〈リバイバル・アーカイブス〉2021.11.1.~11.15
原本:2016年12月17日
富田林市本町7 「愛宕(あたご)山夜燈」
旧 毛人谷(えびたに)地区
「正一位 五六七大明神」のお稲荷様の境内に、江戸後期に村の備蓄米を蓄えた「郷蔵(ごうぐら)」、役行者像、大峯講「毛栄講」の記念碑とといっしょにたたずむのは、「愛宕山夜燈」。
神前型灯籠の「竿」に「愛宕山夜燈」とあります。
愛宕山とは、京都市の北西、京都市右京区の標高924mの頂上にある愛宕神社のことで、「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた火伏札で有名な、古来より火伏せの神様として信仰を集めている神社です。
竿左:「天保十四卯年九月」(1843)の銘
竿右:「毛人谷 講中」
毛人谷村の仲間が建之したの意
正面の神社は稲荷様。「正一位 五六七大明神」と書かれています。
「ごろひち」とよむのか、「みろく」と読むのか、どう読むのかわかりません。
修正:「いむな」と読みます。2021.10.25
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以上、灯籠についてまとめてみました。
【道中日記】
愛宕山 標高924m 岩崎 元郎の新日本百名山のひとつ
京都市の西北にそびえ、京都盆地東北の比叡山と並び古くより信仰対象の山とされてきました。
場所は代わり、嵐山 渡月橋。西北に愛宕山が見えます。ポコッと頭が出ているところの頂上に愛宕神社があります。
今回、62km離れた富田林市本町になぜ「愛宕山夜燈」があるのか探るため、ここから愛宕神社にのお詣りして、天保期に地元の先祖の方が灯籠を建之した理由を見つけようと出発しました。
2016.11.23. 9:50 京都市右京区清滝 表参道ルート(丁石道)
東海自然歩道分岐、愛宕神社二の鳥居付近
ここまで、近鉄電車と京都バスを乗り継いで、3時間半。現代でも往復7時間、直線距離62km(15里)。
さらに、参詣のための登山に往復5時間掛かりました。
*富田林→京都 近鉄電車(橿原神宮前 経由) 5:42富田林発→7:46京都
京都駅→嵐山・清滝 京都バス 8:03京都駅→9:20清滝
9:56 いきなり急坂が続きます。
昔なら往復30里で3日間、参詣のための山登りに更に1日として、おそらく最低4日間は掛かったと思われます。
その創祀年代は古く「愛宕山神道縁起」や「山城名勝志」白雲寺縁起によると大宝年間(701~704)に、修験道の祖とされる役行者と白山の開祖として知られる泰澄が朝廷の許しを得て、朝日峰(愛宕山)に神廟を建立されました。
9:58 戦前にあったケーブルカーの線路跡
昭和初期には愛宕神社参詣の足として愛宕山鉄道が嵐山駅からふもとまでの鉄道(平坦線路)と山上までのケーブルカーが敷設されていました。(1929年) あわせてホテルや遊園地もある愛宕山遊園地が開かれ、観光客で賑わったそうです。
その後、天応元年(781)に慶俊が中興し、和気清麻呂が朝日峰に白雲寺を建立し愛宕大権現として鎮護国家の道場としたと伝えられています。
9:59 ケーブル線路跡
しかしその後、第二次世界大戦末期(1944年)にはケーブルカーが不要不急線として廃線になり遊園地やホテルも閉鎖され、戦後はふもとからは歩く以外の手段はなくなりました。
愛宕神社は全国に900社を数える愛宕神社の本社として、京都の北西の愛宕山上に鎮座しています。
早くより、神仏習合の山岳霊場として名高く、9世紀頃には比叡山・比良山等と共に七高山の一つに数えられました。
*七高山:比叡 山 ・比良 山・伊吹山・神峰山 (かぶせん) ・金峰山 ・葛城 山あるいは高野山、そして愛宕山。
10:02 さらに階段になり、すでにアップアップの状態。
古典落語の『愛宕山』(明治初年頃の話)では、旦那が舞妓や幇間(ほうかん、たいこもち)の一八(いっぱち)や茂八(しげはち)と一緒に愛宕山に山行きする中で、一八が、「愛宕山なんて高いことおまへん、二つ重ねてケンケンで上がったる」と啖呵(たんか)を切るくだりがありますが、1000mに満たない山なのに、このコースはかなりきついですね。一八が急坂を息を切らして言うように、『鼻の穴が、十(とお)ほどほしい...』
10:14 十七丁石
愛宕神社表参道には109mごとに丁石(町石)があります。なくなっているものもありますが、お地蔵さん形と道標型の2種類があり、急坂の連続で疲れた体をいやしてくれます。
頂上の愛宕神社まで、鳥居本の一の鳥居を起点として五十丁(約5.5km)。表参道沿いに地蔵形と板碑形の2種類の丁石(町石)が建之されています。
現在残っているのは、50基中地蔵形40基、板碑形32基。製作年代は記載されていませんが、1丁石と五十丁石には、「教学院 施主伊勢津佐野宗吉」というふうに、宿坊(江戸時代まで存在)の名前が書かれていること、貝原益軒の書物「京城勝覧」に「町毎にしるしの石立てたり。」と出てくるので、少なくとも江戸中期までには存在していたようです。
*貝原益軒:1630(寛永7年)~1714(正徳4年)
10:17 どんどん険しい道が続きます。
丁石の施主に教学院という名前が出てきましたが、教学院は頂上付近の愛宕神社の境内にある宿坊で、江戸末期まで存在していたようです。
ほかにも、勝地院、大善院、威徳院、福寿院、長床坊等六坊の社僧の坊がありました。明治初年の神仏分離令で白雲寺は廃絶、愛宕神社となり現在に至っています。
10:44 茶店の跡が現われました。
登山口からところどころで石垣があり、何か建物跡かと思っていたのですが、案内板によるとこの参道沿いには多くの茶店があったということです。なんと一丁(109m)ごとにあったという記録や19件あったという記録もあります。
ここはちょうど真ん中の中間点二十五丁目にあたり、「ふかや」という茶店があったといいます。
愛宕山坂 ええ坂 二十五丁目の茶屋の嬶(かか) 婆旦那さん ちと休みなんし しんしんしん粉でも たんと食べ 食べりゃうんと坂 ヤンレ坂
古典落語『愛宕山』で幇間が鼻歌交じりで今はなき茶店のことをうたっています。
これは実際に愛宕山参道の中腹 (二十五丁) にあった茶店の女が、客の呼び込みに歌っていた唄やそうです。
*中間点の「二十五丁目」といっても、起点は「鳥居本の一の鳥居」からの話ですから、現在の登山口でいうと、清滝のバス停を降りて一文字屋さんから二の鳥居を登る場合は、鳥居本をかなり過ぎていますので、実際はこの地点では中間点より手前ということになります。
嵯峨消防分団が救助の目安とするため設置されている、100m毎の「おもろい標識」が、清滝の二の鳥居を起点として愛宕神社まで1~41まで立てられているので、これを参考にした方がわかりやすいです。
10:46 二十五丁石
「ふかや」では、疲れた客への甘味として、しん粉 (うるち米の粉を練って作った団子) が名物として出されていたそうです。
こうゆうお楽しみが、ただ単に愛宕山に参詣するだけでなく、江戸時代の庶民の気持ちをつかんでいたのだと思います。
上方落語の『いらちの愛宕参り』の中で、喜六が茶店のかみさんに、「あげみせ」を借りるくだりがあります。
* あげみせとは、軒先の壁に寄せて折りたたむことのできる収納式の縁台の事で、使うときは手前に天板を倒すと折り曲げてある脚が出てきて縁台になり、商品を並べたり、腰掛けとして使用されました。富田林寺内町の旧家にもあります。
喜六:「はらへってきたなあー、ここであげみせ借りよか...(茶店のかみさんに)ちょっとすんません、あげみせ貸してもらえますか...」
茶店のかみさん:「お弁(おべんとう)ですか、どうぞおあがり。なんでしたら、おぶ(お茶)揚げましょか。」
なにか、参詣者をむかえるほんわかしたくだりです。
11:19 参詣道より南に開けた山並み
12:18 すでに2時間余り、なんぼ行っても着かないあせりのなか、こういう案内板を見るとほっとします。
愛宕神社は、古くより火伏・防火に霊験のある神社として知られ、京都府内はもとより近畿地方を中心に全国から参拝者が絶えません。
江戸時代は大火が多く、富田林でも、享保15年(1730)11月、旧寺内町北・北西部とその周辺が焼失したことがありました。
密集した家屋と水の便の悪さから一旦火を出せば自分の家だけでは済まないわけですから、火伏の神様にすがる思いは昔も今も変わりません。
12:22 保津峡が見えました。
古典落語『愛宕山』の中に、茶店からかわらけ投げをするくだりがあります。茶店でかわらけを5枚ほど買って、願を掛けて崖の上から谷底の的に投げ込むもので、落語では、旦那は「天人の舞い」「お染久松比翼投げ」「獅子の洞入り」など多彩な技で次々にかわらけを的に投げ入れるが、一八は見よう見真似でチャレンジするが全く命中しない。
実際投げると、こつがあり、失速したり、左右にそれてまっすぐ飛ばない。フリスビーのような投げ方がよいようです。
愛宕山のかわらけ投げは有名だったらしいですが、現在、愛宕山ではされていません。
高尾山神護寺ではいまも厄除けのため、かわらけ投げができます。。
12:29 やっと黒門に着きました。
12:30 黒門 ここから愛宕山の境内に入ります。
愛宕山は、江戸時代を通じて神宮寺 白雲寺(前記六坊を含む。)が実権を握る神仏習合の山でした。しかし、慶応四年(1868)神仏分離令により、白雲寺は破却。
そして、この黒門は境内に残る数少ない白雲寺の遺物です。
境内には入りましたが、これから先は長いようです。
12:36 この辺の岩盤です。細かい割れ目が入っています。どうもチャートが圧力変成をうけているような感じです。
この辺の地表はは、丹波層群という中・古生代に堆積した地層が露出しています。
丹波層群は南方の海で堆積した石灰岩、チャートなどが海洋底の移動によって運ばれてきてくっついた付加体と呼ばれる堆積岩と、そこへ大陸から河川によって運ばれてきた砂が堆積した砂岩類が混じります。ですから両方の岩石が見られることになります。年代は、二億五千万年前~一億五千年前(古生代末から中生代…石炭紀・ペルム紀・三畳紀・ジュラ紀)のものと考えられています。
*チャート:海にすむ放散虫などの死がいが海底にたい積してできた岩石。
まだ日本列島ができる前の海底での出来事で、日本の地層の中では古いほうの地層といえます。
2億年という気の遠くなるような大昔に海底深くに堆積した石が、山の上にあることを考えると自然の力はすごいですね。
12:44 二の鳥居より4km歩いて、愛宕さんの境内に入ったようですが、まだまだ道は続きます。
12:51 境内の灯籠群
坂を登り切り、平なところに到着。みなさんはここでお弁当を広げています。
12:55 進むとこれがまた階段!中途半端ではない先が見えぬ階段に気が萎えてしまいます。
ここからが最後の急坂らしく、立派な金属製の灯籠が現われます。
13:03 石段の先に鳥居が見えます。
13:03 黒い金属製の鳥居の扁額に「愛宕神社」と書かれています。
13:09 ついに拝殿に着きました。
13:11 さっそくお詣りしました。
上方落語の演目のひとつ、『いらちの愛宕詣り』では、
あわて者の喜六、道を間違え、ようようのことで愛宕山に到着。行く前に、女房に一文銭をひもでつないだものを渡され、「三文はお賽銭どす。あとはあんさんの小づかいやで。」と念を押されていましたが、間違って三文残して全部を賽銭に投げてしまいます。
「もうし、愛宕さん。賽銭まちごたんで返しておくんなはれなぁ~」
13:13 りっぱな「愛宕大神」の扁額
13:15 拝殿の両側に猪の彫像 阿吽になっています。これは右側の阿形(口の開いている方)の猪
愛宕神社の神使「猪」の由縁は、神社ゆかりの和気清麻呂が猪に助けられた故事に因むとされといます。
ほかに、愛宕山は京の戌・亥(イヌイ=西北)の方角にあるので、「亥=猪」とされた(戌=犬のほうどうなった?)とか、一帯に猪が多く(最近はどこでも多い。)棲息したからなどの説もあります。
13:25 霊験あらたかなお札
やっぱり、買っちゃうんですねえ...うちの家には、あちこちの神社・仏閣のお札がたくさんあります。
13:26 『火迺要慎(ひのようじん)』のお札
私の小さいころ(昭和30年代)は、家はわら葺、へっついさんには薪を使っていました。その台所のすすで黒ずんだ柱に阿多古(あたご=愛宕)さんの『火迺要慎』のお札が貼ってありました。
【みどころ】
急な坂道なのに、小さいお子様連れのご家族がなんか多い。途中でべそかいて、おんぶ・だっこのお父さんも結構おられた。
後でわかったんですが、「愛宕の三つ参り」と云って、3歳までに参拝すると一生火事に遭わないらしい。「おやごころ」ですね。
コースは、清滝→表参道→愛宕神社→月輪寺道→清滝
十返舎一九作の滑稽本『東海道中膝栗毛』二編上「浮世道中膝栗毛後編」に、
「さてもわれわれ、伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕さまへは月参り。」と出てきます。
信心の厚いことですね。
参道から見た、桂川の蛇行 嵐山や松尾大社がみえます。
もうすこし望遠で...天龍寺や渡月橋がみえます。
月輪寺への下り、尾根沿いに巨石群が現われました。
巨石がゴロゴロ
同じく、月輪寺道
月輪寺から月輪寺登山口に下る途中で見つけたシダの群落。
月輪寺登山口付近
近くに空也の滝があります。
静寂の中、滝の音が響きます。
表参道の坂を上がり、広い場所に出たところにある灯籠群。
江戸時代に各地の町衆から寄進されたものと思われます。
寄進された灯籠はほぼ同じ形をしています。
笠はシンプルな反りのないタイプ、竿は四角柱型、中台と基礎部分は、蓮華文をあしらっています。
宝永四年(1707)、江戸中期の灯籠もあります。
前年に浅間山が噴火し、この年に富士山が大噴火(宝永の大噴火)しました。江戸の町では数cmの火山灰が降ったそうです。
多くの灯籠群が、古くからの厚い信心を表現しています。
富田林市本町にあるこの灯籠も、村衆の愛宕山に対する願いが込められているのですね。
参詣と遊山
江戸時代は、領主は農民や町民をその土地に定住させ年貢米や税金をきちんと納めさせることが重要でしたから、遊山や旅行でふらふらされたら困ります。そのため、このことを厳しく規制しました。
しかしながら、そのはけ口として、お伊勢参りや金毘羅参り、愛宕参りなど、神社・仏閣に参詣することは、信心としてすこし大目にみました。
そこで村の衆は講(仲間・グループ)を作り、少しずつみんなでお金を貯めて、あるいは共同で講田(伊勢田など)を耕して収穫したお米を売って、その資金で神社・仏閣に参詣しました。
毎年全員行けないので抽選または順番で代表何人かが代参し、村の仲間達にお札やおみやげを持って帰ってくる、これは楽しみごとの少ない村の大きな楽しみごとでした。
行く方も参詣にかこつけて、ちょっと寄り道!
史料に残っている、庶民のお伊勢参りの道中記では、お伊勢さんにまず参った後、そこで遊んだり、京や大坂に寄り道して名所・旧跡を巡ったりしているのがわかります。
愛宕さんは京や大坂、大和にも寄り道できるちょうどいい具合の場所にあり、しかも『火迺要慎』のお札をおみやげに持って帰ればとても喜ばれる。しかも、伊勢参りの「剣菱型生姜板」より、おみやげとしては相当軽い、一石三鳥の神社であったと思われます。
ただ、今回わかったのですが、山行きがきついのが難点。山頂の境内(この当時は神宮寺の白雲寺もあり)のいくつも宿坊があったのも理解できます。
今から50数年ほど前の昭和30年代に、この本町地域で「愛宕講」が残っていました。村の7~8件のお家(うち)が定期的に、順番に集まる家を替えて、夜集まってなにやら会合をしていたのを覚えています。私は小学校に入るか入らない位の年齢なので、何をしていたのかは覚えていませんが、よく覚えているのが、会合の後、「おさがり」といって神さんに並べたお菓子などを分けてくれるのです。私は特に「お好み(あられ)」というのが好きだったので、夜そのころの子供にとっては遅い時間(8時過ぎやったと思います。)まで、起きていたのを思い出します。
*「お好み(あられ)」:略して「おこのみ」。あられやえび満月みたいなやつ、フライビーンズ(そら豆)、ちょっと甘い豆鯵の干物、えびほまれなどが何種類も入ったおやつ。
そして、この「愛宕山夜燈」も、そういう流れの中で、記念として常夜燈を村の仲間が建之したのではないでしょうか。
富田林市には、こういう民衆信仰型の灯籠が、「太神宮灯籠(伊勢灯籠)」、「金毘羅灯籠」など、三十数基もあります。
関連記事:木の根っこ~愛宕山 2016.11.29.
撮影:2016.11.23.ほか
2016.12月17日 (HN:アブラコウモリH )
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