希望をなくした正義は暴走しやすい。
数十年、警察の捜査を逃れていた過激派の残党の一人、桐島聡が先日死亡した。偽名で生きてきたが、最後は本名で死にたいとの覚悟の告白であったようだ。
いったい、どのような気持ちで40年近い逃亡生活を送っていたのだろうか。事件の真相を明かすことなく、彼はこの世を去った。せめて手記でも残してあれば、多少は分かるかもしれない。でも可能性は非常に低いと思う。
また支援者はいなかったと云っているが、これも疑わしい。もし居ても、これまでの義理から隠し通すほうが自然だからだ。ただ私見ですが、多分ほとんどいなかったと予測しています。
彼らは遅れてきた武闘派でした。海外の日本連合赤軍と連帯するだけの覚悟もなく、ただ煮え切らぬ想いだけが動機となって企業テロに走った青年であったと思います。
70年安保闘争に敗れただけなら良かった。しかしその後のあさま山荘事件と連合赤軍のリンチ事件、中核派と革マル派の間で繰り広げられた内ゲバにより、左派の学生運動は急激に衰退した。
信じていた社会主義に基づく革命と平等な社会の実現は遠のいたと嘆く若者たちの絶望感は深かった。多くの若者たちは理想を失った後の空虚感に耐えきれず、髪を切り、スーツにネクタイを締めて企業戦士に転向した。
まだ夢を諦めきれない若者は、学生運動から労働組合に移ってストライキとサボタージュを繰り返して、消え細る情熱を燃やし続けた。マスコミや教職に就いて、次世代の社会主義の闘士を生み出そうと、新たな一歩を刻んだものたちもいた。
しかし、そんな現実に耐えきれずに革命の炎に再び点火しようと焦った若者たちが企業テロに走った。既に大衆の支援もなく、左派政党も眉を顰める破壊活動はすぐに摘発された。そのなかで最後まで逃げ切ったと云えるのが、今回見つかったとされる桐島聡であった。
希望を失い、絶望感からの衝動的な企業テロであったが、大衆から支持されることはなく、革命の炎が再び燃え盛ることはなかった。そんの冷酷な現実の中で、偽名を名乗り密かに生き延びてきた桐島は、何を思い、何を求めて屈辱の半生を過ごしたのだろうか。
私が政治活動に見切りをつけて身を引いた1970年代後半でさえ、既に忘れ去られた過去の人であった。彼は過去の過ちを直視できなかったのか。過ちから立ち直ることは出来なかったのだろうか。
おそらく本質的には善人なのだと思う。裏社会に潜ることもなく、貧困に甘んじながら残りの人生を送ってきたのだろう。ただ、彼には間違いを認める勇気はなく、過ちを反省する真摯さにも欠けていた。
隠れて逃げ惑うのではなく、自首して犯罪者からの更正を目指す生き方もあったはずだ。でも、それを選択することが出来ない気の弱い犯罪者。だからこそ惨めな人生で終わってしまったのだと思う。
でも・・・私は軽蔑はするけど嫌いではない。
過去を真摯に反省することなく、今も政治屋として、あるいはジャーナリストとして、はたまた教職として日本を卑下し、日本を貶めて自己満足に浸る面の皮の厚すぎる卑劣な奴らに比べれば、桐島は遥かに善人だと思うので。