2024年6月29日 富田林市錦織北三丁目-11-1 大阪大谷大学博物館にて
開催期間の途中に追加展示が加えられ、しかも「大とんだばやし展」から「大大大とんだばやし展」になっていると聞いたので、またやって来ました。
最終日、次から次へと知り合いがどんどんやって来て、展示を担当された市の文化財課の職員さんもたまたまおられ、質問攻め。かなり仕事の邪魔をしてしまいました。
こちらが追加展示のショーケース。たった2つのショーケースかとあなどるなかれ。
新たに見つかった埋没古墳は中期(5C前半)の単独古墳としては珍しい方墳です。
配付の資料より
喜志の低位河岸段丘面の東端に位置し、石川の氾濫原より5mの比高があります。
東北150mのところに2021年に発見された小さな前方後円墳の浮ヶ澤古墳(墳丘長20m、5C後半)があります。
これは古市古墳群 墳丘長115メートルの前方後円墳 清寧陵(白髪山古墳、6C前半)に一直線上に同じ向きで並んだ陪冢(ばいちょう)の小白髪山古墳です。
私の大好きな小さな前方後円墳ですが、これでも墳丘長は45mあります。
ところが浮が澤古墳は墳丘長20m、なんとちっちゃな古墳ですが、前方後円墳で、比較的しっかりした円筒埴輪と多様な形象埴輪が特色でした。
2023年5月7日 きらめきファクトリーで行なわれた埴輪見学会―喜志南遺跡の浮ケ澤古墳出土遺物 比較的しっかりした円筒埴輪。
今回の追加展示は昨年発見された方墳で墳丘長は30m程度(推定)。5C前半と比定されています。
この方墳(仮称:南カイト古墳)からはこんな大きな円筒埴輪が出土しています。
突帯がしっかりしていて4条。葺石もみられ、古墳の先端技術の指導を受けていたかその技術を持った集団が協力したのかもしれません。
これは羽曳野市文化財展示室の円筒埴輪。
古市古墳群の大王陵クラスの円筒埴輪 5条~7条。
ほかに円筒埴輪の一種で蓋(きぬがさ)形埴輪も出土しています。
円筒埴輪に彫られた動物の脚。鹿、猪?
ここにも謎の菱形。
「これは何かな?」
文化財の方に聞くとどうやら準構造船のようです。
馬の脚? 馬の形象埴輪か?
1脚だけしか見つからなかったそうです。あとの時代に削平されている埋没古墳なので、なくなっているパーツも多いようです。
浮ケ澤古墳出土の謎の埴製品。直弧文に似ていますが「直線」がない。
同じ古墳で出た直弧文の盾形埴輪。
あくまで想像ですが、この一連の古墳のストーリーを考えてみました。
「喜志地区には弥生中期に喜志遺跡、喜志西遺跡などの大きな遺跡があり、農耕だけでなくサヌカイト石器の製作などで多くの人が住んでいたと想像されます。
4世紀初頭に羽曳野丘陵東端にこの地区の有力豪族により、真名井古墳(消滅)の60m級前方後円墳が造られました。石川流域の前期古墳の中では最も古い古墳で中国製三角縁三神三獣獣帯鏡や銅族が出土しています。
4世紀初頭というとまだ古市古墳群が築造されていない時代。ヤマト王権の大王陵が奈良の大和古墳群にあった時代からここの豪族の盟主はヤマト王権に協力し、連合していたようです。4世紀後半には宮神社裏山1号墳のように同じく60m級の前方後円墳が築造されます。
そして、古市古墳群で4世紀後半から次々に大王陵が造られ始めるとその豪族は古市の大王陵築造に大いに協力したと思われます。古墳の築造だけでなく、灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおうなで)や深溝(ふこうど)井路などの土木工事にも携わりました。
そして、5世紀になるとこの地域では大きな前方後円墳が造られなくなりました。思うに喜志地区の有力なこの地方豪族は、古市古墳群の築造などの協力が精一杯で自分たちの大きな古墳を築造する余裕がなく、やむえず小さな古墳を築造しました。
でも、古市古墳群の築造に貢献していたので、埴輪は土師氏が協力してくれて、古墳に見合う以上のものを焼いてくれたようです。
5世紀前半は階層秩序下位の方墳(南カイト古墳)でしたが、後半には小っちゃいながらも前方後円墳を造ることが許されました。
若干無理と矛盾がありますが、古代ロマンとして我慢してください。」
帰り際に学芸員さんより「考古学の分野で高校生が大活躍した時代」と言うタイトルで、秋に特別展をされると聞きました。楽しみですね。
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写真撮影:2024年6月29日
2024年7月2日 アブラコウモリH
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