ヌマンタの書斎

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本能寺の変427年目の真実 明智憲三郎

2024-03-22 09:37:52 | 

歴史の謎ときは面白い。

ただし、現実社会を俯瞰すれば、案外と歴史を動かした大事件は面白くもない真相であることが珍しくない。21世紀に入ってからだが、にわかに本能寺の変が歴史好きの間で話題に上がることが増えた。その一因となったのが表題の書である。

明智光秀の子孫を名乗る著者は、光秀の裏切りは背後に家康と秀吉の二人の策謀があったからこそだと新説を唱えたのです。現在では歴史の専門家の多くが、この新説に否定的となっていますが、当時はけっこう話題となりました。

一応確認しておくと、未だに本能寺の変の真相は明らかではなく、それゆえに新たな真相説が浮かび上がりはするものの、これが真実だとする証拠は一切ありません。表題の書に関して云えば、私は当初から疑っておりました。

家康の関して云えば、桶狭間の戦いの後、清州にて同盟が結ばれて30年近く互いに裏切ることなく、背中を守りあう形で戦国時代を生き抜いた二人です。信長はこの年下の同盟者を弟のように可愛がり、救援が間に合わずに家康が激怒した時なんぞ、数年分の財貨を持参して怒りを解くといった他に例のない厚遇をしています。

率直に言って、本能寺の変の頃の家康に信長を裏切るメリットは少なく、むしろ自身を危機に追いやる可能性のほうが高い。あの慎重な家康がそんなリスクを負うはずがないと思うのです。

一方、秀吉ですが結果からみれば一番怪しまれても致し方がないのは事実。なにせ最大のライバル光秀が信長、信忠親子を弑してくれたうえに、光秀本人を打ち破った功績をもって織田家の後見人の地位を得たからこそ、その後の天下人への道が拓けた。いわば本能寺の変の最大の受益者です。しかも信長の子供たちを皆排しての天下取り。晩年の残酷な所業を思えば怪しまれても仕方ない。

しかし、これもおかしい。農民の出で武芸にも疎く、強力な後見人もいない秀吉は出世を夢見たが、なかなか採用されずに苦労します。三河の土豪・松下氏に雇われるも、その有能ぶりを嫉妬され苛められたのを不憫に思った松下氏に路銀を持たされて解雇される。

この松下氏の恩を秀吉は忘れず、のちに5万石の大名に取り立てている。そんな秀吉にとって有能さを率直に評価してくれる信長の配下に就けたことがどれほど嬉しかったのかは想像に難くない。これは有能な上司に巡り合って引き立ててもらった経験のあるサラリーマンなら誰もが共感できるはず。秀吉こそ信長の信奉者と言ってよいはずです。実際、天下人になった秀吉は、信長がやろうとしていた政策を引き継ぎ、それを実行することこそ恩返しだと考えていたと思うのです。

ただ秀吉は天下人になってから人が変りました。一言で云えば、秀吉王朝の確立を目指した。そしてかつての部下たちを排し、子飼いの部下で周囲を固めようとした。あれほど仲の良かった弟・秀長を遠ざけ、蜂須賀小六を遠ざけ、黒田官兵衛の所領を九州に追いやった。ただ子飼いの部下たちでは軍師の役割は無理だったようで、官兵衛だけは手元に置いていました。石田三成に代表される子飼いの部下は内政向けの経済官僚でしたから今後の秀吉王朝の維持には役立っても、国内の武力制覇の役には向いていませんでしたから。

結果、福島正則や加藤清正、黒田長政ら武将たちは不満を抱えて秀吉の死後は、家康側に寝返ります。この時代の武将は家名に忠誠を誓うのではなく、優れた上司にこそ信を置くので、これは批難できない。ただ、家康人への離反は秀吉自身がもたらしたもの。いわば策に溺れたようなものです。

若い頃の秀吉は足軽から始めたように、戦場を駆け回る武人の一人でしたが、個としての武力には乏しく、むしろ周囲の人材を活用して勝利を得るタイプでした。それでも戦場で兵士たちと寝食を共にする武将の一人でした。でも天下人となってからは、次第に戦場から遠ざかり、その政治力を駆使して勝利の条件を整えて戦う武将への変化しています。

そのため卑怯な策略や残酷な命令を出すことも珍しくなく、天下人として恐れられる存在になります。だからこそ秀吉の死後、多くのかつての部下たちが家康の下へ走り、辛辣な意趣返しのような政略により大阪城を攻め落とされて豊臣家は滅亡します。ある意味、自業自得かもしれません。そしてだからこそ、秀吉は本能寺の変の裏のフィクサーとして疑われる羽目に陥ったのでしょう。

しかしながら天下人になる前の秀吉は、誰よりも信長を敬愛し、畏れ、かつ恩顧を強く感じていたと私は思います。もし長男の信忠が生存していたとしたら、彼が天下人になることはあり得なかったはず。信長と信忠の二人が死んだからこそ、秀吉は信長の偉業を完成させようと天下人になった。率直にいって信雄、信秀には後継者としての器はなかった。これは清須会議で話し合いの結果をみれば明白です。

柴田勝家も丹羽長秀も池田恒興も、信雄と信秀を後継者とはみなしておらず信忠の幼子を名目上の織田家の代表とするのに異論はなかったようです。ただその後見人の地位を秀吉にとられたのが彼らの敗因です。

なお秀吉が織田家から権力を奪ったのは、織田家に実力がなかったからであり、当時の武将たちはそれを卑怯だとは思わなかった。それが戦国時代の常識なのでしょう。そして秀吉は誰よりも忠実に信長のやろうとしたことを実現しようとしていた。この点、一つとっても秀吉が本能寺の変の裏のフィクサーであったと仮定するのは無理だと思う。

もし信長が生き延びていたのならば、秀吉は誰よりも忠実に率先して朝鮮にも大陸にも行ったはずです。そう考える私にとっては、表題の作品は興味深い内容ではありましたが、到底信の於けるものではありませんでした。

でも本能寺の変の真相は未だ歴史の闇の中。それだけが真実だと思います。

コメント (4)
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