夫と私はヴェネズエラのエンジェル・フォール(エンジェルの滝)に向かっていた。コナン・ドイルの小説「The Lost World」で紹介されたギアナ高地にある落差世界最長(980m)の滝だ。そこに至る行程が未開発であるうえジャングルに囲まれているので、近くの基地であるカナイマまで夫と二人乗りセスナ機で行き、ボートでオリノコ川から上流へと遡行した。カナイマで数人の同行グループが出来、遡上とハンモックの一夜の後この滝へ到着した。
カラオ川からオリノコ川、そして支流のチュランへと、川の水は黒っぽいラッカーのようにいかにも神秘的な色だったが、主成分タンニンのためか遡上するにつれ次第に赤っぽくなっていった。訪れる人がまだまだ少ないゆえ水はこの上もなく清澄、ボートのエンジンの響きが両側のジャングルにこだますしていた。チュラン川を遡ること約一時間半、突然目前に垂直に聳え立つ岩壁が現われ空を覆った。瑞々しい緑の木々を身に纏って。エンジェルの滝を抱いて天に聳える岩壁だ。その威容を見せているかと思うとボートの方向次第でまた姿を隠す。巨大な岩壁が度肝を抜くかくれんぼをしているうちにボートはエンジェルの滝のふもとに着いた。
下船して鬱蒼とした沼地ジャングルを通り、エンジェルの滝の前につき出した大石の展望台を目指した。次第に石の多い急斜面となり、太い木の根や岩に摑まって少しずつ登った。幾度となく滑り、ロック・クライミングさながらだった。夫が一度私の上になだれ落ち、私は自分の頭で彼を受け止めたが、首の辺りでポキッと大きな音がした。私の眼鏡のレンズが飛んでしまったことに夫が気付き、ほぼ垂直な斜面を笑いながら二人でレンズを探した。日本男児を忘れない夫はいつでもどこでも、たとえ登山中でも私の前を行く。私の首は大丈夫だった。
汗だくで遂に滝の全貌を見上げられる岩場に到着した。落差世界一の威容を誇るエンジェルの滝に見晴らし最高の地点で向き合った。隠れた峡谷からニョッキリと空へ立つ塔のごとき岩壁はその中心で神々しく二筋の水流を落下させる。秘境の雄大なパノラマ風景が目の前にある。岩壁を伝って流れる水の情景に畏怖を体で感じ二人とも寡黙だった。自分の魂がエンジェルの滝の精霊においでおいでをされているような気がした。奇妙なことに夫も同様に感じたという。下方から何者かに招かれ、飛び降りたい気分を押さえ難かったと。それを聞いて悪寒が走った。崇高な風景から発信されるサインに衝撃を受けながら二人は言葉もなくそこに座っていた。
ボート・ドックに下りてきてチュラン川で遊んだ。水は成分のタンニンのせいで柿の渋のような珍しい赤色をしていたが透明で、岸辺ではサラサラと心地よい音をたてていた。川で泳いで育った夫はどうやって川を渡るかを実演して見せた。少し流されても焦らず、流れが穏やかになったところで向こう岸へ泳ぐ、という、この秘境水泳特別講座の最中、午後4時頃スコールがやってきた。だが激しい雨の中、二人で子供のように遊んだ。シャワーはすぐに止んだ。(彩の渦輪)