噛みつき評論 ブログ版

マスメディア批評を中心にしたページです。  姉妹ページ 『噛みつき評論』 もどうぞ(左下のBOOKMARKから)。

海難事故の政治利用

2014-01-27 09:25:25 | マスメディア
 1月15日に起きた海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」と釣り船「とびうお」の衝突事故は大きく報道されました。その報道量は2日後に同じく死者2名を出した和歌山県沖で起きた漁船と貨物船による事故の報道の数十倍にもなります。

 朝日では15日夕刊、16日朝刊、16日夕刊、18日朝刊の一面トップを使って報じています。見出しには「海自艦、後方から接近か」「『おおすみ』乗員ら聴取」などと、いかにも海自艦に衝突の原因があるように思わせる文字が並び、またご親切にも海自艦船がかかわった過去の衝突事故の一覧表まで載っています。

 海自艦の過失追求にはずいぶんご熱心ですが、釣り船側の過失には全く関心がないようです。よほど自衛隊がお嫌いのようです。しかし22日になって、釣り船が海自艦を追い越した後に減速した、あるいは釣り船が後ろから海自艦に衝突したという釣り船側の過失を疑わせる見解が出てきて以降、この衝突事故のニュースは朝日の紙面からすっかり消え失せたようです。

 海自艦が釣り船の後方から接近したとしても、海自艦の先端が釣り船を追い越してから衝突場所である中央部まで約90mあるわけで、仮に相対速度が10km/hであれば32秒程度必要です。この間、釣り船から見れば視界のほぼ右半分近くは海自艦の巨体で覆われていたことになります。釣り船はいったいどこを見て走っていたのだろうかという疑問が生じます。

 また海自艦は大型で、停止には数百m必要であり、急な方向転換も出来ません。それに対して釣り船ははるかに機動性がよいので、衝突直前の急な回避行動は釣り船にしか出来ないわけで、鈍牛とハエのようなものです。このことは、回避義務がどちらにあったかなどの法律論よりも重要だと思いますが、なぜか言及はありません。

 小さく報道された和歌山県沖の漁船事故も死者は同じく2名です。一方は遊びの最中、他方は仕事中の事故です。死亡した漁船の乗組員は現役であり、一家の働き手であったかもしれません。同じ海難事故でありながらこの報道量の違いは納得できません。

 大袈裟に報道する背景には自衛隊を有害無益なものと印象づけて、感情的な反対論を煽る意図があるのでしょう。理ではなく情に訴える手口です。自衛隊の縮小・廃止を望んでいる社民党や共産党を「無責任野党」と呼ぶそうですが、それに倣えば「無責任新聞」と呼んでもいいでしょう。

 昨年の特定秘密保護法では、朝日は戦前のような軍国主義の時代になるといった情に訴える記事で紙面を埋めました。日本の民主政治では理に訴えるより情に訴える方が効果的だということを朝日はよくご存知なのです。かつて国民を戦争へと煽ったのも同じ手口ですから。

 その通りなのですが、一流新聞がこれでは民主政治はいつまで経っても成熟せず、衆愚政治から抜け出せないでしょう。まあ裏返せば、朝日は大衆をバカだと思っているということですが。

左翼の非情さ

2014-01-20 09:24:58 | マスメディア
 猪瀬氏が都知事を辞職してから1ヶ月も経った1月18日、朝日は猪瀬氏側に不利な材料が見つかったとして、5000万円問題を一面トップで蒸し返しています。このニュースにそれほどの価値があるとはとても思えません。このしつこさはいったいどこから来るのでしょうか。

 猪瀬氏の辞職直後、朝日は天声人語に「責任は知事を辞めても帳消しになるわけではない」と書き、読者の声欄には「今後、司直の手に委ねたい」という投稿を掲載しました。政党の中では共産党の「疑惑の真相究明と責任追及は引き続きおこなう必要がある」と他党にない厳しい主張が目立ちました。また市民団体は東京地検に告発しました(市民団体と言えばたいてい左翼団体を指します。プロ市民とも)。

 功績もあり、また都知事辞任という社会的制裁を受けたのだから、これ以上の責任追及はしなくてもよい、という気持ちの方も多いのではないかと思います。しかし左翼系の方々のお気持ちは少し異るようです。99の功績と1の罪でも、罪は罪であり、変ることはない、という論理なのでしょう。単純でわかりやすいのですが、理屈っぽい子供に似ています。

 最近、北朝鮮で張成沢氏らが粛清された事件がありました。もともと共産主義国家は政治的な粛清と縁が深く、スターリン(2000万人)、毛沢東(5000万人)、ポルポト(100万人)らは多数の自国民を殺戮したことでも有名です(彼らは「私は〇千万人も殺戮した」と胸を張って発表したわけではないので殺戮数には諸説あります)。また最初の共産主義革命であるロシア革命では、革命政権がロマノフ王朝のニコライ二世の家族を女子供まで含めて処刑しました。

 このような残虐なことが共産主義諸国に頻発したのは、恐怖で支配する必要があったことが理由のひとつだと思われます。その国家体制は人間本来の性格と相容れない部分が多いため不満が噴出しやすく、強権で押さえつける必要があったのでしょう。またかつての支配階級に対するルサンチマン(憎悪、嫉妬などの鬱積)が共産主義政権成立の要素のひとつであることも理由に挙げられると思います。

 少し飛躍があるのは承知の上ですが、共産主義の特質である非情な厳格さ、厳しい責任追及の姿勢は現在の左翼にも受け継がれているのではないでしょうか。その姿勢と都知事への責任追及の厳格さとは一脈通じるところがあるように思います。

 過去の遺物を捨て、非情の代わりに寛容をと言いたいところですが、一度身についたクセを拭い去るのは難しいようです。もっとも、自覚があるのかすら怪しいものですけど。

 共産主義国家には明るい社会というイメージはありません。そういえばワイドショーなどで見かける人達のうち、左よりの人は暗い顔が多いような気がします(個人的感想です)。

猫型人間と犬型人間

2014-01-13 09:44:54 | マスメディア
 「猫の手も借りたい」は忙しいことを意味しますが、猫が全く役に立たない動物であることをも意味します。「猫を統率する、猫に集団行動をさせる」は不可能なことの例として用いられますが、猫には服従心がないことを表します。また猫糞(ネコババ)は悪行を隠して知らん顔をするという意味です。忠犬という言葉はあっても忠猫という言葉はありません。「犬は三日飼えば三年恩を忘れぬ 」に対し、「猫は三年飼っても三日で恩を忘れる 」と言います。

 猫を悪く言う言葉はいくつも思いつきますが、猫を評価する言葉は思いつきません。ネズミを獲るという役割があった時代は去り、猫に実用的な価値はほとんどないと思います。にもかかわらず多くの人間が惹きつけられるのは猫にそれなりの魅力があるからでしょう。

 集団生活をしてきたイヌには人間と同様、上下関係、つまり支配・被支配の関係が不可欠であり、支配・服従という性格が備わっていますが、単独生活が主であるネコにそんなものは不要であったのでしょう。誰にも媚びず、誰の言うことも聞かない「不服従」がネコの基本精神なのです。人の思い通りにならず、それでいて気ままに甘えるところが猫好きにはたまらないのでしょう。それは谷崎潤一郎の小説「痴人の愛」のナオミの魅力に通じるものがあります。

 かわいくて人に忠実、恩を忘れず実際の役にも立つ、となれば犬と付き合う方が理に適っています。しかし猫を好む人が多いのも事実です。人の気持ちは一筋縄では行きません。犬派、猫派と言われるように、たいていは犬好きか猫好きに分かれ、重なることは少いようです。その好みはきっと性格に関係があるのでしょう。

 人間にも命令に忠実で、集団行動に適するような人がいる一方、へそ曲がりで、単独行動を好む人がいます。それぞれ犬型人間、猫型人間と呼んでもよいでしょう。むろん両極端が存在するわけではなく、それぞれの要素をどれだけ多く持っているかという相対的な問題です。

 クソ真面目な堅物は安心感がある反面、面白味に欠けます。不真面目で協調性を欠く人間は面白くても安心して付き合えません。両者がバランスよく備わっているのがよいわけです。

 真面目人間が多数を占めれば社会全体が暴走する危険が大きくなることは前回述べました。一致団結は良い意味に使われ、付和雷同は悪い意味に使われますが、全体が同一方向に進むと言う点で両者は同じです。方向を間違った場合はひどい目に遭います。

 不真面目で協調性のない猫型人間は一見、社会の厄介者に見えますが、熱狂や付和雷同に冷水を浴びせることで、社会の安定に役立っていると言えるでしょう。猫と同様、猫型人間にも存在理由があるというお話でした。

真面目という悪徳

2014-01-06 09:24:41 | マスメディア
 アドルフ・アイヒマンは第二次世界大戦中、強制収容所へのユダヤ人移送を指揮し、ホロコーストに重要な役割を果たしました。1960年、逃亡先のアルゼンチンで逮捕され、彼はイスラエルで裁かれることになります。映画「ハンナ・アーレント」は哲学者ハンナ・アーレントによる裁判レポートを描いたものです。

 アイヒマンが「私は命令にしたがっただけ」と主張するとおり、アイヒマンは極悪人などではなく、凡庸な小役人であることが明らかされるというお話です。大量殺戮というおぞましい行為に加担したのは命令に忠実なただの凡人であったわけです。ごく普通の人間が残虐な行為に手を染めていく過程にご興味のある方はミルグラム実験(別名アイヒマン実験)ご覧下さい。

 アイヒマンは命令を忠実に実行した凡庸な人間に過ぎないということになったわけですが、これは平凡で真面目な人間と言ってもよいでしょう。ヒトラーの巨大な悪事は自分で思考しない無数の真面目な部下達によってはじめて実現できたものだと言えるでしょう。

 一方、日本のシンドラーとも呼ばれる外交官・杉原千畝氏はアイヒマンと好対照の人物です。第二次大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原氏は外務省の訓令に反し、大量のビザを発給して、ユダヤ人を主とする約6000人の避難民を救ったとされます。外務省の意に反したことを行った点に於いて、杉原氏は真面目な人間とは言えません。

 アイヒマンは真面目に役割を遂行し、大量殺戮に加担したのに対し、杉原氏は本省の意に反することによって多数の人命を救いました。アイヒマンはナチ政権の下では賞賛されたことでしょうが、後に死刑となりました。一方の杉原氏は不服従が問題になり外務省を退職することになりますが、後年、といってもほとんど死後にその功績が認められます。

 突き詰めれば、真面目とは法や慣習、与えられた仕事に忠実であることです。言い換えれば真面目とは自分で考え、判断することを放棄することです。考えるのは自分の行為が法や慣習などに合致するかどうかだけです。法や慣習という命令に従うようにプログラムされたロボットに似ています。

 真面目さの負の面ばかりを強調しましたが、むろん真面目な人間にも良いところもあります。法や慣習などに忠実であるため、行動が容易に予測でき、これは信頼につながります。もっとも面白味には欠けますが。

 クソ真面目人間が多ければ社会は暴走しやすくなるかも知れません。真面目な国民性が特徴とされるドイツと日本が共に暴走し、戦争をしたことは偶然ではないような気がします。真面目さは両刃の剣と言えるでしょう。