<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

天山が初冠雪したらしいよ

2015年11月27日 22時46分38秒 | Weblog

ニュースで聞いた。明日、雪を頂いた山を見ることにしよう。しかし、九州に降る雪だから、うっすらとしているだけなのかもしない。若い頃に吹雪いている山に登ったことがあった。それを思い出した。さぶろうは中学校の三年で、工業高校に通う先輩二人に連れられてだった。二人は登山部だった。山小屋やテントに泊りながら、二泊三日で三つの山を縦走した。歩いて歩いて冷たい足が棒になった。それからしばらくその先輩の家を何度となく訪れた。離れの二階の勉強部屋は新しい杉の匂いがしていた。どんな間柄だったのだろう。後輩として、とにかくよく可愛がられた。

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朝が来たと思ったのにまだだった

2015年11月27日 22時18分03秒 | Weblog

まだ宵の口。10時を過ぎたばかり。トイレをして戻って来たところ。どうしよう。夜はこれからなのか。8時に布団に入った。羽根布団は軽くて柔らかで暖かい。それで気持ちよくなって、9時少し前に目が閉じた。やはり眠るのが早過ぎなのだ。ふう。ひと寝入りして溜め息をする。仕方がない。枕元の本を読むしかない。瞑想をするというのも選択肢の一つだ。欠伸が沢山出る。

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懲りずに今日も渋柿64個の皮剥きをした

2015年11月27日 19時51分19秒 | Weblog

根気強く根気強く。ふう。疲れたよ。14個入り一袋で580円だった。ひいきの店で買って来た。帰宅後すぐに作業にかかった。吊し終ったのは6時を過ぎていた。虫食いがなく上等上質だった。よい結果になればいいのだが。

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仏の力によってのみ我あり

2015年11月27日 11時29分03秒 | Weblog

仏加持故 我証菩提   真言宗経典 「舎利礼文」より

ぶっかじこ がしょうぼだい

仏の加持したまふが故に、我は(この世を生きて)ただ(仏の)菩提を(我が身に)証すのみ。 (さぶろうの勝って読み)

加持:電子辞書の助けを借りるとこうだ。梵語のアジスターナの訳。①仏が不可思議な力で衆生を加護すること。②真言密教で仏と行者の行為が一体になること。印を結び真言を唱える。

「加」は仏の側の行為で、「持」は衆生側の行為。仏は行者に通力神力を与えて、行者はこれを受けて持続させる。三密加持をして仏の三密が行者の三密と本質的に同一であることを体験によって証明する。三密とは口密・意密・身蜜を指す。すなわち口で真言マントラを唱え、手に印ムドラーを結び、こころが梵我一如の三昧に入る。

菩提:梵語ボーデイーの訳。道・智・覚と訳す。仏の悟り。悟りの内容。仏の智慧。仏の実践。アノクタラサンミャクサンボダイ。真理を悟った者の境地。真理を悟った者は菩提薩埵(菩薩)とされる。  (さぶろうのいい加減な解釈)

ここで言われていることは「仏加持」ということである。ここは仏加持の世界である。これが成立しているからわれわれ衆生はただその仏の菩提を我が身に受けているだけで暮らしていけるのである。そう思えるかどうか。そんなに仏加持を100%かぶせてしまったら、われわれの出る幕がなくなってしまうじゃないかと心配になる向きもあろう。でも、経典では仏加持に導入されてしかわれわれ衆生はこの世界を生きていけないことになっている。これを信頼すればわが自力の貧しさを嘆かないでもいいことにはなるのだが。

さぶろうは、ここを読むと嬉しいのである。すべて仏さまのおはからい(仏加持)によっていることが嬉しいのである。それを我が身に受けて褒め讃えてよろこんでいればすむというところが嬉しいのである。「仏の力あってのみ我あり」を信じたくない人も多いだろう。

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痩せてきた日めくり

2015年11月27日 11時17分53秒 | Weblog

やせてきた日めくり老いを急き立てる    佐賀市 小方千江子   佐賀新聞読者文芸 川柳欄の作品より

作品の良し悪しは当方では分からない。おいしがって、面白がって、むしゃむしゃこれを喰うだけだ。そろそろ一年が終わる。当然日めくり暦も、捲られて捲られて薄くなっている。それを人間に見立てて痩せてきたとして捉えてある。落日がすぐ其処に見えている。老いてくると痩せてくる細ってくる弱々しくなってくる。それが人生の総決算を急き立ててくるのだ。だがなんとも覚束ない。これでいいということにならない。やっぱりなんにもなくなってしまうまで細るしか能がない。日めくりのように。

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拳(こぶし)をしゃぶる

2015年11月27日 11時02分09秒 | Weblog

冬ぬくし拳をしゃぶる嬰児かな     唐津市 脇山昌子   佐賀新聞読者文芸 俳句欄の作品より

嬰児はみどりご。やや子。赤ん坊。「しゃぶる」は「ねぶる」こと、ぐるぐる舐め回すこと。さぶろうは子守りかお母さんの背中のやや子が思い浮かんだ。ねんねこに包まれているが手の拳だけが外に出ている。涎が流れてくる口で赤ん坊がそれをねぶる。風が止んで日が射して、静かな村里に午後が過ぎて行く。こうやって寒い冬をぬくぬくとしていられた頃があった。作者はこの風光をどこで眺めているのだろう。もうねんねこはないから、乳母車の中か。乳母車もないから、押し車の中か。若い母親の抱っこ紐の中か。

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ままごとの客

2015年11月27日 10時45分59秒 | Weblog

ままごとの客となりゐる秋日和    小城市 白浜光夫   佐賀新聞読者文芸 俳句欄の作品より

秋が深まって来て社の杜の静かな一角にやわらかな日溜まりができている。ここへままごとの客が来て遊んでいる。木の幹を離れた蔦モミジだ。真っ赤だ。その傍にわたしの席を設けて座る。わたしの長い旅をして旅に疲れた客である。ままごとは飯事と書く。わらべ等のごっこ遊びだ。家族をして遊ぶ。ままごとの菜もご飯も摘んできた薺だったり野菫だったりする。遊びをせんとや生まれけん、戯れせんとや生まれけん。老いてもこうか。秋日和の中に次々に人の生涯を暮らしてきた客が舞い込んで来る。

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天空の村

2015年11月27日 10時31分31秒 | Weblog

天空の村となりたる朝の霧     佐賀市 牟田口三鶴     佐賀新聞読者文芸 俳句欄 御木正禅選より

霧が一面にかかっている。村がある。天空の城ラピュタがぬっと姿を見せてもよさそうであるが、それはなくて、人々の暮らす人家がまばらにあって、そこを朝霧が埋めている。木立が静かにあるが、それが何の木立であるかさえも見分けられない。天上界へ一気に連れて来られた感がして、霧で濡れた目蓋を拭う。文学は日常を非日常に変えてくれる幻術マシーンである。あるいは非日常の中に確かな日常を見据えるマイクロスコープか。

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空耳じゃない

2015年11月27日 10時09分56秒 | Weblog

味噌をとく蕪がゆらめく汁の中そら耳じゃないきみの靴音    白石町 高嶋里子   11月27日佐賀新聞 読者文芸作品 塘健選より

作品の優劣はさぶろうには分からない。靴音がしている。朝ご飯の味噌汁を拵えているところだから、朝だろうきっと。夜勤明けで帰宅中のご主人様だろうか。空耳ではない。それは現実に汁の中で蕪が白く揺らめいているので合点が行く。聞こえて来るはずのない音が聞こえてきているから、これは毎日毎朝のことではないらしい。靴を履いて帰ってくるのは異性かも知れないし同性かも知れない。遠く離れて暮らしている家族の一人かもしれない。さぶろうは短絡的にふっと平安朝の女性歌人が思い人を待っている歌を連想した。そうするとそこに想像がふくらんだ。勝手気ままな想像なんだけど。待つ人が誰であってもいい。あるということが人生の朝をどれほど豊かにしてくれることか。待つ人の居ないさぶろうには目の前で黄金の宝箱が開けられたように眩しい。

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赤く光ったり青く光ったり

2015年11月27日 10時01分48秒 | Weblog

赤く光ったり青く光ったりして、さぶろうに見せている。椿の緑の葉に雨粒が露になっているところへ朝の日差しが射してきてここでミラクルショーをして見せている。そこに数千カラットの大粒ダイアモンドが踊り子をして踊っているように見える。風が来て葉っぱが揺れて雫が落ちて、ショーはおしまいになったけど、このミラクルショーを見られたのだ、さぶろうは。さぶろうはラッキーだった。ひとりにひっそり見せてもらったし、それを見たことをこうして打ち明けることもかなった。

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