あきらめることにも慣れてほの紅い南天の実のつぶやきを聴く 伊万里市 松尾光子
今朝の佐賀新聞読者文芸欄で見つけた歌。江副選者の選の3席に選ばれていた。さぶろうには歌の優劣などは分からない。読み進んでいるうちに、ここへ来て足が止まったのだ。冬になると南天の実が赤くなる。雪達磨の目にしていいようになる。それで存在が明らかになる。だが、この南天はまだほの赤くしていて、しかもつぶやきごとをしている。ひっそりとしている。何かを頻りにあきらめようともしている。あきらめることに慣れようともしている。何をあきらめるのか。そこはつぶさになってはいない。南天とほんとの恋との取り合わせをした名歌があったのを思い起こしてしまった。人はそうそう長く、男女の相愛の霞中に止まっていられるとは限らない。足が止まったのは、さぶろうと類似する点があったからであろう。
作者の歌いたかったこととは違うと思うが、さぶろうはこの歌からそんな思いを抱いた。