てれてれに酔っている。それでお風呂に入った。いよいよてれてれてれになっている。お風呂の中で寝てしまいそう。それを我慢して、長湯しないで、耐えた。いい気なもの。そんなに飲まなきゃいいのに。だらしがないんだから。
「春の大空」 薬王華蔵
春ツバメさん おはようございます
四月三日をわたしは生きています
春の大空も生きていますが
わたしもどっこい生きています
わたしが死にますと
春の大空もその場で死にます
此の世の万物はわたしの眼の中でしか
生きられないからです
わたしを愛している彼らは
わたしと心中を図ります
わたしはだから彼らを死なさぬよう
こころだけになったわたしの
その眼の中に彼らを匿っておきます
そうしますと死んでも
わたしがこころの目を開くだけで
彼らはたちどころによみがえれます
春の大空が広がっています
わたしはいまはそれを見ています
ブルーをミルクで溶かして
うっすら薄くしたような色合いです
*
この作品を西日本新聞読者文芸四月の詩部門に投稿をしていました。火曜日に発表されていて、これは佳作でした。名前とタイトルだけが載せてありました。載るのは1作品のみです。後は佳作になっています。わたしのは佳作の3番目でした。
わたしはわたしです。気張って書いても、問題意識の欠如した、ふらりふらりした、こんな作品しか書けません。
4
80歳の親が死ねば50歳の引き籠もりはすぐにも経済的に逼迫する。次に待つのは孤独死か。それを回避しようとして、80歳も50歳もどちらも焦りに焦る。解決が見えて来ない。救済策はないのだろうか。弱者に回った者は自滅する以外にはないのか。だとするとこの文明社会は、脆くはかなく無情で、大雪原のように冷たいところだ。外に働きに出ていけなくとも、地域社会で受け入れていくことはできるのではないか。そういう提言のような、ヒントのようなものが新聞に提起してあった。地域でも声掛けなどの接点があるのかもしれない。
3
この社会現象を、憶測するが、無論これは憶測に過ぎない。
「自分は優秀ではない」「優秀なみんなについていけない」などの自己蔑視は苦しい。わたしの場合は苦しかった。この水草に我が足が絡まって、ついには泳ぎを放棄してしまいたくなったことが幾度あっただろうか。劣等感、劣等意識。こいつに引きずり込まれることは、大なり小なり誰にもあることなんだろうが、一旦放棄すれば、もう水そのものも恐怖でしかあるまい。浮き袋をうまく使えなかったのか。
その対極にいる人たちもいるだろう。優秀性を発揮できた人たちもいるだろう。
2
今朝の西日本新聞には「8050」の引き籠もりの社会現象問題が一面トップと社会面に載っていた。80歳の親が50歳の引き籠もりの面倒を見ている実態があるという。その数は60万とも200万とも。平成が終わって、時代は「令和」に移行しようとしているが、この問題は未解決のままで、引き継がれて行く。どうして近年この傾向が顕著になっていったんだろうか。80歳を生きるのは苦しいだろう。50歳も苦しいだろう。
1
わたしは、ひょっとすると、老人性引き籠もり症候群なのかもしれない。人との関係性を断とう断とうとするところがある。庭や畑にまでは出て行く。そこで一人無言の一日を通している。人との交わりを嫌う。お喋りをも嫌う。出て行った旅先でもぽつんとしている。家内に後押しされて、高齢者参加型<趣味の大学>などへ行ってみるのだが、やはり交流を避ける。
7
わたしが此の世を生きたということも。捧げてそれで終わりになっています。すがすがしくなって行くばかりです。すがすがしいというのがいいのです。
捧げる者は奉仕者です。無執着の。捧げる相手もいません。ですから、有り難うのお礼の声も聞こえて来ません。それでもいいから、捧げて行く。それで奉仕者となる。それでダンマとなる。宇宙のハタラキのダンマとなる。
6
「捧げる」というのは、「報酬なし」「無功徳」ということです。捧げてそれで終わり。跡の執着を断っています。水が温められて水蒸気になって大空に上がって行くようなものです。
わたしは、捧げられて捧げられて来ました。ありったけを捧げられて来ました。わたしが捧げたものはあったでしょうか。皆無かもしれません。それでも、わたしには捧げられ尽くしています。時間も空間も、生も死も。人も。妻も。家族も。風景も。
5
さぶろう老人は、またぞろ「朝に聴くクラシック音楽」を聴いています。よぼよぼ老人には似合わない初々しい、上等上質な音楽を。この老人は上等でも上質でありません。それでも、聴く分には聴けるのです。音楽は、それでも、聴く者に捧げられています。有り難いことです。まもなく夜が明けてきます。夜明けも捧げられています。
今日の仕事、その1。朝顔の種蒔きをします。混合色大輪の。時間が余れば、久留米鶏頭の種も蒔いておきたくなるでしょう。
4
わざわざ、今日を最期の日としておかなくとも、いつでも今日は己の最期の日であります。見送ったら、乗っていた今日という電車は遠くへ行ってしまっていて、もう影すらも追えません。そこへすっと1番ホームに新しい電車が滑り込んで来ます。これが己の新しい今日の、電車です。人は何時でも、いつの日も旅をしています。電車の窓からの風景を楽しんでいます。愛おしい風景をそっとそっと愛おしんでいます。