諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

会津に逃げて来た海人・アタ族。その1

2017年10月31日 16時52分31秒 | 神道
以前、瀬織津姫の著書で有名なY氏と西会津の奥川に行った時の話です。

渓流釣りに行ったのですが、仙台とは比較にならないくらい魚影が濃い。まるで釣り堀状態。ここまで簡単に釣れると渓流釣りの楽しさが落ちる。ちょっと複雑でした。

正直に言って山女魚・岩魚はヘラブナよりも単純。ヘラブナの繊細な釣りの方が私は好みです。

否、多分、あの時釣れた山女魚は放流されて直ぐだったのだろう。しばらくしたら天然魚に近い警戒感を身に付ける筈。じゃないと渓流釣りが楽しいと思う人は少ない。山女魚・岩魚も環境に適応して老獪さを身に着ける。そうじゃないと釣りは面白くない。山女魚・岩魚は一日釣り歩いて一匹釣りあげるのに醍醐味があると思いますね。

それはそうと西会津の奥川では、Y氏の知り合いのHさんのお宅に泊まりました。一応、私、仙台マコロンを土産に持って行ったのですが当然初対面です。でも大変歓迎されました。有難かったです。分かってはいましたが会津の人は人が良い。人情がある。会津人の人間性は癖が有るけど素晴らしいと思います。本当に。

私は福島県いわき市の生まれですが人情では断然会津が上です。正直、仙台人とは人種が違うのではないかと言う位、心の優しさが違います。

私もこの西会津の地が本当に気に入っちゃいました。年金が出るようになったら古民家を買って、ここで釣りをしながら暮らすのも有りかと思います。

ここなら私も生きられる。会津は私の理想郷。改めて好きになりました。会津は良いわ。でも冬は雪が深いだろうなぁー。灯油代も嵩むだろうし、冬場は都会の方が良いかな。浦安とか。

さて、Hさんのお宅での夕食は山菜の天ぷら、蕎麦、そして馬刺し。私は成程、会津はやはり海人族の血が色濃い。会津は海人族の楽園。だから人情深い人が多いのだと実感した次第です。

どうしてそう思ったでしようか。

先ずは蕎麦です。蕎麦と言えば岩手の南部蕎麦、信州蕎麦、出雲蕎麦、関東、そして会津蕎麦です。これらの地は縄文の文化が残っている。否、手長足長伝説と言った方がピンとくるかな。

私、思うのですが、古来、蕎麦は日本の主食の一つだった。その記憶が色濃く残っているから蕎麦の名産地として続いているのではないでしようか。

それと馬刺し。会津はお刺身と言えば馬刺しや鳥刺しなのです。これっ、不思議だと思いませんか。

普通、お刺身と言ったら鮪とか烏賊、蛸、ハマチ、ホタテ、赤貝、鳥貝等々、海の魚と言うか魚介類でしょ。それなのに馬とか鳥とか肉の刺身を出すって不思議です。

西会津の奥川って確かに山奥なんですが、クルマでスーパーくらい通えます。家庭でも冷蔵庫くらい有ります。それなのに馬刺し、鳥刺しを出す。刺身と言えば馬刺しと鳥刺し。ここに何か秘密が有る様に思えます。

西会津の奥川では山女魚・岩魚が釣れる。これは太古の昔からでしょう。でも渓流魚と言えども川魚は回虫が怖い。だから馬刺しと鳥刺し。でも動物や鳥を刺身で食べたいという欲望と風俗。これは何を意味するのか。

私、思うのですが、この地域の人々は生食の文化を持っていた。でも渓流魚でも川魚は生食に適さない。だから動物と鳥類で試してみた。生で食べるのが美味しい事を知っていたから。

それは元々は海で暮らしていた人々。それが何らかの理由が有って会津のこんな山奥まで来た。

会津は盆地で夏は暑く冬は寒い。特に冬はとんでもない雪が降る土地です。こんなとこに態々海に住んでいた人達が移り住んできた。何が目的だったのか。


続く。







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永井直勝の信仰。その2

2017年10月28日 09時07分55秒 | 永井直勝
続きます。


永井直勝は13~14歳の頃、祭りで太鼓を叩いて踊っていたら、当時17歳頃の徳川家康の長男・松平信康に召し抱えられる。見事な撥さばきと美少年ぶりで目に留まった模様。信康の小姓を務める。

その後、信康は武田側に内通していた理由により21歳で切腹。信康の側近は粛清。または殉死。直勝は地元の大浜に蟄居。その一年後に家康の小姓に迎えられる。理由は謎。

そして小牧長久手の戦い。永井直勝は敵将・池田恒興を討つ。左手の人差し指を落としながらも。

直勝は出家していた恒興を討った事に恐怖を覚え、屋敷の庭に池田恒興の首をご神体とした池田神社を建立。寝所には恒興の鎧を置いて家の守り神としています。

これが神道の一つの考え方です。自分が殺した者を神として迎える。祟られない為に。

直勝の家系が熊野神社の神職を務めていたのも、天穂日命の家系である出雲国造が出雲大社の神職を務めているのも祟りを恐れての事だと思います。

永井直勝はそれだけではありません。神奈川県に領地を賜り、その地の領主に直勝の弟・永井白元据えて、12社の鯖系の神社を一族で建立した。

その「鯖」とは何か。

1人は直勝の10代前の血筋である長田忠敬が卑怯にも風呂場で討った源氏の棟梁であり頼朝・義経の父である源義朝。源義朝は左馬頭であったことから佐馬神社。それが鯖神社となった。

そしてもう1人。出雲の地主神である者を示していると考えられる。それは幸姫。

神奈川県は足柄明神が鎮座する足柄山がある。足柄明神は金太郎を育てた山姥。その山姥が幸姫であるとしたら佐婆。つまり佐婆神社。

殆ど洒落になってしまうが、左馬頭の源義朝と合わせて幸姫を一緒に祀った可能性が高いと思われる。どちらも永井直勝の血筋が殺したと言えるので。

スピリチュアルな方たちは瀬織津姫を若く美しい女神と捉えている様です。でも瀬織津姫は奪衣婆のモデル。私は老婆のイメージです。つまり佐婆は瀬織津姫。

その証拠になるかは分かりませんが、瀬織津姫を祀る東京の日比谷神社は江戸時代に鯖稲荷と呼ばれていた。今回は鯖神について多くは語りませんが、「鯖=瀬織津姫」の一つの証明になると思います。


永井直勝に戻ります。永井直勝は晩年、もう一人の神を誕生させる。徳川家康を東照大権現として日光東照宮を造営する現場監督を務めたのです。

それは南光坊天海の天台宗と並んで直勝の神道の知識が用いられたからだと考えます。家康を薬師如来とし、妙見信仰を合わせて揺ぎ無い神として祀ったと思えるのです。

以上が私が考える永井直勝の信仰です。

でも本心では徳川家康を神として祀るのは反対だったと思います。直勝は神道に精通しています。英雄である家康を神として祀る事のうしろめたさを感じていたと思うのです。

東照大権現として祀ったのだから神仏として祀った。直勝の神道の考えと天海の仏教の教えとが合わさったと言えるのでしようが、複雑だったと思えます。家康は祟りを起こす存在ではないでしょうし。

しかし、戦を終わらせ平安な世の中を続かせるために家康を神にした。神道の徒であった直勝にとっては苦渋の決断。神道の徒として直勝は大罪を犯した。

永井直勝は幸運を掴み出世したと人は言いますが、とんでもない。苦難の人生だった。直勝は大名になった喜びよりも神道の考えを曲げてしまった罪。そして人を殺してしまった罪に慄いていたと思えてなりません。

以上です。実は最後に永井直勝の家訓で終わらせたいと思っていたのですが、ド忘れちゃいました。

思い出したらまた違うお題で書きたいと思います。すいません。


ではでは。







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永井直勝の信仰。その1

2017年10月27日 07時05分04秒 | 永井直勝
永井家宗家・永井直勝は代々藩主兼熊野神社の宮司の家系に生まれた。織田信長を初陣から7度退けたと言われる直勝の父、大浜藩主・長田重元もまた熊野神社の宮司をしていた。

織田信長は何度大浜をせめても完膚なまでに長田重元に敗れた。重元の留守を狙った事もあるが、それを察知した重元の策略でまた敗れた。その度に死者が出て大浜には成仏できぬ人魂が飛ぶ様になる。重元は敵味方関係なく遺体を供養した。それで人魂は消えた。

長田重元を信長は恨んでいただろう。人としても知略も重元の方が上。それを許す信長ではない。

月日は過ぎ、自分の娘婿である松平信康の小姓が長田重元の次男の直勝だった。もしかしたら信康の自害はそんなところも原因だったかも知れない。信長がナガスネ彦に繋がるのであれば、やはり敵対している血筋と言えよう。

長田重元と織田信長。死者を供養した重元と野晒しにした信長。この信仰心の違いがその後の双方の家系を左右した。永井直勝は良い父親に恵まれたと思う。

永井直勝の家系を遡ると天孫族である天穂日命へ繋がる。記紀では天穂日命は高天原から様子を見に出雲に降り立ったが、大国主と親交を持ち三年間も帰らなかった。それだけの存在とした。

しかし「出雲国造神賀詞」によると「地上の悪神を成敗する為に天照大神の命により降臨。子のアメノヒナドリと剣神・経津主と協力して地上を平定した」とあります。

ここで地上と言うと出雲を示していると思います。大国主と会っていたのですから。つまり出雲を征服したのは天穂日命。

天穂日命は天照大神の次男で素戔嗚尊とのウケヒにて産まれたとされています。記紀では素戔嗚尊とも関連が有る。それなのに出雲を征服した。

これは天穂日命は天照大神の次男とされているが実際は違う。素戔嗚尊も父親ではない。出雲を征服し、自分の家系を天照大神や素戔嗚尊に繋がるとでっち上げた。その方が支配しやすい。その関係でこの物語が創りだされたと考えます。

そうなると恐ろしいのは出雲の神々の祟り。嘘ででっち上げた罪悪感がある。祟られたくないから出雲の神々を祀る。

出雲大社を造営したのも天穂日命の血筋。出雲大社の出雲国造は天穂日命の家系の者がなる。出雲大社の宮司の千家・北島家も天穂日の子孫。祟りを永遠に封じる為に出雲の神々を祀り続ける。

数年前に天皇家の高円宮典子さんと出雲大社の宮司である千家の者が結婚したが、それは初代天皇である神武天皇が存在するのであれば、天穂日命が考えられるから。

天皇家も系列はあるかも知れないが天穂日命に繋がる。天皇家と出雲国造は同族。だから出雲国造の千家と婚姻したと考えます。もしかしたら共に出雲の神々の祟りを鎮める為に。

熊野神社に素戔嗚尊が祀られている。そして熊野権現は瀬織津姫と考えられている。

瀬織津姫は大和朝廷が発している名前であるが、元々は素戔嗚尊の前から出雲を支配していた者の一族、もしくは神と考えられる。つまり瀬織津姫はスサノオ尊に敗れた。

日本では古来から敗れた側の女王は征服者の妻になる。政略結婚である。その方が征服した地を統治しやすい。武田信玄が諏訪姫を側室にしたのもその為。

素戔嗚尊が戦った??相手、もしくは殺した相手は八岐大蛇、高天原の斑馬と機織の神である稚日女命。そしてウケヒで勝負した天照大神。この神々は素戔嗚尊よりも先にいた神々であるのは間違いない。つまり地主神。出雲の地主神である可能性がある。

そして出雲は素戔嗚尊が支配した。そして大国主にも繋がる可能性がある。そこに天穂日命が出雲に戦いを挑み出雲を平定。新たな支配者となった。

つまり素戔嗚尊までの出雲の神々を祀っているのか熊野神社。だからこそ天穂日命の家系であり出雲国造にも繋がる永井直勝の家系は、熊野神社の神職となり出雲の神々を祀り続けていたのではないでしょうか。祟りを恐れて。祟りとしか言えない不遇を認識して。


続く。



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2017衆議院選挙終了したけど、豊田真由子議員は自分が当選出来ると思っていたのだろうか!?

2017年10月24日 14時48分47秒 | 政治・経済
選挙、終わりましたね。まぁ、大方の予想通りの結果だったと思います。

正直、「希望の党」に乗り換えた自分ファーストの人たちの本心を見せつけられ、大変ゲンナリしちゃいました。北朝鮮や中国との問題もありますから、自民党に入れるしかないなぁーと皆さん思ったのでしょうかね。

実は私、自民党は単独で300前後、公明党は25前後と考えていたのですが、予想より伸びなかった。男を見せた枝野幸男の「立憲民主党」に取られた感じでしょうか。

浮かれた勘違いの女王様が率いる「希望の党」の議席はその程度だろうと思います。調子に乗ってえばり始めたのか彼女の敗因ですね。

そう言えば21日の午後8時15分頃に某新興宗教系の政党から電話があり、「比例区は是非とも〇〇の党に入れてくれ」と言われましたが、選挙活動って8時過ぎまでやって良いんでしょうか。

政治と宗教は一緒にすべきでない。そう考えている私はハイハイと返事はしましたが、一生この党には投票しません。

それより、この政党は議席取った事が有るのでしょうか。多分、無いのでは。

まぁー、今後とも無理だと思います。教祖の霊感に頼りにしていたら日本はお終い。信者もそろそろ結果と現実を直視してもらいたいものです。教祖の私生活を見れば分かると思いますので。

さて、上から目線でこんな事申し上げている私ですが、再三悩んで選挙には行きませんでした。理由は私の街の選挙区に入れたい政党が無かったからです。

立候補者は自民党と無所属の男女二人。どちらも私と同年代。そして同じ大学卒。同じキャンパスを同じ時代に歩いていた。どっちに入れようか。

自民党が強くなると消費税10%決定で景気が冷え込む。無所属の女性候補は元・民進党。「希望の党」から出なかったのは中々冴えているが、どっちつかずでは政治は無理。

結果、無所属の女性候補は僅差で敗れたが、「立憲民主党」から出ていたら当選していた可能性がある。私も選挙に行っただろうし。

勿体無い事をした。人の気持ちを考えれば答えは出たと思う。チョット政治家としては目鼻が立たない方ですね。

それにしても「立憲民主党」が野党第一政党なったのには驚いた。それ以上に党首の枝野さんが私と同じ年になのにはもっと驚いた。正確には私より一学年下。老けてるぅー。63歳くらいだと思っていた。大した貫禄だ。

あっ、そうそう、豊田真由子さん、落選しましたね。落選して凄い顔して泣いておりました。何で。絶対落選でしょ。当選すると思っていて、まさかの落選だったから泣いたのか。

嘘だろぉー。そんな事も判らないのか。泣いて同情を引くために泣いたのか。次の選挙に繋がる様に泣いたのか。うーん、分からない、この人は。

あれだけ狂った口調で秘書を罵倒して「あの時一回だけ」と誰が信じるだろうか。この人も自分大事で自分の事しか考えていないのがアリアリと分かる。有権者を馬鹿にしている。

私、知能指数の高い人には憧れるが、あの人は勉強が出来る馬鹿だと思う。人の気持ちが分かっていれば、自分の手足になって働いている秘書にあんな罵倒は出来ない。本性を曝け出してあれだけの暴言を吐いたのが露見したのだから選挙に出ても絶対落ちる。あれだけのインパクトを与えたのだから、政治家はまず一生無理。その位分かるでしょうが。

議員としてよりも人としてダメ。この人の為にどれだけ多くの秘書が苦悩して辞めて行ったのか。人生を惑わせたのか。

あれだけの暴言を吐かれたら自殺する人もいる筈です。あの罵倒は人を殺す凶器になりかねない。ヤクザと同じ。

この人は議員になって人を苦しめた。それだけで議員の資格は無い。もう政界からは引退して欲しい。

でも、次の仕事を探すのは苦労しそうだ。東大とハーバード大を出たのが無駄になった。自分のせいなのにまだ人のせいにしていた。本音では反省なんかしておらず、チクった秘書に対して今も怒り狂っているのがアリアリと分かる。もう政治家は無理でしよう。

でも、頭が良いのだし知名度も高まったのだから芸能界でやっていけそう。

例えばワァーン、ワンワンワァーンと泣いていた「ワン西宮」の野々村竜太郎元県議と漫才をしたらどうだろう。天下を取れそうだぞ。絶対面白しいし。

彼らは政治よりも人を笑わせて生きた方が世の中の為になると思う。そっちの方の素質は十分だ。やれば良いのに。

それなら私も応援します。考えただけでも笑える。漫才やってくれないかなぁー(笑)。


ではでは。



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神道とキリスト教の違い。瀬織津姫とマグダラのマリアの違い。

2017年10月22日 12時57分52秒 | 瀬織津姫
前にも書きましたが、私のブログへ「瀬織津姫 マグダラのマリア」で検索して辿り着いている方がまだまだ多いようです。有名なY氏の瀬織津姫の著書を読んで来ているのかもなぁーとも思います。

以前、私は「瀬織津姫はマグダラのマリアではなく、イエス・キリストなのでは」と題して記事を書きましたが、これは熊野権現である五衰殿のストーリーが余りにもイエス・キリストと似ているからです(詳しくは私の過去の記事を読んでください)。

瀬織津姫と考えられる熊野権現は、日本の神道とインドの仏教が交じり合っています。いわゆる神仏習合です。

私、仏教にはキリスト教のエッセンスが入って日本に伝来したと考えていますが、イエス・キリストやマグダラのマリアが神道の瀬織津姫だとはこれっぼっちも思っていません。

第一、キリスト教では蛇は悪魔。日本の地主神は蛇。瀬織津姫を祀る速川神社では蛇を瀬織津姫の眷属としている。

自然信仰である神道では山神や水神は蛇神。蛇神でもある瀬織津姫がイエス・キリストやマグダラのマリアで有る訳がない。

キリスト教で考えれば蛇神の瀬織津姫は悪魔そのもの。瀬織津姫がマグダラのマリアであるなら、マグダラのマリアは悪魔となります。

この位の事は神道やキリスト教について多少の知識が有るなら単純且つ簡潔な常識。疑問にも感じないと思います。

私、中学から大学までプロテスタントの学校に通いキリスト教に付いても好きで学んでいましたが、キリスト教は「神>人間>自然」の考えです。「自然=神>人間」の考えである神道とは根本から違います。

キリスト教で考えれば神道の女神である瀬織津姫は人間以下の存在になってしまう。これは日本では有り得ない。

しかしです。タブーを申し上げるとイエス・キリストとマグダラのマリアにはモデルが存在します。

そのモデルはエルサレムの地下に眠る医療神・アスクレピオス。ギリシャ神話のアドニスとアフロディーテ。そしてウガリット神話のバールとその妹であり妻でもあるアナト。多くのキリスト教研究者はこの結論に達してしまいます。私もそう考えています。

この点で神道と共通するのは「死んだのに生き返った、復活した奇跡」でしよう。

大国主が兄達に騙され猪によって殺された。ギリシャ神話のアドニスも猪によって殺された。バールも弟に殺された。イエスも十字架で処刑された。しかしながら母や愛する女性達によって復活している。アスクレピオスの場合は外科手術で死者をも生き返す。

だからスピリチュアルな人たちはキリストと大国主は同じ。瀬織津姫はマグダラのマリアだと安易に考えるのかも知れません。

ここで冷静に考えてみてください。人が一番望んでいる奇跡は死んだ者が蘇る事です。これは人間なら全世界の人間誰しもだと言える。人類共通の願いです。

そして復活にはもう一つの意味がある。それは穀物です。上記の神々は穀物神でもあるのです。

例えば大国主。大国主は大黒様であると言われてますが、大黒様は米俵の上に立っている。イエスキリストの場合は、「このパンは自分の肉、ワインは自分の血だ」と弟子たちに語っている。

死んで生き返るのは穀物の特徴。その考えはキリスト教にも神道にも流れている。

ユダヤ教の旧約聖書で「カインとアベル」の二人の双子の兄弟の話があります。共にアダムとイブの子供です。

カインはヘブライ語で「鍛冶」、アベルは「息」の意味です。カインは農業、アベルは羊の放牧で暮らしていました。

そしてカインは農作物、アベルは初子の羊の子供を絶対神ヤハウェに捧げた。

ヤハウェはカインの農作物には目をくれず、アベルが捧げた羊を大変喜んだ。

それでカインはアベルに嫉妬してアベルを殺害。

カインはアベルの行方をヤハウェに問い詰められても白を切り通した。人類初の嘘を神についた。その罪でエデンの東の地・ノドに追放され、アベルは流離の罪を受けた。

これは旧約聖書のヤハウェは狩猟神の性格、新約聖書のイエスキリストは農耕神の性格が感じられます。

死んで生き返るのは農耕を意味します。農作物は収穫で死んでもまた蘇るので。

カインが「鍛冶」の意味なのは鍬で耕して何度でも農作物を作るから。アベルが「息」の意味なのは、息する獲物は殺したらお終いの意味もある。

旧約聖書は縄文文化、新約聖書は弥生文化の様な違いが有ります。シンクロニシティ的に世界中で狩猟から農耕へシフトした。人口が増えれば狩猟のみでは生きていけない。それは全国共通。だからキリスト教と神道は同じとはなりません。人口が増えれば農作物を作らなければ人間は生きて行けませんので。

農作物を食べた事が有るなら穀物の有難みを誰だって感じる。穀物を与えてくれる神の存在を意識する。それが世界中で信仰として発生した。

西洋ではキリスト教、日本では神道。それは奇跡ではありません。何度も言いますがね人口が増えたら農耕にシフトしなければ暮らしていけない。世界中がそうです。それだけの話です。

話を戻しますが、キリスト教から見れば異教徒の神々は悪魔です。極論、皮肉な事に悪魔をモデルにイエスやマグダラのマリアが創造された。

それなのに異教の神々は悪魔とした。悪魔は倒すべき存在。それがキリスト教の絶対的な戒律です。

そしてその戒律が理由で、キリスト教は2~3世紀にローマのコンチタンティヌス帝に宗教として選ばれて信仰される様になった。

コンチタンティヌス帝にキリスト教が選ばれた理由は、権力の維持、民衆の抑制と規制。そして統治するのに都合が良いから。厳しい戒律がそれを容易にする。戦争も正当化出来る。全てにおいて都合が良い。

イエスの最大のライバルであった医療神・アスクレピオスは杖をついており、大蛇を身体に巻き付かせています。だから杖に蛇がとぐろを巻いているマークがアスクレビオスの象徴となっている。つまりアスクレピオスは蛇神であり悪魔。

その悪魔であり医療神であるアスクレビオスに、心霊治癒の神であるイエス・キリストが人気で勝った。正式にはコンチタンティヌス帝に選ばれた。

医療の神では奇跡の力は弱い。病気ではない者の信仰は集められない。心霊的に治癒させるイエスの方が分かりやすく信仰を集められる。

更に聖書において著者の気持ちで考えると、初期に書かれたマルコによる福音書から二十数年後に書かれたマタイ、ルカ、ヨハネの福音書を見ると、イエス・キリストへのデコレーションが数多く見られる。美化と矛盾ばかが目立つ。それで本当にイエスが存在していたのか疑問を感じる。

キリスト教を学問として学ぶとキリスト教から離れると言われていますが、結果的にキリスト教は戦争兵器としても利用されている。人を殺す理由付けにされる。

以上の理由からはっきりとした主張があるキリスト教と曖昧な解釈である神道は違う。

瀬織津姫はマグダラのマリアの訳が無いと私は断言しているのですが、キリスト教と神道は同じ考え方の宗教であるのは認めています。イエス・キリストも神道の神々も人間の罪を背負う存在。受代苦ですので。

違う点はイエス・キリストは無実なのに罪を背負わされるのに対し、神道の神々は実際に罪を犯したり、罪の疑いが濃厚で罪を背負っている点です。

例えば素戔嗚尊。高天原の田圃を破壊し、宮殿でウンコをし、斑馬を残酷にも尻から皮を剥いで殺し、機織の女神である稚日女尊に投げつけて自殺に追い込んでいる。この罪により爪を剥がれ髭を抜かれ高天原を追放され、流離の苦しみを体験した。

これは人間がしでかすであろう罪を素戔嗚尊が実行し、その罰を素戔嗚尊が直接受ける。人間に代わって罪を犯して罰を受ける。人間に対し罪と罰を身を持って教えている。

それ故に神道の神々は善でもあり悪でもある。それは人間が善と悪の部分があるから。人は生きる為に罪を犯す存在であるから。

その罪を素戔嗚尊や神道の神々に背負ってもらう。だからこそ神道の神々は有難い存在なのだと言えます。

言っている事、分かりますかね。まっ、キリスト教と神道は似ている。それは確かだと言う事です。

だからと言って全く同じじゃないですよ。瀬織津姫や素戔嗚尊はマグダラのマリアでもイエス・キリストでもありません。特に瀬織津姫は日本出身の神ですので。

自然は人間より下。蛇は悪魔と考えるキリスト教。それとは全く逆に「自然=蛇」そして神と考える日本の神道。この違いが根本にある以上、全く違う宗教であると断言できます。これを覆す考えは有り得ないです。

っと言う事で私は自然や神道の神々に対し恐れおののく気持ちもありつつ、深い感謝を感じています。怖いし有難い。それが日本の神々の特徴です。

長々と書いていて新たな情報を入れたりで、文章がシドロモドロになってしまいました。タイトルとも逸脱している。もうこの辺にしときます。

一つ言いたいのは奇跡の大半には原因がある事。人間は人種が違えど空腹にもなるし、心細くもなる。怒りも感じる。大して違いはないのです。

何でも奇跡と考えて自分が正しいと思い込み、人を攻撃する愚行だけは犯して欲しく無い。昔の戦争を引き起こした人間の様に。

その人間こそが神の名を語る悪魔だと思いますので。


ではでは。















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