<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

好きなことを好きなようにして過ごせた いい日になった

2019年04月08日 19時58分49秒 | Weblog

今日はいい一日だった。心が晴れ晴れとしていた。好きなことを好きなようにして、一人を過ごせたからだ。といってとりわけ自慢に出来るようなことをしたわけではない。平凡極まることに終始した。それでよかった。

午前中は、一輪車を押して、北の畑へ行き、ごく早稲の玉葱を、一輪車いっぱい収穫した。よく太っていた。しめしめである。愛情を施した分の結果が出たのだ。帰り道で右左の三軒の家に、4分の3をお裾分けをした。どのみち我が家では食べきれないのだ。

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老いるということは至難なことなのだ

2019年04月08日 09時18分55秒 | Weblog

現代の老いは頗る当たり前で、軽々としているのかもしれない。少なくとも稀ではない。100才以上が数十万人いるのだ。国中どこもかしこも高齢化社会を見ているのだ。しかし、ほんとうは、当たり前でも軽々ともしていないだろう。老い。老いるということは至難なことなのだ。老いたということは、幸運の中の幸運な出来事なのだ。老いを見直してみたいものだ。

 

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老いを敬う「敬老」に、わたしは値していないように思う

2019年04月08日 09時07分46秒 | Weblog

我が集落の敬老会がもうすぐ開催されるが、老人会下級年齢が繰り上がっていまは75才以上がこの会のメンバーになっている。

わたしも来年は正規加入となるが、老いを敬う「敬老」には値していないように思う。わたしの場合は尊敬されるにはほど遠いからだ。我が老いの実像を見ていると忸怩たるものがある。枯れていない。煩悩が枯れていない。むしろ頑固が募っている。

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老いた個人にとって、老いは、希少価値なのだ

2019年04月08日 09時05分40秒 | Weblog

老いは、しかし、やはり特別なことなのだ。すこぶるすこぶる恵まれたことなのだ。平均寿命が男女ともに80歳を超えているこの国では、老いは何処にでも満ちあふれていて、希少価値を持っていない。でもやはり、老いた個人にとっては希少価値なのだ。生き永らえているということは凄まじいことなのだ。生まれ変わらなくとも、2回を生きたことになる。100歳の人は、50歳を生きた頃の人生を2度生きたことになる。

 

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現代にも姥捨て山はあるのだろうか

2019年04月08日 08時54分47秒 | Weblog

現代にも姥捨て山はあるのかもしれない、などと思った。子は、老いた親の面倒を見ることを嫌い、老いた親は、子から面倒を見てもらうことをこころよしとしない。そういう社会現象が罷り通っている。それよりは老人施設を選ぶ傾向にある。一人でいるものには孤独死が待っている。老いているわたしもまたいずれはそうなるだろう。親子ですらも、畢竟するに、断絶の時代を迎えているのだ。

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現代では老いはありふれていて、特別視されないのだが

2019年04月08日 08時53分07秒 | Weblog

現代では老いは特別視されてはいない。多くの人が老いているのだから。わずか50年ほどを生きて死を迎えていた頃とは雲泥の違いだろう。老いた者は姥捨て山行きだったころもあったらしい。その頃には、姥捨て山の山行きをさせぬ親孝行が美徳になっていたらしい。親子2世帯同居、親子孫の3世代同居世帯などというのがあり、互いに面倒を見合っていた頃が、かってはこの日本にもあったのだ。

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香りが食欲を増進させて ぺろりと

2019年04月08日 07時34分26秒 | Weblog

朝ご飯に、久しぶりに納豆を載せて、さらに高菜の一夜漬けを混ぜて、食べました。細かく刻んだ高菜には鰹節がまぶしてありました。香りが食欲を増進させて、ぺろりと食べ終わりました。これに不断草の味噌汁。柔らかくておいしかった。不断草の名は一年中青々としていて途絶えないから。食後のデザートに、ガラスの小さな器一椀のとろりとした甘酒。贅沢してこれに蜂蜜を1スプーン加える。

朝ご飯が終わって、牛蒡を切った。きんぴら牛蒡にするために。これはわたしのお得意芸。上手だというのではない。庖丁を握るのが好きだというだけだが。

 

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脳の食事をしています

2019年04月08日 07時27分48秒 | Weblog

さ、朝ご飯です。7時半になっています。わたしはバイオリンの音色が好きです。今朝はそのバイオリンの名曲集を聞いています。ご機嫌です。といって、わたしが音楽を理解しているのではありません。まったくの無理解です。音譜も読めません。音楽を学んだ事なんて一度もありません。唯、聞いていると、単純に気持ちがよくなるだけです。わたしの何処がそんなに気持ちよくなるのでしょうね。やっぱり脳なのでしょうかね。脳の食事をしています。

 

 

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吸っていい空気があったのです 生まれてすぐに息が吸えるのです

2019年04月08日 07時26分18秒 | Weblog

なにしろ、吸っていい空気があったのです。生まれてすぐに息が吸えるのです。目を開けると光が届いていたのです。明るいところへ来たのです。泣こうとすればおぎゃあと泣けるのです。条件をすべて満たしているのです。この条件を満たしたのは、赤ちゃんではありません。赤ちゃんは、満たされたところに生まれて来ただけで、済んでいます。一切合切が完了しています。

 

 

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まだだという不服申請はしないでいいことなのです

2019年04月08日 07時22分14秒 | Weblog

あの世に誕生するかどうかは未定ですが、此の世に生まれたということは決定事項なのです。すべての条件を満たしていないと誕生は出来ないのです。そしてすべての条件が満たされて此の世に誕生を果たしているのです。もうすれだけでわたしたちは歓喜仏、歓喜する仏陀なのではありませんか。

未定ではなく決定したことなのです、わたしが此処に生まれて来たというのは。歓喜が決定したことだから、不服申請はしないでいいことなのです。

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