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おはゆ・ゆゆ・ゆは。読者の皆さんはもうお目覚めだろうか。そろそろ6時半。障子戸の向こうが明るい。此処は山里。静かだ。ゆるやかに時が流れている。小鳥の声すら聞こえていない。雨垂れの音の間隔が長くなって行く。気温は昨日よりも高い。
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おはゆ・ゆゆ・ゆは。読者の皆さんはもうお目覚めだろうか。そろそろ6時半。障子戸の向こうが明るい。此処は山里。静かだ。ゆるやかに時が流れている。小鳥の声すら聞こえていない。雨垂れの音の間隔が長くなって行く。気温は昨日よりも高い。
男と女が一つ屋根の下で暮らしていても、だから男と女になれるわけじゃない。女を求めているときにしか男は男でいられない。求められているときにしか男でいられない。そうでないときには無性だ。おんなの場合だってそうだろう。男を求めるときと言うのは、そうたびたび来るものじゃない。求められているときも、そうたびたびではない。それ以外は全部嘘っぱちでいるのだ。男と女の組み合わせは、求め合っていないときには、水泡なのだ。徒花(あだばな)なのだ。せっかく男と生まれて来ていながらかくの如し。せっかくおんなと生まれて来ていながら、かくの如し。わざわざ女でなくったってよかったのだ。わざわざ男でなくったってよかったのだ。
男と女で暮らしていなきゃならないなんてこともない。ないだろう。無性でもいいだろう。暮らしては行ける。でも、男と女だったのだ、ふたりは。
そんな苦悶をする男と女のドラマがあった。どこにでもありそうなドラマだと思って見てた。
わたしが間違っているのだ。間違っていなかったら、わたしは疾うにあなたに出遭っていたのだ。あなたはもう此処を通り過ぎて行ったらしい。あなたは、引き返しては来ない。わたしは、いまも一人だ。寂しい。
映画には、そういう寂しい男がいる。寂しい女がいる。出遭っていながら、それを出遭いだと感じていない。そして、理想が通り過ぎて行く。理想とした時間と場所が、行き過ぎていってしまう。
チャンスをものに出来なかった男たちと女たち。彼ら彼女らはいつも一人だ。待ちあぐねているばかりだ。
わたしは、あなたを待っている。わたしの鍵穴にぴったりする人を。鍵と鍵穴。二つはセットになっている。あなたの鍵穴にはわたしの鍵しか入らない。わたしの鍵穴にはあなたの鍵しか入らない。鍵が入ると、そこでやっと二人の世界が見えて来るのだ。二人が歩いて行く世界が出現してくるのだ。
そのあなたはしかしいつ、わたしの前に現れてくるのか。それは全く分からない。明日かも知れない。永久に来ないのかも知れない。来てしまっていたのに、わたしがそれをそうと分からずに、さよならをしてしまっていたのかもしれない。
違う。違う違う。それじゃない。それではない、僕が欲しいのは。僕が求めているのはそれじゃない。もっと違う。
僕はそれじゃ癒されない。慰められない。ぴったりしない。何処かちぐはぐだ。違うのに、違わないと言って妥協したくない。
そうやって、拗ねている。違うと言い張っている。違うのだから、しようがない。待つしかない。ぴったりするのを待つしかない。
ううううん、ううううん。唸りながら、時が過ぎて行く。空虚な時が過ぎて行く。
雨。いちんち降ってたなあ。しょぼしょぼ、ちょびちょび、ぼちょぼちょ、ばしゃばしゃ、じゃびじゃび。もう夕暮れ。しょぼしょぼに、戻っている。あと5分で6時半になるところ。暗さがクレッシェンドになる。雨。いちんち降ってたなあ。
土がしっとり潤って、一番よろこんだのは、植物さんかなあ。でも最高気温は14℃。ちょっと寒かった。3月中旬の気温だった。発芽したての植物さんは、震えてたかもしれぬ。人間の僕も震えてたから。何度もクシャミをした。いまは炬燵の中。
おばんおばんこんばん。
わはは。○○の一つ覚えってのは、これかな。またカレーを作っちゃった。飽きもしないで。アメリカ産牛肉の厚いのを一枚全部、サイコロステーキ状に切って、大鍋に20分間煮込んで、柔らかくする。その間に、大きい玉葱を5個半切に切って、ニンニクを加えて、植物油で長く、黄色く変色するまで炒める。途中で人参を加える。炒め終わったら、大鍋に入れる。ぐつぐつ煮込む。ジャガ芋の皮剥きをする。一口サイズに切る。煮崩れがしないように、最後にジャガ芋を加えて煮込む。ラストにハウスバーモントカレー中辛ルーを投げ込んで掻き混ぜる。混ぜ込んでいないと焦げてしまうから。醤油、牛乳、ソースを数滴落とす。湯がいたスナップエンドウ豆を散らす。是で出来上がり。
今夜はこれを食べる。缶ビールを飲んでいる間は、カレーシチューにして。ラストに白ご飯を加えて腹ごしらえとする。4時半から作ってた。もういいだろう。6時半になったらテーブルにつこう。男の料理も楽しいのだ。
山の上は気温13℃だった。降りてきたら14℃。車の乗り降りの際に雨に濡れて、寒い。
心も、ひもじがる。食べさせてあげねばならない。何を食べさせてあげよう。形がない心だから、食べ物も形がなくていい。あってもいい。
僕は食後のコーヒーを飲んでいる。ドロッとしていない。あっさり目。そういうのが好き。
テーブルを飾っているのは、白いツツジの花。小さな花瓶に二枝。窓の外には咲き終わった桜の老木。新緑に包まれている。
レストランの隣席からは話し声。楽しい話し声。右からも左からも。中央には赤いピアノが置いてある。
聞き慣れない小鳥の、美しい春の声がしている。小鳥の種類を知らない。いつもは聞いていないから、この春にこちらへ移って来た鳥なのだろう。あんがい、わたしに聞かせようとしているのかも知れない。はるばる遠くの国から渡って来て、この老人の寂しさを癒そうとしているのかもしれない。そうだとするとこれはお慈悲深い。
オオルリだろうか。YouTubeで春の里山の小鳥の鳴き声を聞き比べてみた。それともイカルだろうか。シジュウガラのようでもある。センダイムシクイなのかもしれない。聞き分けられない。
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体は生死する。無常する。病むとその理(ことわり)が肯けてくる。病むのはそのためだ。老いるのはそのためだ。死ぬのはそのためだ。理(ことわり)を知らんがためである。理は真理である。ダンマである。真如である。法である。法のハタラキである。身心にその理を受領して行く。真理を体得して命を繋いでいるという己の実態を悟る。そして阿弥陀仏となる。阿弥陀仏を生きる。
一遍上人の「消息法語」から、わたしは以上のようなことを考えた。みなわたしの耳に聞かせるものである。