噛みつき評論 ブログ版

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ボーダーラインはいい加減に決められる

2020-02-23 22:18:53 | コラム
 ダイヤモンドプリンセスの70代の乗客の方で37.3℃の発熱があり3日間程はほとんど食べられず、診療を申し入れたが基準の37.5℃に達していないので拒否されたという話があった。その後、その方は重症になられたとのことである。私などは平熱が35.5℃程度なので多分診療対象から外れることだろう。基準の37.5℃には確かな根拠がなく、目安に過ぎないものと思う。それを絶対的なものとして厳格に守る態度はどうかと思う。真面目な人だと思うが、感染者を救うという本来の目的を見失ってはいないだろうか。マニュアルさえ守っていればよいというものではない。

 別の例を挙げる。知的障害者は一般にIQなどで区分される。IQ69以下の方は知的障害者として支援が受けられる。IQ70で境界線が引かれ、それ以上は正常とされ支援は受けられない。ただIQ70〜84の方は境界知能と呼ばれ、全体の14%を占めるという。境界知能の方は仕事や家庭でうまく適応できないことも少なくない。しかし支援は受けられない。支援に関しては境界知能は関係なく、IQ70の境界線だけである。ずいぶん荒っぽい線引きである(実際の障害程度の区分ではIQ以外の要素も考慮されるらしい)。

 IQの数値を横軸に、人数を縦軸にとるとグラフは中央が高く、裾野の長い山型になる。注意したいのはこれが連続した線であり、どこかの点で区切り、こちらは知的障害、隣は健常と区分することの問題である。IQテストの信頼度が十分かという問題もあるし、IQの1点差がその人には大きな影響を与えることも起きる。行政サービスを行う上で区分の必要性はわかるが、レッテルを貼られると行政以外の分野にも影響を与えてしまう。

 また、刑法39条では、心神喪失者を責任無能力として処罰せず、また、心神耗弱者を限定責任能力としてその刑を減軽することを定めている。ここでは人間を心神喪失者、心神耗弱者、正常者の3つに区分しているわけである。この3者は連続して存在するもので、当然、境界域もあると思う。たったの3区分とはずいぶん乱暴な分け方である。さらにこの区分の判定方法は曖昧であり、鑑定人が異なると結果も異なることが少なくない。実にいい加減なことである。

 サイコパス(反社会性人格障害)、アスペルガー(広汎性発達障害)の人は他人の気持ちを理解するのが困難で他人と協調するのが難しいと言われる。典型的な人は多くないそうだが、そのような傾向を持つ人はより多く存在すると思われる。恐らく軽度から重度まで分布は連続的だろう。他人の気持ちを理解するのが不得意な人を時々見かけるが、彼らは境界線上の人である可能性がある。そのような人たちを我々は人格に問題があるとか、出来の悪い人と判断し勝ちである。こちらは区分が簡単過ぎ、つまり病的か、正常かの2つに分類していることに問題がある。

 連続して存在するものを少数のカテゴリーに区分することは問題が多い。法による支配では対象の区分と定義が必要なので仕方がない面はある。しかしIQによる分類や刑法39条の分類は荒っぽすぎる。精密司法と(自らが)呼ぶように、裁判を精密に行っても区分が荒すぎるれば精密さの意味はない。

 区分、カテゴライズとはレッテルを貼ることである。しばしばそれはいい加減な根拠で行われる。だがレッテルを貼られた人間にはそれによって大きな影響を受ける可能性がある。やむなく区分された分類であっても、その根拠がいい加減であることが少なくないわけで、レッテルを鵜呑みにしないような習慣をつけたいものである。また境界線・境界値を絶対視せず、それはいい加減なものである可能性を認識し、柔軟な対応を望みたい。。法を形式的に守ることよりも、法の目的に沿った行動が必要な場合もある。

人の心と性善説・性悪説

2019-12-29 22:01:34 | コラム


 性善説は孟子の「人間が生まれ持った本性は善である」に、性悪説は荀子の「人の性は悪なり その善なるものは偽なり」に由来するとされる。それぞれ、解釈はいろいろあるようだが、ここでは単純に文字通りの意味とする。つまり人は生まれつき善なのか、生まれつき悪なのか、である。

 むろんこの認識はどちらも現実的ではない。両極端を述べているのだが、現実にそんな人はまずどちらも実在しない。たいていの人は善と悪の混合物であると考えるのが妥当だろう。善と悪について述べると大変なのでここでは単に利他的なもの、利己的なものと考えればよい。

 世の中には性善説を信じる人がいる一方、性悪説を信じる人がいる。どちらも極論なので、現実には性善説に近いとか、性悪説に近いという人が多数だろうと思われるが、なぜ性善説または性悪説を信じるに至ったのかという理由の方が興味深い。

 運よく善人に囲まれて暮らす人は性善説に傾くであろうし、悪人ばかりと付き合ってきた人は性悪説に傾くであろうことは容易に想像がつく。しかしもうひとつ重要な理由がある。それは自分の心を観察した結果である。

 他人の心は言葉や行動で推し量るしかないが、嘘をつくかも知れず、正確に捉えるのは至難である。これに対して自分の心を知るのは比較的容易だ。そして多くの人の心は一定の範囲に収まるものという常識があるので、自分の心は人間の代表であると思いがちである。つまり性善説を信じる者は自分の善良な心の反映としてそれを信じ、性悪説を信じる者は自分の邪悪な心の反映として信じる、ということになる。このような観点から自分の周囲を見回してみると、あいつは腹黒いからきっと性悪説を信じている筈だ、などと思いあたったりする。

 では検察官はどうだろう。日常的に犯罪者と向き合っているのだから性悪説に傾くのは自然かもしれない。裁判官や弁護士も犯罪者に向き合うのが商売だから同様だろう。まさに「人を見れば泥棒と思え」の心をお持ちなのかもしれない。ま、人を疑う心がなくては商売が成り立たないのも確かである。

 護憲を主張する左派メディアは日本政府が戦争をやりたがっていると深く疑っている。また政府のすることを疑い、ことごとく反対の姿勢を見せる。政府は国民が選んだものであるのにである。とにかく極めて疑い深い性格があるようだ。とすればこれは性悪説の立場だと言える。そして彼らがきれいごとを言うのは偽善ということになる。彼らの腹の中はいったいどんな色であろうか、気になる(これは少しこじつけ気味であることを認めるが)。

 というわけで、性悪説を信じる人間は他の人間の本姓をも悪と見ているだけでなく、本人の心も悪に傾いている可能性が高い。できれば性善説を信じる人と付き合いたいものである。

「しつこさ」は最高の素質

2018-10-21 21:11:09 | コラム
 しつこい人は嫌われることが多い。しかし「しつこさ」は本当に嫌われるだけの、負の素質なのだろうか。例えばこんな例はどうか。何年間も別離を強いられた恋人達がやがて再会し、めでたく結ばれる。この裏には何年もの間、飽きずに相手を慕ってきたという「しつこさ」がある筈である。但し、双方ともよほど異性に持てないための消極的選択の場合もあるだろうが、まあそれは別としよう。

 自然科学系のノーベル賞受賞者、彼らは能力と運に恵まれ、着眼が優れていることが多い。しかしそれだけでは足りない。何年間もひとつのテーマを追い続ける「しつこさ」が大きな要素であると思う。初志貫徹、不屈の精神、不変の信念、これらは何れも肯定的な意味に使われるが、平たく言えばどれも「しつこさ」のことであり、たいていの人があきらめてしまうことを頑固にやり通すことである。

 籠池氏は首相から「しつこい人」と評された。しかし、恐らくそのしつこさのおかげで小学校創立直前までこぎつけた。野党とメディアが政局に利用しようとする騒ぎに巻き込まれた結果、公金詐欺までが発覚し、服役する身となった。むろん小学校も夢に終わった。あんな騒ぎにならなければ詐欺は多分発覚していなかっただけに不運をお嘆きのことだろう。話が逸れたが「しつこさ」の価値に変わりはない。

「しつこい」と言うと悪いイメージが先行する。というか、そういう場合に使われるのが習慣になっている。だけどそれは気持ちが変わりにくいことを指しているだけで、不変の信念などという場合と同じである。硬直的な性格を別の言葉で表しているにすぎない。とすれば「しつこさ」は大事を成し遂げる場合には不可欠の要素と言えるのではないだろうか。