、「チョットだけ白山・・・・」でも九曜紋について話しましたが、北斗七星は実際は八つの星があり、真ん中は太陽。太陽と北斗七星を括りつけたからククリヒメ。つまり菊理姫になると書きました。

 

でも、妙見信仰の九曜紋は、周りが北斗七星とアルゴルとされる輔星。そして真ん中が太陽ではなく北極星となります。

何でも輔星が次期北極星候補の星と言う事です。

 

他には月、火星、水星、木星、金星、土星、太陽に加え、「計都、羅ごう」の2つの星を加えた9星が九曜紋と言う話もあります。

これはどうも仏教・ヒンズー教の流れから来ている様です。実際、「計都・羅ごう」なる星は存在しませんが、この二つの星は、日蝕を引き起こす凶星と考えられている様です。

 

妙見信仰を示す家紋、もしくは神紋には、九曜紋の他に七曜、八曜、十曜紋や、一対の月星紋、九曜紋でも真ん中が三日月の月星紋、そしてオリオン星を表す「三つ星に一」の渡辺星紋なんてのがあります。

 

実は私の家の家紋も「一に三つ星」の家紋です。

長州藩と言うか、毛利氏と同じですね。まあ、鎌倉の大江氏の流れです。

簡単に言うと、大江氏に養子に入る形で「一に三つ星」に変わったようです。本来は「黒餅に鉄線(花)」の家紋でした。

 

さて「一に三つ星」の家紋ですが、、本名は忘れましたが、桓武天皇の流れの一品天皇の落胤の家系で有る事から、どうも「一品」が「一に三つ星」になったようです。

「オリオン三つ星」の家紋とは言われていますが、本当かどうかは定かではないです(残念)。

 

さて、詰まらない話をしてしまいました。妙見信仰に戻ります。

妙見様と言ったら「天之御中主」ですね。ある意味、神道の最高神です。北斗七星の神です。

これは案外、知られてはいませんが、徳川家康を祀る「日光東照宮」も、実は頂点に天之御中主を祭っています。

 

だったら北極星の神はどなた様でしょうか・・・・・・。

九曜紋が北斗七星と北極星なら北極星も天之御中主と言って良いですが、北極星に限定すれば「太一」が挙げられます。

この「太一」・・・なんて神様を呼び捨てにして大変恐縮なのですが、北極星を神霊化した神様です(神とは付きませんが・・・)。

どうも中国・道教の流れの様で、道教では「天帝」と呼ばれ、宇宙を支配する最高神で、紫微宮って所に住んでいるようです。

 

さて、この太一様(祟りが怖いので様をつけます)、日本ではどこに居るのかと言うと、伊勢・志摩周辺のようです。

この地域の「お田植え祭り」の時や、神社の祭礼の時に「太一」と書かれた幟が掲げられるそうです。


そして、伊勢・志摩と言ったら「伊勢神宮」ですが、伊勢神宮でも20年に一度の御遷宮の際、御正殿建築の為の御神木を運ぶ「お木曳き」において、「太一」と書かれた木札をその御神木を付けているそうです。

まあ、伊勢神宮に太一様が関係しているのは間違いないようです。


だったら太一様は伊勢神宮に祀られている神様の中のどの神様なのか、気になりますね。

太一様は紫微宮に住んている訳ですが、「紫微」って色で言うと「薄紫」となります。

薄紫といえば藤の花。藤の花は「豊受大神」の花。つまり「太一様」=「豊受大神」になるのではないでしょうか。


更に更に、「平将門公」は「瀬織津姫」を信仰していた節があり、「太一様」と「瀬織津姫」の繋がりも「伊勢神宮」にて示されているのですが、この件はもっと練が必要ですので、今回はこの辺にしときます。。


ではでは。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

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