いきなりお腹が痛くなった。劇痛が走った。ぬぬぬぬ、ぬ。どうしよう。トイレに駆け込んだ。便座に座るやいなや下痢がほとばしり出た。これで痛みは止まった。すっきりした。巧く出来ているもんだ。侵入した毒を放出したのだろう。この仕組みは偉大である。腹というのは偉大な仕組みを持つ。お陰で、助かった。命の全体を毒にむしばまれることなくして済んだのだ。もう痛くない。お腹に手を当てて、その功労を讃え、ねぎらった。
時が来た。眠る時が来た。眠る。晩飯も食べた。おいしいおいしいで食べた。あつ湯の風呂にも入った。温まった。いい一日を過ごせた。優遇を受けた。昼からは東側の庭の草取りもした。文句のあろうはずはない。
だったら、一篇の詩を書け。
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「あなたさまの中のわたし」
おいのちさまおいのちさまおいのちさま/あなたに親しく「さま」をつけてお呼びします/こうしてお呼びすると/お呼びする度に/あなたへの親しさが/増し加わって来ます/わたしの中のあなたさまが/慕われてまいります/手に触れて撫で回して/抱いてみたくなります/ほんとうは/わたしは/あなたさまの中のわたしでありますが/それをいつも失念しているのでありました
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これでどうだ。
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詩になっているのか、しかし?
この老爺は優柔不断。立ち上がれない。行動すればいいのに、じっとしている。蹲(うずくま)っている。つまらない。外は風が吹いている。寒そうだ。これくらいの風でもう足止めを喰うとは情けない。ま、しかし、是非、何かをせねばならないということもないのだが。そういう言いがかりをつけて、ぼんやりぼんやりしている。もうすぐ2時だ。お昼は一人で、黙ってしそしそ食べた。洗ってお皿に載せてあった苺も啄んだ。ラジオから流れて来るラブソングの歌謡曲を聴きながら。
あの人からの誘いも来ない。来たって、乗らないだろうけど。この怠け者の、優柔不断の老爺はとことん面倒がり屋。つける薬がない。
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雲の上に聳える山、富士の嶺には、仙人が下りて来て遊んでいるらしい。山に奥の洞穴の、深い淵には神龍が棲んでいるらしい。頂上の白雪は扇の白絹のようで、立ち上る煙はその扇の柄になっている。その扇を逆さまにすると東海の天涯に突き刺さる。
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YouTubeは便利だ。帰って来てから、「石川丈山 詩吟 富士山」で検索すると、朗朗たる詩吟の声を耳にすることが出来た。ひたすら真似て真似て、なおなお真似ることにしよう。これからもう一度聞いてみる。そして小さくつけてみる。
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習う生徒は4人だけだった。四月から新しく我等の住む小集落の公民館で詩吟教室が始まった。
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第一回目の詩吟教室でお師匠さんにこれをお習いした。ただただ黙って聞いているのみだった。稽古の1時間全部、お師匠さんの高く張りのある、美しい声に聞き惚れていた。
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「富士山」 石川丈山
仙客(せんかく) 来たり遊ぶ 雲外の嶺(いただき) 神龍 棲み老ゆ 洞中の淵 雪はがん素の如く 煙は柄(え)の如し 白扇 倒(さかしま)に懸(かか)る 東海の天
とちゅう平仮名書きした「がん」は「糸偏に丸」の字。漢字変換が出来なかった。
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我が家も、わたしが死んだ後にはどうなることか。人も住まぬようになって多分草茫々と生えてしまうことだろう。そしてこの地を通りかかった人が、これを見て、「人は死ぬもの、家は荒れるものだ」などと溜息一つ洩らすかも知れぬ。それもしかし100年の先には灰燼と化して、溜息すらも聞かぬようになるだろう。1000年後にどうなっているのか、見当も付かない。
われもまた道の中半を行く旅人なり。彼も、さなり。道のみは続く。これを「よし」とやせん。
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わたしの移り住んだ新しい家は孟城の入り口にあって、古木が立ち並び痩せ衰えた柳の木が一本。豪邸とはとても言えぬ。わたしが此処で死に果ててしまうと、次の者が此処へ来ることになるが、知ったことか。だがその人もまた此処に住んでいた人間のことを憐れんで溜息をつくことだろうよ。
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そんなふうに読んでみた。 「孟城」は城跡なのだろう。題名の「坳(おう)」は低くなったところを指す。
1
「孟城坳 (もうじょうおう)」 王維
新家孟城口 古木余衰柳 来者復為誰 空悲昔人有
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新家 孟城口 古木 衰柳を余(のこ)す 来者 復(また)誰とや為さん (ただ)空しく(此処に)昔人の有りしを悲しまむ
愛人とふたりですると二人分の心配 咳はひとりするもの 薬王華蔵
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愛する者がいるのはときとして苦痛でもある。尾崎放哉はとうとう一人を貫いた。