てすさび日誌

哀しき宮仕えを早期リタイアし、“サンデー毎日”のomorinが生活の一コマや雑感を認めた日誌です(2005/4/20~)

肩書きのない名刺

2008-10-15 11:34:47 | ビジネスと社会
 13日付の小欄で「名刺」について書いたところ、皆さんから貴重なご意見を賜った。どうも有難うございます。
 集約すると(公か、私かの)使途によって使い分ける。それによって肩書きを入れたり、肩書きを替えたり、ブログのURLを入れるなど工夫をしておられるようだ。

 合奏団の入団日のこと。団長のホームページとブログをいつも拝見している旨を話したら、通常の名刺に加えてギタリスト○○の名前の他にURLやメルアド(ケータイQRコード付)などを大書したもう1枚の名刺を頂いた。
 
 奇しくも、前後してT澤さんが同氏のブログで「名刺」と題する一文を寄せておられる。
 『以前、倉敷の著名な写真家の葬儀を手伝った時のこと。故人の竹馬の友だという75歳ぐらいの好々爺(失礼!)と名刺を交換したら、「近藤○○」だけ書かれた肩書きのない名刺だった。まだ先だけどワタシも近藤さんぐらいのトシまで生きていたら、肩書きのない名刺がいいな、と思った。』

 大宅壮一氏は「男の顔は履歴書である。男は40歳過ぎたら自分の顔に責任を持て」と言わた。これを受けて藤本義一氏はその言葉に「女の顔は請求書」と付け加えたと聞く。
 なるほど男の顔は仕事や地位が創っていく面は否めないし、人生がにじみ出た顔で無ければならないと言うこと。
 事程左様に顔にはその人の生き様が表れているので、初対面でも一見すれば凡その見当はつく。肩書きに惑わされることなく、素のままの相手に接する点では、名刺に地位や肩書きは却って邪魔かも知れない。

 顧みるに自身の33年余に亘るサラリーマン生活にあっては、大した能力はなく一番大切な人間性が欠けるくせに、社章や名刺を拠り所にして、肩書きを振りかざして生きて来た輩を何人も見聞した。T澤さんの言われる“肩書きヌキで裸のお付合い”をしたい気持ちも十分理解できる。
コメント (4)
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