<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

桜が咲いたのであれば 桜を眺めていよ 他事を為すなかれ その1

2019年04月01日 21時23分27秒 | Weblog

ひととせにふたたびも来ぬ春なればいとなくけふは花をこそ見れ     平兼盛 後拾遺和歌集

いとなく: 暇なく。忙殺されずに。他に何かをするということもなく、もっぱら。

平兼盛は三六歌仙の一人。

そうだよなあ。桜が咲いたのであれば、一日ずっとその桜を眺めていたらいいんだよなあ。他に何かをすることも有るまい。なにせ一年かかって今日やっと咲いているのだから。桜をこそ尊重してあげようじゃないか。桜の春が一年に二度来るものでもないのだし。ああ、他に何かをしないでも、今日の我が世を十分満喫できるじゃないか。桜守りを専らにす。

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飼っている鶏が弱ると韮を磨り潰して食べさせた

2019年04月01日 21時19分18秒 | Weblog

韮は、ユリ科ネギ属の多年草。葉は扁平。全体に独特の臭気がある。春になると葉がずっとやわらかくなる。夏に紫色がかった白い小花を着ける。原産地は東アジア一帯らしい。日本には中国から渡って来た。物の本にそうある。古来、精力剤として知られる。古名は<こみら>或いは「みら」。種類も幾つかありそうだが、わたしは知らない。小さい頃に、飼っている鶏が、体調不良になって弱ると、韮を磨り潰して食べさせた。すると鶏は元気を取り戻した。

 

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するとそこでまた新しい根拠を作って 威勢を張る

2019年04月01日 21時05分58秒 | Weblog

韮はプランターで栽培している。株を増やす。種が飛んで増える。有機牛糞の肥料を年に何度も施肥する。草を取って耕して、根株にも新鮮な空気を吸わせてあげる。籾殻を撒いてやる。ふんわり土寄せをしてやる。すると次第に葉っぱが幅広になる。そして20~30cmほども伸び上がって来る。ときどき植え替えをしてやるのもいいようだ。そして株分けをしてやる。するとそこでまた新しい根拠を作って威勢を張るようになる。

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手指の先がくんくん匂う 強い匂いだ

2019年04月01日 20時56分18秒 | Weblog

切って来た冬韮は、枯れた黄色い部分を切り落とす。こうして一葉ずつ丁寧に時間を掛けて揃える。丈夫な緑の濃いところだけにする。これを洗う。水を切る。手指がくんくん匂う。強い匂いだ。明朝の韮の味噌汁分を除いて、あとはビニール袋に包んで冷蔵庫で保存する。鶏肉と一緒に中華風に胡椒も加えて韮のスープを作ってもおいしい。わたしの母はよく卵で<ニラとじ料理>を作ってくれた。簡単にできる料理だが、これがおいしかった。

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韮は刺激が必要なようだ 放置しておくとだらしなくなる

2019年04月01日 17時41分02秒 | Weblog

夕方、風の吹く中で、寒い冬を越した韮(にら)を、庖丁でざっくりざっくり切って来た。根元すれすれのところから。両手で握れられないほども。こうしておくとまた次に新緑の芽が力強く伸びてくる。溌剌とした新芽が伸び上がって来てふさふさと太って来る。切れば切るほど韮は逞しさを増して来る。切らないで、放置しておくとだらしなくなる。だらりとなる。韮は、刺激が必要なようだ。こうすると生命力が旺盛になるようだ。

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詩でないものは 詩ではない

2019年04月01日 17時23分04秒 | Weblog

詩とは何か。そこに詩を感じるというのはどういうことか。なぜ散文ではなくて詩を書こうとするのか。なぜだ。意味の伝達だけだったら、詩にならない。これはなぜだ。あなたが好きだ、では詩になっていない。無言で走って行って、しかと抱きしめる方がはるかに詩的かもしれない。相手にエモーション電気が走ったら、それが詩。なら、文章にしなくてもいいはずだ。行為であらわせる。己にもエモーション電気が走る。そしてそれで生の確認が出来る。作者と読者の双方向に直電流の交流ができる、それが詩なのかもしれない。どんな定義だろうと、しかし、詩でないものは詩ではない。詩は新しい発見なのだ。我が生の内なる発見なのだ。人の内に生じたそれではない。己の内に生じたなまなましい「それ」なのだ。

 

 

 

 

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詩を感じない訳詩は、散文に過ぎない

2019年04月01日 17時17分54秒 | Weblog

僕は、四月、生きて、王維の詩を読んでいる。意味を読み取っただけで漢詩を読んだことになるだろうか。疑問だ。詩を感じない訳詩は、散文に過ぎない。

日本語の詩だったら、どういう詩になるのだろう。

書こうとしたが書けなかった。

 

 

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王維の詩を読む 故郷に残してきた最愛の人を思い遣る詩人 その2

2019年04月01日 17時16分03秒 | Weblog

もう寒梅は咲いただろうか。それを見ているだろうか。梅の木に飛んで来て啼いているウグイスの声を聞いているだろうか。そうかもしれない。いずれにしても、わたしがそこにいないのを悲しんでいるばかりなのではないか。春の草は伸びに伸びて、あなたの住んでいる部屋に続く階(きざはし)を覆うまでになってしまって、どうしたものかと案じているだろう。

大詩人王維の人間らしいこまやかな一面。情愛があふれているではないか。

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王維の詩 故郷に残してきた最愛の人を思い遣る詩人 その1

2019年04月01日 16時53分55秒 | Weblog

「雑詩 三首」其の三    王維

已見寒梅発 復聞啼鳥声 愁心視春草 畏向玉階生

已に寒梅の発くを見しや 復(ま)た、啼く鳥の声を聞きしや (きみは)愁いの心もて春の草を視(み)、玉階に向かって生ずるを畏るやらん

故郷に残してきた最愛の人を思う詩。そういうふうに読んでみた。

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わたし如きが大詩人王維の詩を読んでもよかったのだろうか

2019年04月01日 16時47分37秒 | Weblog

「雑詩三首 其の2」    王維

君自故郷来 応知故郷事 来日綺窓前 寒梅著花未

君は故郷自(よ)り来たれば、応(まさ)に故郷の事を知るべし。来日 綺窓の前、寒梅は花を著(つ)けしや未だしや。

あなたはわたしの故郷から来た旅人。だったらきっと故郷の事を見て来たことだろう。ちょいと尋ねるが、出発のその日、わたしの愛しい人の住む家の、その綺麗な窓の前にある寒梅は、どうだろう、花をつけていただろうか、まだだったろうか。(寒梅のように美しいあの人は、見かけなかったかね、どうだい。)

この愛しい人とは奥さんのことかな。限定しない方がゆったりした読みが出来そう。

わたし如き小人が、大詩人王維の詩を読んでもよかったのだろうか。大詩人だから、許してくれるだろう。読むなとは言わないだろう。

 

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