不意の事故で植物人間と化してしまった母を諦めきれない息子は、ブラックジャックに頼み込んで、自分の脳と母の脳を電極でつなぐ手術に挑戦した。
その手術の最中に、意識の中で母と接触した息子は、母から現代の医学では治せないから、私のことは諦めてと云われる。
手術後、そのことを医師らに話すと、病院長らは無意識の願望だ、あり得ないと否定する。しかし、ベッドの上で息子は叫ぶ、「僕が医者になって、きっと母を治す!」。
その発言を背中で聞きながら、ブラックジャックは手術室を後にする。
この話は、ブラックジャックの単行本4巻に収録されていたはずだった。しかし、この物語は後年非難を浴びた。そのため、現在は他の話に差し替えられているため、読むことは出来ない幻の封印作品である。
非難を浴びた一つの原因は、植物人間と脳死の混同であろう。この作品が描かれた当時は、それほど明確にされていなかったと思う。それよりも、主たる原因だと思われるのが、いわゆるトボトミー手術を肯定的に描いたことだろう。
現在では禁忌とされるロボトミー手術だが、この作品では実験的に脳と脳とを電極でつなぐといった荒業をブラックジャックは使っている。人体実験の誹りを受けても致し方あるまい。
私は医療とは常に未完成のものであり、試行錯誤の繰り返しにより向上するものだと考えている。それでも人間の脳を安易に実験の対象とすることには、本能的な拒否感は確かにある。
実際、ロボトミー手術もある時代までは認められたものだったはずだ。しかし、既にこの作品が描かれた時代には否定的な意見がかなり出ていた。映画「カッコーの巣の下で」でジャック・ニコルソンが演じた主人公のあの姿に衝撃を受けた人は多いと思う。
医大出身ではあるが、手塚治虫は医療の現場にいたわけではなく、ロボトミー手術に関する知見が不足していたと云われても致し方あるまい。その結果、この作品は姿を消した。
私もこの作品は問題があると思う。でも、この作品を読んだ時、息子の決意表明の叫びに感動したことも確かだ。このような作品を封印することは、むしろ弊害のほうが大きいと思う。
人体実験や用語の誤りに註を入れるなどして、むしろ堂々と公開して人の命について考える題材にすべきではないだろうか。
現在、愛知で問題になった「表現の不自由展」なる馬鹿げたイベントが大阪でも問題になっているようだ。あれは単に日本を貶めたい一部の方々の暴走に過ぎないから無視するべきものだ。
しかし、本当に考えなくてはいけない表現の不自由とは、この作品のような物ではないだろうか。封印して問題化するのを回避したい出版社の営業的な意向は分からなくもない。
作品を封印することで、むしろ本当に考えなくてはいけないことから逃げていないか?私は脳死は人の死だと考えている。しかし、植物人間に関しては、未だ迷う。
身体を動かすなどの意思表示は出来なくても、脳の中で意識があれば、それは人間として生きていることになるのか。また、それを介護する側の大変な負担は考える必要はないのか。私は未だに確信が持てない。
私は表現の自由を大切なものだと思うけど、下種な「表現の不自由展」のような存在が、むしろ却って表現の自由を真剣に考える障害になるように思えて、非常に不愉快です。
どうも現場の大阪です。左の方々はえらく自慢気に展覧会について語っておられました。会場が公費を使った左のたまり場なので、使用できたのかなと思います。並んでまで集まるの人がいるのが頭が痛いです。
ちなみに、手塚治虫先生は医者にならないなら、博士号をあげると言われて、医学博士になったので、仕方ないと思うし、当時の状況なら仕方ないですよ。
某手術はノーベル賞を取ってるんだから、時代って浮「浮「...
その後でしょうね、ロボトミー手術が批判されるようになったのは。人間の脳に関する知識はまだ途上であり、今後医学の進歩によっては、再び改良されて手術が登場する可能性もあると思います。
その点からしても、この作品を封印したのは問題が多いと思います。