
峠の手前で伐採が始まり、クマさんの心配がなくなった
経ヶ岳の中腹から山頂付近はきょうも雪雲の中、ますます積雪量を増やしていることだろう。幸い、あの雪はここまでは来ない。列島は、まるで雪に埋もれてしまったかのような映像を連日目にするが、南(赤石)と中央(木曽)の二つの山脈に囲まれたここ伊那谷は、そのせいでか寒さは酷しくも雪は比較的少ない。
子供のころはそれが不満だったが、今となっては有難いと、テレビで除雪に苦労する人たちの様子を見ながら思う。
そんな子供時代であったが、標高は700㍍前後のため気温は低く、一度雪が降れば日陰や里山にはいつまでも雪が残り、橇滑りができた。近くの田圃では一日中氷が張っていたから、スケートもできた。
以前にも呟いたように、小学校の校庭にも立派なスケートリンクがあったが、ここは滑れる時間に制限があったから、滑り足りないと家に帰ってきてから田圃のリンクへも行った。
スケートは下駄スケートと言って、下駄にスケートの刃が付いていて、それを真田紐で固定するのが一般的だった。靴下でなく足袋を履いた。橇は自作した。
とにかく何もしないでいたら寒いのだ。家の中でもそうだった。風に乗って戸外で遊ぶ子供たちの声がすれば、家の中にいられなくなってその仲間に入れてもらった。「子供は風の子」などと言われ、身体を動かしていれば暖かくなるから、暗くなるまで外で遊ぶ毎日だった。
先日もそんな話をTDS君としていて、今の子供とわれわれの時代とを比べ、どちらを選ぶかという話になった。二人とも今でなく、自分の育った子供のころを選んだ。今よりかわれわれのころの方が、子供らしい遊びや楽しさがあったような気がするのだ。懐古趣味の誹りを受けるかも知れない。
もちろん、今の子供たちの方がいろいろな面で恵まれているだろう。われわれの小学生のころは、冬は教室内でも足踏みをしながら寒さに耐えた。着ている物も学生服の上に半纏(はんてん)を着る子供はいくらでもいたし、靴はゴムの短靴か長靴、穴の開いたものに藁を詰めて履いていたこともある。
都会の子供たちと田舎の子供たちとでは明らかに違いがあったし、たまに都会からの転校生があると、双方で張り合ってすぐには仲良くなれなかったものだ。
もうわれわれ後期高齢者が心配しても仕方ないが、このまま文明が進んでいった果てに、一体人類はどうなってしまうのだろうか。そんな大それたことを、手許の読みかけの本が問うている。
本日はこの辺で。